教育ICTリサーチ ブログ

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書籍ご紹介:『ヘルシンキ 生活の練習』

 朴沙羅さんの『ヘルシンキ 生活の練習』を読みました。朴さんは、2020年2月にフィンランドヘルシンキへ移住して、2人のお子さんと一緒に暮らし始めたのですが、その日々を読むことができます。2人のお子さんの名前はユキとクマで、フィンランドへ渡った2020年当時は、ユキが6歳、クマが2歳です。保育園、就学前教育の様子なども描かれています。フィンランドの子育ての場面での先生方とのやりとりがとても素敵だと感じました。
 もちろん、日本と違う部分も多くあるのですが、表面的な対応の違いというよりも、考え方の違いが非常におもしろいと感じました。いくつか、おもしろいと思ったところを読書メモとして共有します。

 朴さんがヘルシンキ子育て支援のサービスを受けたときに、相談員さんが、「ソサエティに入るのはどうですか?」と提案されたときの話があります。そこから、「ママ友作り」「友達作り」の考え方の違いについて書かれている部分は、コミュニティ作りにおいて参考になると思いました。

ソサエティに入りましょう」というアドバイスは、「ママ友を作りましょう」というアドバイスと少し違う。ママ友を作りましょう、という提案だと、実際に友達を作るのは私の自己責任のような気がする。でも、「ソサエティに入りましょう」という提案は、私とその「ママ友」なる人との一対一の関係を想定していない。私の都合によって入るのも出るのも自由な緩い団体が複数あり、個々人は行きたいときにそこに行くだけだ。
ユキの担任の先生は、保護者会のとき「友達作りについて、先生方はどのような工夫をなさっていますか?」と質問されて、「友達を作ることにフォーカスするというより、一緒に遊ぶ瞬間を増やすことにフォーカスします」と答えた。友達だから一緒に遊べるのではなくて、一緒に遊ぶ人を(そのとき、その場で)友達と呼ぶのか。その発想は私にはとても新鮮だった。(p.141-142)

 もうひとつ、「おわりに」のなかで、ユキとクマの先生たちが「二人の人格や才能ではなく、スキルを評価した」と書かれています。できないことを「スキル」として、子どもの頃から一生かけて練習していくものとして捉えているのも、学校で何を身につけてもらいたいのか、ということを考えさせられます。

ユキとクマの先生たちは、二人の人格や才能ではなく、スキルを評価した。あとになって、私はその理由が「教員のマニュアルで人格を評価してはいけないことになっているから」だと教えてもらった。
才能や人格は批判できない。それは、ある程度まで持って生まれたもので、それによって生じるメリットもデメリットも、本人の自己責任だと思われている。しかし、スキルはいつからでも、いつまででも伸ばすことができる。どのスキルをどのていど伸ばすかは個人が自己決定できるし、周囲はそのスキルの練習を手伝うことができる。
個々人の振る舞いや人格を問題にすると、その問題を解決するのは個々人に任される。でも、技術や、個々人に共通した事柄に注目すると、自分も(おそらくは誰かと一緒に)それを解決したり練習したりできる。(p.267-268)

 フィンランドの幸福度の話など、よく日本社会がダメなこととの比較で語られることが多いのですが、それについても実際にヘルシンキで生活を始めたからこそ感じることを、朴さんが「おわりに」の最後の方に書いています。ここがいちばんズシンと来ました。

私たちが苦しい理由は、私たちが思っていることと、違うところに起因しているのではないか。二〇二〇年の三月から、私はぼんやりとそう感じている。
そもそも、日本に住んでいる人にとって、フィンランドに住んでいる人たちの幸福度が高いかどうかなんて、そんなに重要なことだろうか。そうではなく、本当に言いたいことは、「私たちは不幸だ」ということのほうではないのだろうか。それ、フィンランドに興味ないんじゃありませんか。
フィンランドは、いやフィンランドだけでなく世界のどの国のどの場所も、残念ながら、日本の不幸を語るときの枕詞ではない。住めば都だけれども、どんな都に住んでいたって、隣の芝生は青く見える。フィンランドにはフィンランドの嫌なことがあり、日本には日本のいいところがある。それだけの話だ(だいたい、フィンランドと日本のどこに、誰と、どの程度の収入で、どんな在留資格で住んでいるかでだいぶ幸福度は違いそうだ)。
日本にいて不幸だと感じるのなら、その不幸は日本に属する私たち自身で解決しなければならない。フィンランドの幸福度に寄与する法制度は、仕組みも歴史も理念も、日本とあまりに違うので、参考にできるところはほとんどないだろう。日本に住んでいて自分たちを不幸だと感じるとき、フィンランドがその不幸さを語るときの比較対象として持ち出されるのであれば、検討すべきはフィンランドの幸福度(だけ)ではなく、日本にいることが不幸だと感じる比較の仕方だ。(p.271-272)

 日本で「苦しい」と思っている人を少しでも減らすために、学校教育というフィールドで自分は何ができるかを考えていこうと思いました。

(為田)