哲学者の谷川嘉浩さんの著書『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』を読みました。スマホをもつようになって、いつでもネットに接続されていて、SNSやアプリから四六時中通知が来て、すぐにリアクションを取りたくなって…という状況に僕もあります。ときどき、自分でコントロールできていない気持ちになることもあります。そんな時代に、自分たちの思考がどんな影響を受けているのかを教えてくれる本だと思いました。子どもたちも中学生くらいからはスマホを持ち始めます。また、学校では一人1台の情報端末を使ってもいます。学校の情報化を進めていく過程で考えた方がいいことも多く書かれていたと思っています。読書メモを共有します。
常時接続だからこそ考えるべき「孤独」というキーワード
「おわりに」のなかで、谷川さんが自分でこの本の内容を一言でまとめている箇所がありました。
この本の内容を一言でまとめろと言われたら、「いきなりパブリックにつながってばかりいずに、プライベートな享楽をしっかり追求することも必要なんじゃないか」ということになるでしょうか。スマホ時代においては、孤独を経由してこそ、適切なつながりが可能になるはずです。(p.301)
スマホでネットに常時接続されている時代(もう、常時接続でなかった時代のことを思い出せません…)に、「孤独」をどう自分で保つのかが大事だなと感じさせる言葉でした。「孤独を経由してこそ、適切なつながりが可能になるはず」、この距離感でのネットとの繋がりをどう体感させるかは、学校でのデジタル活用で考えたいことだと思っています。
スマホ時代の「孤独」について、「おわりに」のなかで詳しく書かれている部分のメモを共有します。
「孤独」と「趣味」という概念に即して整理してみましょう。スマホやSNSというメディアが形作った習慣によって、寂しさに自分がハイジャックされるような時代に私たちは生きています。その時代に失われがちなのが「孤独」です。
孤独は、自分一人でいて、自分自身と対話している状態を指しています。すぐに注意を分散し、マルチタスキングに陥らせるスマホは、孤独を確保しづらくさせており、その意味で「孤独」は、スマホ時代においてますます大切になっています。しかし実のところ、無条件に頼れるものでもありません。アーレントが指摘するように、孤独は、いつでも寂しさに転化しかねないからです。例えば、自分を抱えきれず、他者を求めてしまう寂しさは、ナルシスト的に孤独の重要性を訴えるという姿を見せることもあります。
世の中には、「孤独であれ」「孤立を恐れるな」「友だちはいらない」という本や記事や、「自分の美意識を信じろ」「自分の内なる声を聞け」というメッセージを発する自己啓発がありますね。いずれも、他者や世界をノイズとして退け、自分の中に閉じこもることを促すレトリックです。「自分はうまいことやれる」という自負心にすがり、「他人なんてどうでもいい」「自分の心に聞きさえすればいい」と他者をあえて軽視する姿勢は、転倒した形で「寂しさ」を示しているのではないでしょうか。他者を求めている自分を否認するあまり、他者をノイズとして退けているところがあるように思うのです。これは本書が語る孤独と何の関係もないどころか、敵意の形をとった寂しさの現れにほかなりません。(p.295-296)
いつでも繋がれるスマホ時代だからこそ、「孤独」は大事。でもそれは他者を軽視する姿勢とは違う。孤独でいる時間と、他者と強調する良さを実感する時間と、両方を学校では体験してほしいな、と思いました。
もうひとつ、「あとがき」のなかで、谷川さんが読者にインストールしてもらいたかったことを書いている箇所を共有します。
本書を通じて読者にインストールしてもらいたかった想像力は、一度引用した、シェリー・タークルのこの言葉に象徴されるものです。
もっと感情を働かせるために、そしてもっと自分らしく感じるために、私たちは接続する。ところが、どんどん接続しながら、私たちは孤独から逃避している。そのうちに、隔絶して自己に意識を集中する能力が衰えていく。[……]ひとりきりでかんがえる習慣がないと、自信をもって堂々と自分の考えを話題にのぼらせられなくなる。協調する力がつちかわれない。革新も生まれない。それは常時接続によって衰えていく、孤独を味わう能力を要するものだからだ。*1
(略)現代の経済文化の苛烈さ、そして、私たちの注意を分散させていくスマホがもたらす消費環境の周到さは、私たちの主体性を、つまり、自分という「物語」を所有し、主役でいようとする力を奪っているように思われます。
そのために必要な「孤独」とそれを確保するための「趣味」について、本書は論じてきたわけですが、もちろん「孤独や趣味は大事だ」と口にするだけで、すべてに片がついて万事解決というわけもありません。議論や探求は、どこまでいっても不十分で足りないものです。(p.308-309)
引用されている、シェリー・タークル『一緒にいてもスマホ』も読んでみようと思いました。
便利に使えるスマホが、便利になりすぎてスマホに使われている状態になってしまえば、「私たちの主体性を、つまり、自分という「物語」を所有し、主役でいようとする力を奪って」いくことになってしまうと思います。子どもたちには自分の物語の主役でいてほしい。気をつけなければいけないことだと思います。
このあたり、『コンヴィヴィアル・テクノロジー』のなかで読んだ「2つの分水嶺」の話にも通じると思うし、『自己啓発の罠』にも関連することだと思いました。
自分も手放してしまっている気がする「ネガティヴ・ケイパビリティ」
「孤独」と並んで、この本を読んでいてすごく気になったキーワードは、「ネガティヴ・ケイパビリティ」です。「ネガティヴ・ケイパビリティには、二つの方向性があることがわかります。」(p.194)と書かれていた箇所をまとめます。
ネガティヴ・ケイパビリティの2つの方向性
- 「趣味に取り組んでいるとき、作り育てているものは、私たちのコントロールや理解をはみ出しています。(略)ネガティヴ・ケイパビリティは、生み出しつつあるものを安易に意味づけて特定の位置に落ち着け、一つのイメージに追い込むようなことをしないために必要な力だと言ってもよいでしょう」
- 何かを読む/理解するときにも、ネガティヴ・ケイパビリティという言葉は使われる。「安易に対象を把握できると思わないこと、自分は完璧ではないと疑う姿勢です。つまり、謎や問題にふれたとき、それを素早く説明したり、簡単に納得したりせず、常に滲み出す謎の存在を感じたまま、謎や問いを自分と一緒に連れ歩く姿勢です。
検索したらすぐに答えがわかる。一方で、検索して出てこない問いについては「わからなかった」「載ってない」で終わらせてしまう、そういう学びの活動になってはいけないと思います。安易に意味づけしないこと、問いを持ち続けること、ネガティヴ・ケイパビリティの2つの方向性、どちらも学校の授業の中で培ってもらえたらいいなと思いながら読みました。
しかし、これまでの議論からわかる通り、説明がすぐにはつけがたい事柄に対峙して、即断せずにわからないままに留め、飲み込まずにとっておく力は、常時接続を可能にする諸々のテクノロジーや習慣が奪い続けています。現代人は、ネガティヴ・ケイパビリティを手放しているのです。
そうして育まれるのは、権威や手近な言説に答えを求め、自分の不安に説明をつけてほしがる人間です。ビジネス、社会、政治、私生活、いろいろな領域で「わかった気になりたい人」に思い当たるはずです。他人事ではなく、おそらく自分の顔が思い浮かんだんじゃないでしょうか。
それでも、消化しきれないものに接したり、難しいことを許容したり、時々はモヤモヤした状態になったり、釈然としないまま我慢して、安易な理解に飛びつかないでいたりすることは、とても大切なことだと本書で繰り返し指摘してきました。(p.195-196)
自分自身も、ネガティヴ・ケイパビリティを手放してしまっているかもしれないなと思いながら読みました。こうした観点をもって、授業をしていくのは必要だと思いました。
「孤独」と「ネガティヴ・ケイパビリティ」の2つのキーワードを教室での子どもたちの様子と重ね合わせながら授業をしていきたいと思いました。このタイミングで読めてよかった本だったと思います。
(為田)