教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

書籍ご紹介:『学校とゆるやかに伴走するということ』

 石川晋 先生の『学校とゆるやかに伴走するということ』を読みました。タイトルが素晴らしいな、と思っています。僕は学校の先生ではないけれど、「学校とゆるやかに伴走」するように、先生方や学校のお手伝いをしていきたいな、と思っています。全編を通して、いろいろな気付きや学びがあったのですが、そのなかのいくつかを読書メモとして共有したいと思います。

 まずは、石川先生がずっと関わってこられた民間教育運動について書かれている部分です。

これまでの民間教育運動が、本当に学校、先生、子どもの助け手になり得てきたのかという問いを、重く突きつけられているようでした。ぼくは、民間教育運動に長くかかわり、現在のセミナー開催モデルを全国に先駆けてつくってきました。しかし、この数年、肥大化し、消費財化する研修会が、ほとんど教室を先生を子どもたちを幸せにしていないのではないかと感じてきたわけです。(p.10)

 僕は石川先生とはキャリアが全然違いますが、いろいろな学校へ研修へ伺って同じようなことをときどき思うこともあります。いつも同じ人しか参加していないようなセミナーやイベントを繰り返していてもだめだなあ、もっと外に広げていくためにはどうしたらいいのかなあ、と感じることが多いです。「消費財化する研修会」という言葉が刺さります。「いま、同意してくれていない先生方に広げていくにはどうしたらいいだろう」ということを、もっともっと考えなくてはいけない。自分に何ができるかを考えさせられる文章でした。

 次に、「授業」について書かれている部分です。学校の先生ではない僕には、石川先生が使われている「授業」という言葉の重みが十分に伝わっていないかもしれませんが、それでも「学校生活の大半は授業なのです」から始まる文章に惹かれました。

包摂的な人間関係づくりが大切なのはわかるけれど、学校生活の大半は授業なのです。安部学・伊藤晃一『授業づくりをまなびほぐす ここからはじめる クリエイティブ授業論』(静岡学術出版、2017)のなかで、千葉の定時制高校の国語教師である伊藤さんは「学びで傷ついた生徒は学びでしかケアできないのではないか」と問題提起しているのですが、まったくその通りなのではないかと感じます。学びで傷ついた子どもたちは、やはり本物の学び体験(を保障する授業)でケアされることがなければ、本当にケアはされないはずです。
(略)今年は校内研修支援の機会がたくさんありました。子どもたちの人間関係の「しんどい」教室がたくさんあります。地を這うようにして頑張る先生方の姿には心を揺さぶられます。ただ、研究・研修的に考えると疑問が湧き起こることはたくさんあります。国語の授業なのに、国語の専門性は二の次になって、子ども同士が交流して素晴らしいといったことに回収されてしまう…特別活動と、国語の話す聞く活動や、書く活動との切り分けが、実は先生のなかでも明確になっていない…子どもたちのつながりづくりは大切だけれど、それは深い学びのなかでこそ、本当は育まれるものです。地方の切り捨て疲弊が深刻化するなかで、子どもがその負の連鎖を、自分で断ち切っていける学ぶ力をしっかり育ててあげてほしい。そのためにしっかりした授業を積み上げてほしい、そう願うのです。(p.90-91)

 ここでも考えさせられるのは、「学校の先生ではない自分は、外部から学校・先生にとって何ができるのか」という問いです。授業の専門的なスキルも、教科の専門性もない僕に何ができるのか、考えさせられます。

 本のタイトルになっている、「学校とゆるやかに伴走する」石川先生の校内研修への入り方のパターンが書かれていたのも、参考になりました。石川先生は4つのパターンを挙げています。

ぼくの「校内研修」への入り方を考えてみると、概ね4つのパターンがあります。
①招聘された教室を観て、担任(担当)の先生と振り返りをする。
②招聘された教室で子どもたちに授業をする。
③校内研修の講師として授業づくりや学級づくりに関して提案する。
④校内研修そのもののファシリテーションを担当する。
4つのパターンのうち、ぼくにとって自分の興味関心を十分に刺激される入り方は①と④です。(p.94)

 僕は①をこのブログの授業レポートでやっている感じです。校内研修のお手伝いをするというところでは、③と④をやることも多いですが、たぶん石川先生ほど深く関われてはいないかなと思います。プログラミングの授業やセサミストリートカリキュラムの授業では②もやっています。こうしてパターン化してそれぞれについて自分でどう取り組めるかを考えたいなと思いました。

子どもたちのコミュニケーションの力が育っていないので心配だ。話し合いが一向に深まらない。どうしたらいいでしょう」は、つまり、先生方が子どもたちのコミュニケーションが促進する場面を摘んでしまっているからではありませんか、と問いかけ直したくなる感じなのです。
前作の一番最初の回でぼくが書いたことのひとつは、「教師の善意が子どもを苦しめている」ということでした。そこに立ち返って事態を捉え直してみると、要するに、極小規模校では、「教師の善意が子どもの学びを止めてしまう」という事態が起きやすいなあということだと思っています。
ちなみに、これは極小規模校だと目に見えてはっきりと表れるというだけで、大きな規模の学校でも、あらゆる場面で起きている事態だなあと感じています。
それで、こうした事態は、現実の問題としては多くの場合、学校の内部のリソースだけで気づくことが難しいようです。渦中にいる人たちが、内部で進行する事態を客観認知するのは難しいということでしょうか。もちろん、ぼくの願いは、そうした状況を実感を持って掘り起こせる教員、現場になっていってほしいということです。
しかし、多くの場合は、そのきっかけは、校内リソースの活用では難しく、外部刺激を必要としているようです。また、外部刺激は1度2度では、ちょうど整体を受けた後のようにすぐに戻ってしまうようです。ですから、ある程度の継続的な刺激を必要としている場合が多いと感じています。
そこにこそ、「伴走」の意義が生まれてくるわけですが、そのような学校とのかかわり方ができる人は限られています。また、職業としても現状では成立がなかなか困難です。
ぼくもその辺りで、ときには結構大きめの徒労感に包まれながら、全国の学校で伴走しています。(p.121-122)

 学校をサポートするために、「どんな授業があるのか/ありえるのか」をたくさん知らなければならないと思っています。そのために、できるだけたくさんの授業を参観したり、自分自身でも授業をする場があればチャレンジしたり、ということをしています。これが、いまできる自分なりのやり方かな、と思いながら本を読みました。いろいろなことを考えさせられる本でした。自分にできることを、がんばっていこうと思います。

(為田)