A・コリンズ、R・ハルバーソン『デジタル社会の学びのかたち Ver.2 教育とテクノロジの新たな関係』をじっくり読んで、ひとり読書会をしてきたのですが、編訳者である東北学院大学の稲垣忠 先生からオンライン対談しませんか、とお声掛けいただきました。
今回、ハッシュタグ「#デジタル社会の学びのかたち」でひとり読書会をしているときにも、稲垣先生にはコメントをときどきいただいたりもしていました。こうして編訳者である稲垣先生に直接お話を伺えるのは、めったにない機会ということで、喜んでオンライン対談させていただきました。
稲垣先生:
『デジタル社会の学びのかたちVer.2』、いかがでしたか?為田:
とてもおもしろかったです。この本を、学校の先生方はどう読むのかな、と思いながら読みました。
「6章 教育における3つの時代の変化」で、「徒弟制時代」→「公教育制度時代」→「生涯学習時代」と時代が変化していて、その裏側にはテクノロジーの変化があって…と書かれていた部分がいちばん興味深かったです。それぞれの時代で変わったことで項目が挙げられているのですが、その1つめの項目が「責任」で、「保護者から政府へ そして学習者自身と保護者へ」と変わっていく、と書かれていました。
言っていることはすごくわかるけれど、それを読んで「そうだ、学校要らない」と一気に言ってしまったらいやだな、と思いました。書かれていることの大枠は賛成だし、学習者が自分で決められる方がいいし、無駄な時間を授業で過ごすのは意味がないとは思います。でも一方で、だから学校要らないまでは言えないと思います。スパッときれいに変わるのではなく、混在すればいいと思います。例えば、オンライン学習の方がむいている子もいるし、公教育制度で学校で学ぶのがむいている人もいる。そうやって選択肢があればいいな、と思います。
それともうひとつ、これから自分が担当する教育研修では必ず言おうと思う言葉を見つけました。「9章 結局、何がいいたいのか?」で書かれていた、ドン・タプスコットさんの「子どもたちが、彼らの親の世代よりも、社会の中核を成すイノベーションについて抵抗がなく、よく知っていて、使いこなすことができるのは歴史上初めてのことです」という言葉です。これを読んで、まったくそのとおりだな、と思いました。テクノロジーも知識も含めて、科学も工学も、車の運転などのテクノロジーの活用も、いままでは大人の方が知っていました。でも、いまはテクノロジーでどんなことができるのか、子どもたちがどんなふうにオンラインでコミュニケーションをしているか、子どもたちがYouTubeを使ってどんなふうにどんなふうに勉強しているかとか、そういうことを知らないですよね。
だからこそ、それを知ったうえで、「学校はどうあるべきか」「学校の良さは何か」というのを考えなければならない時代が来ていますよ、ということを研修などで先生方にお伝えしようと思っています。稲垣先生:
実際、授業の中でどう活用するのか、というのを学校現場の先生方はやってこられた訳ですが、それとは別の次元で世の中にテクノロジーはどんどん浸透していて、それを見ないまま授業でどう使うかを頑張っていてもしかたがない。
この本は、学校の周りにある学びのことをたくさん描いていて、「それで、学校はどうしますか?」と投げかけていますよね。この本はアメリカの教員養成向けのテキストです。先生になりたい人向けの本なんですよね。著者の一人であるアラン・コリンズは、学習科学、認知科学の分野で先駆的な研究を進められてこられた方ですが、「でも、学校の学びにはあまり入っていかなったよね」という思いが反映されているのかもしれませんね(笑)
新しい教育の形として本のなかで紹介されている「メーカースペース」の話から、カリキュラム・マネジメントの話にも広がっていきました。
為田:
「メーカースペース」の話もありましたが、学校の図書室やコモンズ的なところにファブスペースを作っている学校も私学だと出てきています。こうした「新しい学び」を広く伝えるために、公教育制度をうまく使えればいいと思う。稲垣先生:
宮城県では、ファブスペースはホームセンターで見かけました。従来からノコギリなどが置いてあって自由に工作ができるスペースがありましたが、その延長線上にレーザーカッターがあったりとか、ワークショップも開かれています。全国展開もされているようです。いろんなホームセンターがファブスペース化して、今日は学校に行く日、今日は図書館へ行く日、今日はホームセンターへ行く日、というのもありかもしれない。
それくらいできれば、子どもたちの学びは豊かになるし、学校の先生方は子どもたちの学びを支えることに重点を置いて、地域と学校の関係を編み直すことができるかもしれない。そうした姿が描けるといいな、とも思いますね。為田:
ホームセンターがファブスペースの機能を持っていて、プロフェッショナルが常駐していれば、ちょっと授業でやって「もっとやりたい!」となった子どもたちが週末に没頭できる場としていいですよね。稲垣先生:
没頭する=とことんやる、という経験というのが、いまの学校だと部活以外にはあまりないかもしれないですね。部活以外だと、あとは夏休みの自由研究くらい?時間割との兼ね合いはあるかもしれないですけど、もっととことん探究してほしい。全部を既存のカリキュラムでやろうとすると、溢れてしまいますね。為田:
プロジェクトの中に教科学習の中身を組み込んで学べますよ、と書いてありましたけど、そんなに簡単じゃないですよね?稲垣先生:
大変ですよね。アメリカの州ごとのスタンダード(教育課程の基準になるもの)と教科書と授業の関係は、日本の学習指導要領と教科書、授業の関係とだいぶ違っていて、教師の裁量の範囲が大きいですよね。その緩やかさの中で、本の中に書かれていたカリキュラム・マネジメントも必要になるし、そのためのツールや環境が作られています。
でも、日本には学習指導要領があり、検定教科書があり、教師用指導書があり、年間指導計画例も用意されています。そこまで線路が敷かれている状態の中で、自分でプロジェクトをデザインして…となると、教材研究をした上で、子どもの探究を想定して単元を作り直す思い切りが必要です。
続いて、「日本の学校現場はどうなっていくと思いますか?」という質問をいただきました。
稲垣先生:
日本の学校現場はどうなっていくと思いますか?為田:
率直に言って、そんなに変わらないんじゃないかな、と思っているんですけど。いろいろな学校へ行って、いろいろな先生とお話をさせていただいて思っているのは、いい先生はたくさんいるな、ということです。ニュースを見ると悪いことばかり取り上げられますし。「先生やめます」とかもSNSで見かけることもあるけれど、優秀な学校の先生はたくさんいらっしゃって、そういう方々が日本の学校教育を支えていると思っています。
怖いのは、テクノロジーが学校に入ってきて、「オンライン授業でいいじゃん」「テストって必要?」とかいろいろ言われて、今まであった良さもまるごと全部流していってしまうことです。それぞれの学校や地域によって、望ましい学校の形は違うと思っています。それぞれの現場でチャレンジできれば、それがいちばん、「この学校はこうあるべきだ」という議論につながると思います。デジタルドリルひとつとっても、どんどん前に進めるために使う学校もあっていいし、勉強がわからなくなっている子たちが前の学年に戻れるように使う学校もあっていいですよね。稲垣先生:
どの先生もどの子どもたちも同じようにテクノロジーを使うんだったら、壮大なコストをかけて、もう一回、この本の中で言われている「(公教育制度時代の)学校制度」の作り直しになっちゃいます。デジタルになったけど、テクノロジの本質的な可能性はいかしていない。
ただ、この呪縛をほどいていくのはそう簡単ではありません。これまで築いてきた学校文化がありますし、保護者からみても「学校はこうあるべき」という思いもあります。その両方に対して、「こういうのもあるんじゃない」と伝えていくのは、オルタナティブ教育が長く続けてきたことですが、そういった動きが広がる一助に本書が役立てばと思います。為田:
今回のコロナ禍で、リモートワークなどを通じて多くの家庭が「ここまでオンラインでできるのだ」とわかってしまった気がします。稲垣先生:
家庭でこれだけのことがデジタルでできる状況で、学校がいままで学びのいちばんのインフラだったはずなのに、それがコロナで崩れてしまった。学びのインフラは、この機会にデジタルベースで作れば、コロナだけでなく、災害時などでも使えるわけですし、不登校の子どもたちや、院内学級の子どもたちにとってもインフラになる可能性が広がりますね。
最後に稲垣先生がおっしゃっていた、「学校が学びのいちばんのインフラだった」という言葉に、インフラをデジタルで補完することでどんな学びができるようになるのか、その新しい学びの形が、『デジタル社会の学びのかたち Ver.2 教育とテクノロジの新たな関係』のなかでたくさん提示されていたなあ、と思いました。
このオンライン対談を経て、再度『デジタル社会の学びのかたち Ver.2 教育とテクノロジの新たな関係』を読み直したり、読書メモをふりかえってみようと思いました。
稲垣先生、貴重な機会をどうもありがとうございました。
(為田)