川口俊明先生編『教育格差の診断書 データからわかる実態と処方箋』を読みました。「教育格差の診断書」というタイトルのとおり、教育格差の実態がどんなものなのか、ということをさまざまな調査をベースにしながら読むことができる本です。専門的な統計の知識がなくても、さまざまな調査の手法や分析などを読み勧めていくことができます。気になったところをメモして共有します。
第1章 日本の教育行政が実施する学力調査の問題点
川口俊明先生が書いた「第1章 日本の教育行政が実施する学力調査の問題点」では、日本で行われている学力調査の問題点が述べられています。
現在、日本では少なくない学力調査が実施されている。問題は、多くの学力調査が何のために行われているのか、よくわからないという点だ。毎年度実施されている学力調査も多いが、得られたデータは死蔵されるばかりで、教育政策や教育研究にほとんど活かされていない。恐らくこれは、多くの人が学力調査といえば、日々の学習の定着度合いを確かめる確認テストか、入試のような選抜テストといったイメージしか持っていないためだろう。そのようなイメージから見れば、確かに現在の学力調査の在り方を正当化できなくもない。しかしそれでは、あまりにも無駄が多い。
私たちが主張したいのは、学力調査は教育格差の実態を把握する有益なツールであるということだ。一つの学校や規模の小さな町村ならともかく、市あるいは都道府県の規模になると、その全体像を一個人が把握することは難しい。どの学校にどのような子どもがいるのか、そして、かれら一人一人の学力や進路を学校教育はきちんと保障できているのか。このようなことを知るには、どうしても中長期的な学力調査が必要になる。(p.16)
学力調査のリスクとリターンについて、医療のアナロジーを使って説明がされていました。僕は、公教育の役割が果たせているかを評価する際に、「きちんと学力がついているか」ということは「安定した社会を運営していくためのメンバーが育っているか」ということに繋がると思っているので、このアナロジーはすごく好きです。
p.18-19
「本書で伝えたいのは、学力調査が教育問題の万能薬になるという話ではない。むしろその逆で、学力調査は少なくない副作用のある薬と捉えた方が良い。どれほど適切に設計したとしても、学力調査には調査を実施することに伴う弊害が存在する。たとえば、学力調査で測ることのできる学力は、どうしても測りやすい読解や数学の能力に集中しやすい。これは、あくまでもそうした能力が測りやすいというだけで、それ以外の能力が重要ではないということではない。ただ、学力調査が行われると、どうしてもそこで測られている能力が重要だ、と思い込んでしまうのが人間の性である。だから、このような弊害を見て、学力調査が有害だと主張する人がいることは理解できる。
だからといって、副作用を恐れてまったく学力調査を実施しなかった場合、今度は本書で提示するような知見は、一切わからないということになってしまう。これはちょうど、医療におけるレントゲンのようなものである。よく知られているように、レントゲンは身体の中を見ることができるから、診断に役に立つものの、放射線を利用しているために(ごくわずかだが)体にダメージを与える。医療の場合、わたしたちはリスクとリターンを秤にかけて、リターンが大きいからレントゲンを選択するわけだが、学力調査もこれと似たようなところがある。数値化に伴う弊害(リスク)と、数値化することによって明らかになること(リターン)を秤にかけて、学力調査とうまく付き合っていく必要があるのだ。」
第3章 進級しても変わらない格差
松岡亮二 先生が書いた「第3章 進級しても変わらない格差」では、小学校4年生から6年生までの間で格差はどのように変化していくのかをさまざまな統計から見ていく章なのですが、「全国学力・学習状況調査の児童生徒票の質問項目は特に教科(授業)について社会調査の基礎を踏まえていない思い付きでつくられたような項目が多い」(p.54)と辛口のコメントがされていました。理由が注に書かれていたのですが、これはたしかに…と思う部分でもあります。
たとえば、令和二年度の小学校六年生向けの質問紙で、「授業では、学級やグループの中で自分たちで課題を立てて、その解決に向けて情報を集め、話し合いながら整理して、発表するなどの学習活動に取り組んでいたと思う」と複数の内容を一文に詰め込み、「当てはまる」「どちらかといえば、当てはまる」「どちらかといえば、当てはまらない」「当てはまらない」の中から一つ選ぶように求めている。課題の設定、情報収集、話し合いによる整理、発表と四つの要素のうち一つが「当てはまらない」場合、自動の解釈によって回答は変わり得るので、意味のある分析に利用することはできない。(p.84)
授業評価のアンケートなどでもときどき見かけますけど、きちんと分析まで考えた上で質問を設計してほしいと思います。こういう箇所、きちんと直して調査をしてほしいです。
第4章 学習時間格差を是正するには
数実浩佑 先生が書いた「第4章 学習時間格差を是正するには」では、統計結果に基づいて、先生からの言葉によってどのように子どもの学習に向かう気持ちを変えられるのか、ということが書かれていました。
もちろん、子どもの家庭背景にかかわらず、教師からの承認はすべての子どもたちにとって重要である。ここで主張したいのは、家庭背景的に不利な立場にある子どもは、教師から承認を得られることが、学習時間を確保することにつながる可能性があるという点である。言い換えれば、家庭背景的に不利な立場にある子どもは、教師からの承認が得られなければ、学習に向かう気持ちが生まれてきにくいということである。そうであるならば、低SES層においては特に、仮に勉強が苦手だったとしても、かれらのよいところや持ち味に目を向けていくことが重要である。(p.110)
こういう調査結果は、先生方の日々の授業へのモチベーションを大きく上げてくれるものなのではないかなと思いました。こういう調査結果や分析が、もっと表に出たらいいと思います。
第5章 小学生のグリット(やり抜く力)格差の推移
垂水裕子 先生が書いた「第5章 小学生のグリット(やり抜く力)格差の推移」では、グリットを測定した分析結果がいろいろと書かれています。そのなかで、中学受験とグリットについての関連が書かれている部分がありました。
どのような経験がグリットを高めるのか検討したところ、中学受験をするという意思決定をすることによりグリットが高まることが明らかになった。中学受験の機会はこれまで通塾や学力の不平等から議論されることが多かったが、それだけではなく子どもの非認知能力に格差を生成するということである。受験という選択を通して、一部の子どもが大きな目標に向けて粘り強く取り組む姿勢や気質を早期に育む機会を得ていると言えよう。(p.134)
これはなかなか考えさせられます。
終章 「教育改革やりっ放し」のループを抜け出すために
最後に川口俊明 先生が書いた「終章 「教育改革やりっ放し」のループを抜け出すために」で、われわれ一人ひとりが何ができるだろうということを語りかけていました。
中長期的な目標を見据えて、大きく現状を変える決断を教育行政や政治家が下せるかどうかは、私たち一人一人がその決断を支持するかどうかにかかっている。私たちがどうでも良いと思えば、現状はどうあがいても変わらない。だから本書を読んで何かしなければならないと思った方は、各自にできることをしてほしい。
教育関係者ではない一般の読者にもできることはある。「教育格差」という言葉を広めた松岡亮二が語っているように、その最初の一歩は、実態把握を大事にしている研究者の本を買ったり、政治家に投票したりすることだ。そんなことで社会は変わらないと思うかもしれないが、それは違う。この20年の間に格差社会、教育格差という言葉はだいぶ日本社会に浸透してきた。これは不況が長引き、格差がリアリティを持ったということもあるが、「格差」という言葉に人々が敏感になり、関連する書籍やウェブサイトが参照されるようになったことも影響している。一人一人の行動は、確かに社会を動かすのだ。(p.212-213)
この本を読んでの問題意識をさらに広げていくために4つのプロジェクトのサイトと、2冊の書籍が紹介されていました。
本書と同じように同一の子どもたちを追跡し、教育格差の実態や教育政策の効果を明らかにしようとするいくつかのプロジェクトを取り上げておく。教育改革「やりっ放し」の現状を変えようと考えるなら、こうしたプロジェクトが参考になるだろう。(p.216)
- 埼玉県学力・学習状況調査
- 子ども成長見守りシステム(大阪府箕面市)
- 学びと育ち研究所(兵庫県尼崎市)
- 未来へつなぐあだちプロジェクト(東京都足立区)
- 東京大学社会科学研究所・ベネッセ教育総合研究所編、2020、『子どもの学びと成長を追う――二万組の親子パネル調査から』勁草書房
- 赤林英夫・直井道生・敷島千鶴編、2016、『学力・心理・家庭環境の経済分析――全国小中学生の追跡調査から見えてきたもの』有斐閣
「教育格差」は、公教育が「安定した社会を運営していくためのメンバーを育てられているか」という面からも、もっと大きく取り組まれるべきテーマだと思っています。統計調査からの分析を多く知ることができ、より広く知ろうというモチベーションを得ることができた本でした。
(為田)