谷口隆さんの『子どもの算数、なんでそうなる?』を読みました。子どもが算数をする様子を丁寧に観察して、その誤り方はどうしてそうなったのか、ということを紹介してくれる本です。算数を子どもに教えたことのある人は、「あるある…」と思うことが多いのではないかと思います。
算数の教え方の研鑽という視点で読むのでもいいと思うのですが、それよりも本の最後に書かれていた、「誤り」についてのところがとてもよかったので、読書メモを共有したいと思います。
本書では、子どもが算数をする様子を観察し、その奥にある思考を推理、分析してきた。その中心に「誤り」があった。そこでここでは、誤りとは何であり、それにはどういう意義があるのかということについて、私なりの見解を述べて結びとしたい。端的には、「誤りは宝物」であると考えている。(p.127)
「誤りは宝物」だというのは、たしかにそうだと思いつつ、学校の授業で30人とか40人を相手に、一定のことを習得してもらうときには、「誤りは宝物」といつでも思えるものでもないと思っています。谷口さんは、誤りのレベルとそれに応じた支援の方法を最後に論点整理としてまとめてくれています(p.135)。以下に、「誤りのレベル」とその「対処と支援」まとめてみました。
- 不注意や手順の単純なミス、不正確な記憶など、算数の内容としては特段の深みはないもの
- 【誤りを正していく】
原因は丹念に探る。
反復練習によって解答の精度を上げる。
時間を計る、ゲーム性を取り入れる、など集中力を高める工夫をする。- 概念の不正確な理解や不十分な思考、内容の把握が不十分であることに起因するもの
- 【誤りを面白がる】
本人の考えを丁寧に聞き出す。その中にある部分的な正しさを承認しつつ、なぜ全体としては誤りであるかを分析し、考え方のどこが誤っているかを見つけ出す手助けをする。- 誤りであることに気づくことが本人には容易でないような、根本的なもの
- 【誤りを大切にする】
誤りは安易に訂正しない。正誤にこだわるより、子どもの話を聞いたり、考える素材を提供したりして、知的な探究活動にいそしめるよう励ます。
「誤りを正していく」「誤りを面白がる」「誤りを大切にする」という3つの支援が示された後、「誤りへの対応が少し厳しすぎる」というふうにも書かれています。
振り返ると、今日の我々の文化は、誤りへの対応が少し厳しすぎるように思われることがある。誤りに過剰な反応をせず、長期的な視野とゆとりをもって接することはできないだろうか。
誤りを価値のないものとして退けることは、築かれつつある足場を壊すことを意味する。また、誤りを叱責することは、誰でも誤りから出発して正解への道をたどるという学習の根本的な原則に抵触し、本人が学ぶ方法そのものを喪失する危険性を孕む。他方、善意から教え諭すようなものであっても、本人の思考を置き去りにして誤りを訂正するのでは、次の認識に歩みを進めるための足場を、十分な大きさと強さに育てることができない。
誤りを見守ること。それは考えることの価値と誤りのもつ可能性を十分に認め、それぞれの誤りの効果ある活かし方について考えを巡らせることである。(p.134)
ここで書かれていることは、算数だけに当てはまることではないと思います。「誤りを正していく」「誤りを面白がる」「誤りを大切にする」という3つの支援は、他の教科の指導にも使えそうだと思います。
学校で活用されているデジタルドリルで、アダプティブ・ラーニングを実現している授業では、「誤りを正していく」支援はデジタルドリルで可能だと思いますが、「誤りを面白がる」「誤りを大切にする」という支援こそ、先生が行っていく必要がある部分だろうなと感じました。
(為田)