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書籍ご紹介:『集まる場所が必要だ 孤立を防ぎ、暮らしを守る「開かれた場」の社会学』

 ニューヨーク大学 パブリック・ナレッジ研究所の所長 エリック・クリネンバーグさんの『集まる場所が必要だ 孤立を防ぎ、暮らしを守る「開かれた場」の社会学』を読みました。
 コロナ禍でオンライン(仮想空間)でのコミュニケーションも増えてきたとはいえ、物理的に「集まる場所」が重要でなくなった、ということではなく、むしろオンライン(仮想空間)でのコミュニケーションができるようになったからこそ、オフライン(物理空間)で集まる場所の重要性は高まってきている、ということを示してくれる本でした。読書メモを共有したいと思います。

 この本で「集まる場所」として重要だと言われているのは、「社会的インフラ」*1です。「日本語版への序文」のなかで「社会的インフラ」の重要性が書かれていますが、そのなかには学校や図書館なども含まれていました。

社会的インフラとは抽象的な概念ではなく、図書館や公園、遊び場、学校、運動場、市民農園など集団生活を条件づける物理的な場のことだ。社会的インフラをきちんとデザインして、構築し、維持し、投資すれば、私たちはコミュニティーとしても、個人としても、幅広い恩恵を受けられることが、私の研究でわかっている。逆に、その努力を怠れば、大きな代償を払うことになる。

社会的インフラはどんなときも重要だが、現在の日本では、差し迫った関心事だろう。なにより、パンデミックが続くなか、どうやって日常生活を取り戻すかは喫緊の課題だ。国内各地には、どのような屋外の集まりの場があるか。図書館や学校のような屋内の公共スペースは、利用者の健康とウェルビーイングを守るようにデザインされているか。必要な人すべてに開かれているか。きちんとメンテナンスがされていて、活気や魅力が維持されているか。利用者がぜひ参加したいと思うようなプログラムが用意されているか。
(略)
日本は長い間、技術的発展のハブとなってきたけれど、最近は、デジタル文化に力を入れすぎだという声も聞く。そのせいで、とりわけ若者たちはオンラインの世界にどっぷりつかり、かえって孤立して、現実世界に関与しなくなっているというのだ。インターネットは社会的インフラではないと私は思うし、日本を含む多くの国が抱える分断や断絶の問題を解決してくれないことも間違いない。(p.9-10)

 この後、序章「社会的インフラが命を救う」「第1章 図書館という宮殿」「第2章 犯罪を減らすインフラ」と続いていて、パンデミック時や災害時、それから日常生活のなかで、図書館、空き地、高級住宅街化などシャキ的インフラがどのような役割を果たしているのかが紹介されます。

 その後にくる「第3章 学びを促すデザイン」では、学校が「集まる場所」になることでどのような意味があるのかについて書かれていました。

学校のしくみやプログラムは、学校の最大の役割である子どもの教育にも影響を与える。学校の物理的な設計と組織は、教室で、キャンパスで、そして地域で学習がどのように起こるかに大きな影響を与える。これはエリート大学でも小学校でも同じだ。伝統的なオックスブリッジ(イギリスのオックスフォード大学とケンブリッジ大学)のカレッジモデル(学生とチューターが小規模な部屋で学ぶしくみ)と、現代的な大学のトレンド(オープンな多目的スペースで、偶然の出会いと多様な学際的コラボレーションを奨励するしくみ)の違いがいい例だ。
(略)生徒の成績にもっとも大きな改善が見られるのは、教員と生徒の対面交流が定期的に起こる場所を強化した学校に集中している。お互いをよく知ることができる小規模で親密な環境は、子どもたちが市民としての寛容性とコミュニティ構築のスキルを学べる場であるだけでなく、アカデミックな学びの理想的な場でもあるのだ。(p.124-125)

 学校そのものが「集まる場所」ではありますが、学校のなかでも集まる場所になる教室は大事だな、と改めて思いました。もちろん、教室以外にも、ラーニング・コモンズ的なものを作ったり、いつも同じメンバーでいるだけでなくクラスが違う人や異学年の人と混ざれる集まる場所を作ったり、物理的にどんな学校を作るかも大事だと思わされます。

学習とコミュニティの両方を充実させるキャンパスをつくることは、リソースが乏しい公立学校の世界では、比較的新しい課題かもしれないが、大学(現代社会で特大の役割を持つ存在だ)では、昔から中心的な関心事だった。(p.131)

 一方で、オンラインでの学びの場を作る動きも活発になっていることも紹介されています。

オンライン大学が、長期的な学位付与課程では成功していない理由の1つは、強力な社会的インフラが欠けていることにある。コーセラやユダシティーに登録する学生(2016年の時点ではコーセラが2300万人、ユダシティーが400万人)は、大学教育を価値あるものにする人間関係やキャリアネットワークを構築できなかったし、大学生活を非常に豊かなものにしてくれるキャンパス活動にも参加できなかった。オンライン大学は、この欠陥に対処しようとしてきた。(p.151)

 そのなかでミネルバ大学のしくみについて紹介がされていました。ミネルバ大学が、どんな「社会的インフラ」を用意し、仕組みの中に取り入れているのかが書かれています。

私がサンフランシスコのダウンタウンにあるミネルバ大学の本部を初めて訪れたのは、2017年の春のことだ。ミネルバは設立2年目の終わりにさしかかっていた。最高プロダクト責任者のジョナサン・カッツマンによると、彼のチームが、現代のライフスタイルと学習スタイルにあうように、ミネルバのインフラを設計したという。「ミネルバには2つの信条がある」と彼は言う。(p.152-153)

 ここで書かれている2つの信条は、以下の2つです。ミネルバ大学が、「集まる場所」として社会的インフラを重視していることがわかります。

  • 「第1に、学生たちは都市に住むのだから、その街の機能とアメニティーを最大限に活用するべき」(p.153)。図書館やカフェ、コンサートホール、劇場、スポーツ施設などを大学が建設する必要はない。
  • 「第2に、教えるテクノロジーが対面ゼミと少なくとも同レベル、できればそれよりも優れた教育経験を提供する」(p.154)

 続いて、図書館が「集まる場所」としてどんな意味を持つのかというエピソードが書かれていました。ここで語られていたエピソードは、学校の図書室の可能性も示しているのではないかと思います(そしてまた、大人としてどんな振る舞いをするべきではないのかについても考えさせられました)。

ティーンエイジャーになると、シャロンにとって図書館はますます重要な場所になった。「マイクロフィルムで昔の新聞を読んだり、昔の映画も見られたりすると知ったとき、とても興奮したのを覚えている。職員はいつも許可をくれて、多くの質問はしなかった。それはとても重要だった」と、シャロンは言う。「『なぜこれをしたいの?』とか『まだ小さいからあの機械は触っちゃだめ』なんて言う職員はひとりもいなかった。私は内気だったけれど、変わり者のように扱われたことは一度もなかった。私のことを特別だとか、頭がいい子だと扱う人もいなかった。みな、とても中立的だった。それは大きな恵みだったと思う。図書館は、特定の方向に私を励ます場所ではなくて、(自分の興味を探ることが)できる場所だった。誰かに見られているとか、許可が必要だとか感じることなく、好きなことを自由に追究できると感じられた」
シャロンの生活で、そんな場所はほかになかった。家では、両親が彼女の選択を監視していたし、シナゴーグでは道徳的なプレッシャーを感じるばかりで帰属感は得られなかった。学校では教職員が物事を決めつけた。でも、図書館は、彼女の関心をほぼすべて満たしてくれた。(p.160-161)

 「第5章 違いを忘れられる場所」では、「集まる場所」が、混成集団を作り、人々が混ざる場所があることで、民主主義を育んでいくことが書かれていました。

「私たちは異なる政治世界に住んでいる」と、ハーバード大政治学者で法学者でもあるキャス・サンスティンは指摘している。「もちろん、混成集団が万能というわけではない。……しかし混成集団は2つの望ましい影響をもたらすことがわかってきた。第1に、人は競合する意見にさらされると、総じて政治的寛容性が高まる。……第2に、(さまざまな階級や人種が)混在すると、人は競合する原理に気がつき、自分の主張がもっともらしい反論にあうかもしれないことに気づく可能性が高まる」。サンスティンは、昔ながらの研究と実験を引用して、工業都市時代のサウスシカゴに見られたように、人は通常の社会的境界線を超えて交流すると、自分の集団に対する強い愛着と、他者に対する偏見が低下することを示した。その上で、日常的に自分とは異なる民族や階級の人や、対立する意見にさらされているほうが、民主主義政治はうまく機能すると、サンスティンは主張する。
サンスティンの著書『#リパブリック:インターネットは民主主義になにをもたらすのか』は、インターネットとソーシャルメディアに注目して、その「しくみ」が、私たちをエコーチェンバー(反響室)に閉じこめ、集団的アイデンティティーを強化すると警告する。デジタルデバイドは私も心配だが、それは問題の一部にすぎない。分断を促すしくみは、コンピューターやスマートフォンの画面だけでなく、私たちが日々、コミュニティをつくったり解体したりする歩道や道路、そして共有スペースにも及んでいる。それは社会的インフラ全体に忍び込み、私たちが共通の基盤(コモングラウンド)を構築しなければならないときに、私たちを分断する。(p.212-213)

 一人1台の情報端末が配備された小学校・中学校で、「デジタルでできることは何でもデジタルでやればいい」となることで、多様性が失われて分断される方向にならないように気をつけることは必要だと思います。

二極化を育むのは、物理的空間とコミュニケーションにおける、社会的な距離と分離だ。これに対して接触と会話は、私たちに共通の人間性があることを思い出させてくれる。それが反復的で、共通する情熱と関心をともなうときはなおさらだ。ここ数十年のアメリカは、さまざまな民族が混在する労働者コミュニティを持つ工場や工業都市を失った。住宅地は、階級による分離が進んだ。企業は、金持ちの子ども相手に、プロのように競争的なスポーツクラブを運営し、低所得の子どもたちは置き去りにしてきた。ケーブルテレビのニュース番組やラジオのトーク番組は、視聴者の考えを補強することばかり言うようになった。
こうした環境は、各集団内の社会的絆を強めるが、社会的な橋わたしを困難にする。それが二極化を促し、私たちを分断するのだ。市民的生活を可能にする共通の目的意識や、同じ人間なのだという感覚を取り戻すのは容易ではない。よりよい社会的インフラを構築しなければ、こうした問題は克服できないだろう。そこに私たちの民主主義の未来がかかっている。(p.244-245)

 社会全体の話をしていますが、ここで書かれている部分は、そのまま学校に置き換えても同じことが言えそうだなと感じます。学校が子どもたちの「集まる場所」としても、保護者が「集まる場所」としても機能することは、地域にとって大切なことだと思っています。デジタルの良さを使いこなしながら、「集まる場所」としての機能を失くさないようにしなくてはならないな、と感じました。

(為田)

*1:原文だと「Social Infrastructure」ですかね。ソーシャル・メディアとかと同じように「ソーシャル・インフラ」と読み替えながら読んでいました