教育ICTリサーチ ブログ

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『シン・ニホン AI×データ時代における日本の再生と人材育成』ひとり読書会 No.1「3章 求められる人材とスキル」

 安宅和人『シン・ニホン AI×データ時代における日本の再生と人材育成』を読みました*1。サブタイトルに「AI×データ時代における日本の再生と人材育成」と書いてあるし、3章「求められる人材とスキル」と4章「「未来を創る人」をどう育てるか」のところは、学校でどのようなことを学べばいいのか、というヒントに溢れていると思いました。先生方にさまざまな機会にご紹介したいと思うとともに、自分としても、もっとスキルを高めていかなければいけないと思うところもたくさんありました。以下、メモを公開します。

3章 求められる人材とスキル

 Society5.0などのキーワードは、教育の世界でも多く言われていますが、それが具体的にどんなスキルを求めていくことになるのか、ということが具体的に書かれています。特に興味深かったのは、社会が変わってきて、その社会で必要になる「現代のリベラル・アーツ」はどのようなものなのか、ということです。

現代のリベラル・アーツ(p.172)

  • 母国語(日本語)
    • 明確に考えを表現し、伝え、議論することができる
    • 正しく文章や相手の言っていることが理解できる
  • 世界語(英/中)
    • 明確に考えを表現し、伝え、議論することができる
    • 正しく文章や相手の言っていることが理解できる
    • 情報のタイムリーな収集能力
    • 言うべきことを敬意を持って的確に伝える力
  • 問題解決能力
    • 問題設定力
    • MECEに切り分け、整理する力
    • So Whatを繰り返し意味合いを出す力
    • 以上を踏まえ、実際に結果につなげる力
  • データ×AIリテラシー
    • 分析的、データドリブンな思考力と基本的な知見
      • 数量的分析力
      • 統計的素養
      • 情報科学の基本
      • データエンジニアリングの基本

資料:安宅和人「データ時代に向けたビジネス課題とアカデミアに向けた期待」応用統計学セミナー 2015/5/23*2

 これらのリテラシーレベルのことを、はやければ中学校、遅くとも大学の1年生・2年生までに身につけることが望ましい、と安宅さんは書いています。

リテラシーレベルは中等教育、もしくは高等教育(大学学部)の最初の1、2年までに身につけることが望ましい。身につけると専門課程での自由度が桁違いに上がる上、一気にそれぞれの領域を刷新する入口の力を持つことになるのが第一の理由。分析的な思考力、データリテラシーを身につけるには若いほどよいのが第二の理由だ。実際には何歳でも学ぶことはできるが、空気のようにデータやAIを触れるようになろうと思うならば30代前半までに習得するのがオススメだ。(p.172)

 現代のリベラル・アーツを身につけたとして、「それで大丈夫」というわけにはいかない。そこを前提として、「では、人間に残る役割とは何か」ということが続きます。

データ×AIリテラシーを母国語、世界語、問題解決能力と共に持ったとする。そうすればもう特に問題ないのだろうか?
残念ながら答えは否だ。データ×AIの力を解き放てば、情報の識別、予測、また目的が明確なことの実行系はことごとく自動化される。これは確かに偉大なことだが、これらの業務から解き放たれてなお、人間に残る役割がある。自分なりに見立て、それに基づき方向を定めたり、何をやるかを決めること、また問いを立て、さらに人を動かすことだ。
(略)
また、ほしい姿をデザインする際のベースになるのは、夢を描く力、妄想力、そして自分なりに見立てる力だ。さらに、キカイが出してくる指示をそのまま伝えても多くの人は動かない。まずは自分が腹落ちした上で、それぞれの人たちに、これまでの文脈、これからのビジョンも合わせて、受け手に合わせて説明し、腹落ちしてもらい、動かすのも僕らの大事な仕事になる。(p.174)

 AIやテクノロジーによって人間の仕事がどう変わるのか、については、AIにできないところが説明され、人はどんなことをしなければならないのかが書かれています。

AIを人間の有能なサポーターにするには、こうした言葉と意味の付与を行い、人間の概念体系をAIに教えられるかが勝負なのだが、今のところその見込みは立っていない。人間の知的生産は、そう容易にAIに置き換わるようなものではないのだ。我々を極めて強力にアシストするキカイが生まれたと考えるのが正しい。
ちなみに、AIの発達で記憶や知的訓練はいらなくなるかと言えば、答えは「NO」だ。たとえばバレーボールのルールを知らないまま、試合の一部分を観戦したところで、どういう局面を迎えているのかを把握することはできない。

キカイのサポートがあることと、知識の必要性はまったく別だ。むしろ情報処理のスピードが増す分、各自が知覚できる領域は拡張し、そのために理解できることが望ましい領域も広がっていく可能性が高い。よく希望的観測と共に言われる「AIがあれば知識は必要なくなる」という話と真逆だとも言える。(p.194-195)

 我々は、今後一人ひとりが知覚を深め、「見立てて決めて伝える力」を高めていかなければならない、ということが書かれています。知覚を鍛えるために、2つのマインドセットが重要だと安宅さんは書いています(p.195)。以下にまとめてみました。

  1. ハンズオン(hands-on)、ファーストハンド(firsthand)の経験を大切にすること
    • 伝聞から知覚を高めることは極めて困難。「百聞は一見に如かず」。
    • 明らかに間違っていること以外は試してみる、手と足を動かし、頭も動かすことが大切。
    • 人の感想は気にしない。実際に自分がどう感じるか、どう考えるかを大切にする。
    • 書籍であれば、批評を読むのではなく、自分でその書籍自体を読む。
  2. 言葉、数値になっていない世界が大半であることを受け入れること
    • 世の中の大半は数字にも言葉にもなっていない。仮に誰かにされているとしても、自分では数値化・言語化できていない部分にほとんどの情報があると受け入れられない人は、知覚できることも限定的になってしまう。

 この2つのマインドセットを持った上で、具体的な事象に向かい合うコツが5つ紹介されます(p.196-198)。

  1. 現象、対象を全体として受け止める訓練をする
  2. 現象、対象を構造的に見る訓練を行う
  3. 知覚した内容を表現する
  4. 意図的に多面的に見る訓練をする
  5. 物事の意味合いを深く、何度も考える

データ×AI的な力を解き放った上で、人間らしく、豊かな知覚を持ち、豊かな課題解決を行いたいなら、できるだけ多くファーストハンドな経験を積むべきである。そして、さまざまなことを直接感じ、考え抜く経験を幅広く持つべきだ。それがすべて次の経験の質を高め、自分なりの価値創造の地力を本質的に深めていくことになる。
理解しようとする領域を狭めることは避けつつも、まずは1つでもいいから半ば変態的にこだわる領域を見つけることが、深い知覚を持つ領域を生み出す近道なのではないだろうか。(p.198)

 ここまで読んできて、「さて、ではこれは日本の学校教育だと、どうすればいいのかな…」と考えさせられます。学習指導要領や政府から出されているメッセージなどの中では、これに近いことも多く語られているようにも思いますが、現場の、日々の授業のなかにこれを落としていくということになると、まだまだ時間がかかりそうに思います。安宅さんのメッセージは以下のようなものでした。

以上の視点で考えると、これまでの日本の教育選抜過程で重視されてきた学習内容、学習材料、能力のいずれもが深いレベルで刷新されるべきときが来ていることがわかる。
教育の受け手からすると、これまでは暗記した項目を増やすことが人より秀でるカギであり、そのために新しい概念や対象を引っかかりなく吸収する力、いわば「覚える力」が大切であった。教える側、そしてその人間を受け入れる社会を主語に取ると、意識するとしないとにかかわらず、この「覚える力」を圧倒的に重視してきたということだが、その時代は終わる。今まで生み出そうとしてきた能力の大半は、本来キカイのほうが得意な能力だ。
本当の意味で肉化された知識、知恵がなければその人なりの価値の創出が難しい時代に突入することを考えれば、肌感覚で価値を理解でき、操作できる領域を増やすこと、それを表現する力が極めて大切になることは自明だ。
計算機のように隙間なく微細な文言や差を覚えるよりも、このように生々しい質感を感じられる領域、大局的に理解できる領域、自分なりの言葉や表現にすることができる領域を増やすことが大切だということだ。したがってスポンジのように吸収するよりも、むしろ対象とのぶつかり合いを通じて、自分なりに肉化する力や気づく力が遥かに大切になる。(p.199)

 僕は、日本の学校教育の全部がダメだとは思っていません。うまくいっている部分も多いと思っています。ただ、うまくいっている部分が多いからこそ、「変わる」ことが難しいのだとも思っています。
 「覚える力」はないよりはあった方がいいと思いますし、「覚えた→できた!」という体験は初等教育中等教育では自己肯定感や自己有用感を高めるきっかけにもなると思っています。一方で、この「覚える力を圧倒的に重視してきた」というのも否めないとは思っています。いかに、「覚える力」を持って知識を増やし、その知識を使う場面を作るか、ということが重要なのだと思っています。
 また、どんどん社会の課題を考えて、そのための解決策としてテクノロジーで何ができるかを考えて、自分でどんどん試行錯誤してみるというような場面が、教室で行われればいいと思っています。教室には多様な家庭環境で育った子どもたちがいて、その子たちをずっと見ている先生方がいるからこそできることもあると思います。先生方が、この『シン・ニホン』で書かれているような状況認識があり、そこに向かうような機会をたくさん授業や学級経営のなかに埋め込むことで、できることはたくさんあるのではないか、と思っています。

 3章を読み終わって、先生方とディスカッションをしてみたい気持ちになりました。だからこそ、ちょっと長めに引用もしました。本をすべて読み通すほどではなくても、どんなことが書いてあるのかのとっかかりを知るだけでも、変わる教室・変わる学校は多くあると思っています。そうしたお手伝いをしていければ、と思っています。

 No.2に続きます。
blog.ict-in-education.jp


(為田)

*1:400ページ以上で、図版や表が多く含まれているので、Kindleよりも紙の方が読みやすいと思います。

*2:本では図版になっています。図で見るほうがずっとわかりやすいです。