教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

書籍ご紹介:『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』

 稲田豊史さんの『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』を読みました。映画やドラマを早送りで観る人たちが増えてきているそうです(僕の周りにはあまりいないですが…)。昔、ビデオをテレビで見ていた頃には映像は倍速再生できても音声は倍速再生できなかったように思いますが、いまや1.2倍速の映像に、1.2倍速の音声を聞くことができて、YouTubeNetflixでも動画の再生速度を選択できる機能が実装されています。スマホでいろいろな動画を見ていたら、だいたい早送りで観られるようになっているということだと思います。

 自分の周りに映画を早送りで観ている人がいないから、「映画を早送りで観るなんて…」と信じられない思いでいたのですが、早送りで観る人たちの側にはそれなりの理由があるのだ、ということがたくさんのコメントと共に書かれていました。背景にあるのは、「作品が多すぎる」ことと、「コスパ(コストパフォーマンス)を求める人が増えたこと」の2つだと書かれていました。
 さまざまな配信サービスのおかげでたくさんの作品を観られるようになり、さらにスマホタブレットなどのデバイスによってどこでも観られるようになっているので、「観なくてはいけない作品がたくさんあり、それを全部チェックするには効率よく観ていかなくてはいけない」ということだそうです。

 「それで作品を楽しめるのか?」「2時間の映画は、2時間かけて観るように作られているのに…」と思いますが、このあたりは、「たくさんの作品を観るために、コスパを意識して効率的に観なくてはいけない」という人たちと価値観のズレがあることなので、交わらない議論だと思います。

 「作品」と「コンテンツ」、「鑑賞」と「消費」という言葉の違いについてまとめられていました。

彼らは映像作品と呼ばない。「コンテンツ」と呼ぶ。
映画やドラマといった映像作品を含むさまざまなメディアの娯楽を「コンテンツ」と総称するようになったのは、いつ頃からだったか。こうなると、「作品を鑑賞する」よりも「コンテンツを消費する」と言ったほうが、据わりはよくなる。
ここで、言葉の定義を明確にしておこう。
「鑑賞」は、その行為自体を目的とする。描かれているモチーフやテーマが崇高か否か、芸術性が高いか低いかは問題ではない。ただ作品に触れること、味わうこと、没頭すること。それそのものが独立的に喜び・悦びの大半を構成している場合、これを鑑賞と呼ぶことにする。
対する「消費」という行為には、別の実利的な目的が設定されている。映像作品で言うなら、「観たことで世の中の話題についていける」「他者とのコミュニケーションがはかどる」の類いだ。
(略)
ゆえに当然ながら、ある映像作品が視聴者にとってどういう存在かによって、「コンテンツ」と呼ばれたり、「作品」と呼ばれたりする。どういう視聴態度を取るかによって「消費」なのか「鑑賞」なのかが異なってくる。(p.25-27)

 映画やドラマなどを「コンテンツ」として「消費」している人が増えていくと、今度は映画やドラマをの作り手側が、「消費」される視聴スタイルに合わせて作品が作られるようになっていきます(見てもらわなければしかたないので、これはしかたないか…)。
 「つまらなかったから連続ドラマを話ごと飛ばして、最終話だけ観る」とか、「全部セリフで説明してほしい」というコメントがこの本のなかでは紹介されていました。結果、どんどん「消費」されることにあった「コンテンツ」が増えていくことになります。結果、「作品」を「鑑賞」することができなくなってしまうのではないだろうか、とも思います。

 映像メディア、娯楽だけの話ではないと思うのです。学校の授業も、「消費されるコンテンツ」(=やらなければいけないこと)になってしまうのでは、という危機感もあります。消費されるコンテンツなら、デジタルドリルだけやればいいし、他の人と交流をしなくてもよくなってしまうかもしれません。ただ単にコンテンツを消費されないように、「鑑賞」(=ただ味わう、ただ没頭する)というような学びの活動を作っていかなくてはいけないな、と感じます。

 昔、塾業界にいた頃に、講義ビデオを1.2倍とか1.5倍で見ている生徒たちに「ライブの授業の方がよくない?」と訊いたら、「いや、わかりやすいし、ビデオの方がいいっす」と言われたのを思い出しました。授業は、こなさなければいけない「コンテンツ」だったのだな、といまは思います。

 「コンテンツ」として「消費」するのではなく、楽しんで「鑑賞」したいと思える「作品」に出会えるような体験を、授業や学習活動のなかで子どもたちにしてもらいたいな、そんな場を作らなければいけないと思いました。

(為田)