教育ICTリサーチ ブログ

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書籍ご紹介:『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』

 レジーさんの『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』を読みました。イントロダクションとして表紙の折返しのところに書かれている文章が、とても刺さります。

社交スキルアップのために古典を読み、名著の内容をYouTubeでチェック、財テクや論破術をインフルエンサーから学び「自分の価値」を上げろ――このような「教養論」がビジネスパーソンの間で広まっている。
その状況を、一般企業に勤めながらライターとして活動する著者は「ファスト教養」と名付けた。「稼ぐが勝ち」と言い切る起業家、「スキルアップ」を説くカリスマ著述家、他人を簡単に「バカ」と分類するインフルエンサーなど、人々に支持されてきた言葉を分析し、社会に広まる「息苦しさ」の正体を明らかにする。

 この感じ、学校で子どもたちと話をしているとなんとなく感じることがあります。そんなときに、「これってなんかよくない感じするよな…」と思います。この「なんかよくない」を言語化してくれていたので、読書メモを共有します。

 ファスト教養とはどんなものなのか、「10分で答えが欲しい人たち」がどんなコンテンツを摂取しているのか、ということが多く紹介されます。
 学ぶこと自体はもちろん悪いことではないのですが、「ファスト教養」で気軽に学べることしかできないようになると、学びの質が変わってしまうのではないか、それが社会のあり方を変えてしまうのではないか、ということが書かれていました。

努力して何かを学ぶこと自体に咎められる要素は何もない。その成果が金銭的な対価として着実に個人に返ってくる社会のあり方は、一つのあるべき姿ではある。成果を出すために世の中においてニーズのあるスキルに絞って勉強するのは戦略として正しい。それを進めるための効率的なやり方を志向するのは当然で、時にはリスクをとってルールすれすれのチャレンジを行うことも必要かもしれない。
ただ、「自分が生き残ること」にフォーカスした努力は、周囲に向ける視線を冷淡なものにする。また、本来「学び」というものは「知れば知るほどわからないことが増える」という状態になるのが常であるにもかかわらず、ファスト教養を取り巻く場所においてはどうしてもそういった空気を感じづらい。(p.124)

 そのうえで、どんな教養、どんな学びが必要なのかということが書かれていました。「知れば知るほどわからないことが増える」ことを学ぶことは、学校の学び、特に中等教育の段階で伝えていきたいところだと感じました。

知識を得ることで全能感を持ち、他者に対して優越感を覚えながらサバイブに対する自信を深める学びのあり方は、どうにも幼稚に感じられる。堀江や橋下がたびたび強調する「シンプルな決断」というのは、本来は何かを学べば学ぶほど難しくなってくるはずである。だが、ファスト教養的な世界観が浸透した先にあるのは、未知のものへの畏れや例外的な出来事への配慮、違う立場に対する想像力や思いやりが醸成されることなく、ビジネスシーンで求められる「シンプルな意思決定」ばかりがあらゆる場面で持て囃される社会である。ここまで本書で名前を挙げてきた面々は、この先形成される可能性のあるそんな社会のあり方についてどう考えているのだろうか。「自分は何があっても生き残れる」という自信をベースに、「社会なんてどうでもいい」という本音を開陳するのだろうか。そして、彼らが掲げる価値観にシンパシーを覚える人たちは、「自己責任」「スキルアップ」「公共との乖離」といった発想を内面化して(その一方では「いつか脱落するかもしれない」という恐怖感に苛まれながら)何者かになるべく突き進むのだろうか。
別にそれでも構わないというスタンスも当然あるとは思うが、本書ではそんな社会の姿はさすがにバランスを欠いているのではないか?という立場をとりたい。自身のスキルアップのために教養を使うというファスト教養としての学びのあり方を一定レベルでは肯定しつつも、社会への眼差しや品格も含めた次の時代の教養のあるべき姿を検討していきたいと思う。(p.125-126)

 最後の「自身のスキルアップのために教養を使うというファスト教養としての学びのあり方を一定レベルでは肯定しつつも、社会への眼差しや品格も含めた次の時代の教養のあるべき姿を検討していきたいと思う」というところ、本当にそうだなと思います。

 子どもたちに、ファスト教養のコンテンツを見ないように言えばいいという話でもないと思います(というか、そんなことすべきでもない)。ファスト教養が広まる背景が何なのかを理解したうえで、どんなことを子どもたちに伝えていかなければいけないのかを考える必要があります。

ファスト教養が広まる一番大きな背景は個々人が抱える不安感である。これが払拭されない限り、誰が何を言おうともいまの潮流は続いていく。人々の不安に寄り添い、それを少しでも軽減させるような論こそ、アンチファスト教養、もしくはポストファスト教養の考え方として意味を持つはずである。(p.184-185)

 では、「ポストファスト教養」の考え方はどんなものになるのか。「自己啓発ではなく知識の習得によって現実にアジャストしつつも既存の物差しを疑う態度を忘れない」ことだと書かれていました。

自己啓発ではなく知識の習得によって現実にアジャストしつつも既存の物差しを疑う態度を忘れないポストファスト教養の哲学は、先鋭的なアイデアを生み出す層を下支えする土壌を作るうえでも有効なはずである。(p.223)

 さらに具体的に書かれている部分も続きます。

小さな態度変容を馬鹿にしないこと、自分自身への問いかけを忘れないこと、そしてそれが積み重なった先にある大きなうねりを信じること。それこそがポストファスト教養の哲学を駆動するために必要なマインドセットである。(p.224)

 「小さな態度変容を馬鹿にしないこと」「自分自身への問いかけを忘れないこと」というのは、賛同できる言葉です。こうしたマインドセットを学校の場でどんなふうに身につけてもらえるのか、考えていきたいと思いました。

 今回の『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』と合わせて、『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』も読んでみるといいと思います。

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 ファストであっても、「いろいろなことを知ろう、学ぼう」としているのはいいことだと思いつつ、その先にもっと楽しみや難しさがあるのだ、ということを知ってもらえるように、その先へ導けるような場をつくりたいなと感じました。

(為田)