教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

『学校で育むアナキズム』ひとり読書会

 池田賢市さんの『学校で育むアナキズム』を読みました。「アナキズム」という言葉は、「無政府主義」という訳語で学校では習った記憶がありますが、読めば読むほどそんな感じではありません。「アナキズム」と検索したら、Wikipediaでは「国家や宗教など一切の政治的権威と権力を否定し、自由な諸個人の合意のもとに個人の自由が重視される社会を運営していくことを理想とする思想」と書かれていました。この説明を読んで、この本に書かれたことを読み返すと、学校の中にある「権威と権力を否定」することや、「個人の自由が重視される社会を運営していく」ということに関連づけることができるように思いました。読書メモを共有します。

 全体的に、「いまの学校はこれでいいのか?」という問いかけを多くされていると感じました。すぐに変えられないし一人で変えられるものではないですが、だからといって「このままでいい」となってはいけないと思うので、こうした言葉もきちんと心に留めておきたいと思います。

現在、学校こそが、人々が日々普通に行っている助け合いとは逆のことを子どもたちに教え込んでいるのではないかと危惧する。他者は「信頼」できないのであり、自分がしっかりとしなければ、いつ競争に敗れてひどい目にあうかもしれない、と。だから、一生懸命に勉強して、他者よりも優位な地位を得なければならない、と。つまり、弱肉強食の社会の中でいかに生きていくか、それへの適応が子どもたちに求められているというわけである。
しかし、競争あるいは闘争的環境の中で生きていくことが、子どもたちの未来なのだろうか。(p.31)

 学校では、テストの成績などいろいろな面で確かに競争的な環境があるとは思います。ここから、「アナキズム」へと話が繋がっていきます。

学校は、常に闘争的社会観を子どもたちに伝えようとしている。しかし、実は、子どもたちは、すでに「自然」な生き方でこれに対抗している。不登校(登校拒否)は、その最も典型的な事例と言えるだろう。また、子どもたちは、教員の知らないところで独自の社会関係を構築していっている。そもそも子どもたちの社会生活にとって、学校はそのほんの一部を構成しているにすぎない。ただ、これがまるで「全部」であるかのように錯覚させられている現状がある。この認識は、すぐにでも修正しなくてはならない。
本書では、子どもたちはみんなアナキストなのだ、ということを前提に考えていきたい。これは、子どもを信じるということである。学校は、その範囲は狭いが、集団生活の場である。だからこそ、アナキズムの実践にとって、好都合の場所でもある。信頼関係の構築、臨機応変な問題解決など、学校では、これらのことをわかりやすく体験できる。ただ、これを阻む力も強い。それでも、アナキズムは、「無理しなくても大丈夫」、「安心していい」というメッセージを送ることができる。それは、学校を変革する重要な指針となるはずである。(p.39)

 「無理しなくても大丈夫」「安心していい」というメッセージを送れるのだったら、アナキズムもいいかな、と思いました。このあたりから、「アナキズム無政府主義」とかじゃ全然ないじゃん、政府出てこないじゃん、と思っていたのですが、政府=国家の話も出てきます。アナキズム=政府なき社会の枠組みを、教育の世界に当てはめています。

国家が抑圧的な権力機構であることはわかったとしても、現状では、「国家」がなかったとしたらどうなるのか、という具体がなかなか思い浮かばない。あるいは、思い浮かぶのは、すでに述べたように「闘争状態」で治安の乱れた弱肉強食のおぞましい状況でしかないがために、なかなか国家を前提とした思考枠組みから逃れられない。「国家なき社会」のこのようなイメージは、教育の世界に当てはめれば、「校則なき学校」と言えるかもしれない。強制力のある統制的な規則を外から与えなければ、大混乱となる、という不安と恐怖からわたしたちは簡単には脱出できない。わたしたちは、他人のことを、そして自分のこともあまり信用していないのかもしれない。何か守るべき規則を誰かから与えてもらっておかないと、何をするかわからない危険な存在だ、と。しかし、これは実態とは異なるはずである。(p.62)

 学校の中で権威をもつ先生が決めてきた「校則」を、子どもたちが自分たちで作るという活動は最近多くニュースなどでも取り上げられます。こうした活動についても書かれていました(ちょっと辛口かな…?)。

生徒自身が「校則」をつくるという取り組みは、権利を尊重している教育のあり方として紹介されることがある。マスコミでも、良いこととして報道されている。しかし、この取り組みは、整頓いあることが伝えられていないと、非常に危険なものとなる。
つまり、現状の校則が禁止事項の羅列であるという点を批判的に検討せずに、子どもたちに校則をつくるように促せば、どんな禁止事項が必要かを話し合うことになってしまう。子どもたちに自らの自由を束縛する方法を考えさせることになるわけである。しかも、結果として決められた校則は、「みんなで決めたのだから」という理由で絶対的に護るべきものだと意識させられていく。教員も、そのような態度で接するだろう。
また、つぎのような状況の生み出し得る。ある中学校の教員に聞いたことであるが、みんなで話し合って決めてもらったところ、これまでよりも厳しい内容になってしまったらしいのだ。このこと自体は、実は珍しいことではない。しかし、その教員は、「子どもたちが決めたので、こっちとしては口出しできないんですよ」と。疑ってはいけないと思いつつも、はじめからこうなること(厳しい禁止事項をつくるだろうということ)をわかっていて、権利主張の実践と称して、わざと自主制定させたのではないか。(p.117-118)

 学校での権力関係は、大人としては意識していかなければならないと感じます。

権力関係は、教員による子どもの支配という形で教室の中にあらわれるのだが、それがほとんど自覚されないままに進行することがある。子どもの自主性を育てるというねらいをもっていながら、実際には、子どもを教員の支配下に置いてしまうことがありうる。(p.126-127)

 この後、例として、子どもたちの発表している様子を先生が「うなずきながら聞く」というのは、子どもは安心するが、先生は「評価者(=権力者)」になっているのだ、ということが書かれていました。

 他にも、学校の活動でされる「いいところ探し」についてもアナキズムの視点から書かれていました。

「いいところ探し」を恒常的にやっていくと、最終的には、相互監視システムを構築していってしまう。「いいところ」を探すことは、「悪い」ところを探していることと原理的には同じである。子どもたちは常に他者から「いい・悪い」を判断する「まなざし」を向けられ、その行動をチェックされ続けていくことになる。(略)
なお、「いいところ」はそのうち必ずインフレを起こす。したがって、なるべく細かいところまで行動をチェックしていかないと、「いいところ」として報告することがなくなってしまう。(p.128-129)

 多様性が尊重される学校は望ましいところだと思うけれど、「学力の多様性」は認められていないのではないか?ということも書かれていました。

今日、「多様性」の尊重は、教育政策の大前提とされている。しかし、学力の多様性だけは、なかなか認められない。たとえば、走るのが速い子もいれば遅い子もいる、ということは許容されても、分数の計算のできる子もいればできない子もいるよね、ほんとにいろいろだよね、とは語られない。小学校6年生に対して、50メートルを全員10秒以内で走らせるとの目標が建てられることはないだろうが、掛け算九九や分数の計算などは全員が理解し、一定の計算ができるようになることが目指される。その習得に著しい差が生じれば、「学力格差」と言われ、解決すべき課題とされていく。これはいったいどうしてなのだろう。この違いに唖然となる。(p.147)

 ICTを活用した個別最適化された学びについても書かれていました。こちらもだいぶ辛口です。ICTを活用するからといって、先生方が何も教えなくなるわけではないので、先生方の教え方によって克服できるところは多いように思いますが、一方で考えさせられる部分も多くありました。

文部科学省は、子どもたちひとり一人に「個別最適化」されたICT環境の実現を目的とした「GIGAスクール構想」を進めている。これを受けて各地で子どもたち一人に一台、タブレット型情報端末が配布されていくことになった。また、2021年6月に教育再生実行会議(第十二次提言)が「ポストコロナ期における新たな学びの在り方について」を示し、そこでも、タブレット端末の学習履歴等のデータを活用して個別最適化された指導を実現していくことなど、デジタル化が教育の新たな可能性を拓くと謳っている。これらは、新型コロナウイルス感染症対策に便乗して進められたという印象もあるが、いずれにしても、「多様性」を尊重するという観点から、教育政策の中では一定の評価を得ている。しかも、このようなICT活用によって、受け身な学び、自己完結型の学び、画一的な指導から脱却できるとされている。
しかし、これは、実際にはその謳い文句とは逆の結果となる。個別に最適な学習だと言っているのだから、普通は、子どもたち自身が、何を学ぶのか(学びたいのか)、その学びは何を目指すのかということについて問う機会がなくてはならない。そうでなければ、どうしてもその子に最適だとわかるのか。ところが、文部科学省がイメージしているのは、このような意味での最適化なのではない。それは、与えられた学習のルートに乗って、それぞれの子どもがその途上のどこに位置しているのかを測定し、より効率的にゴールに近づくにはどのような課題をクリアしなければならないのかを見える形にした、という意味なのである。「個別最適化」された学習では、設定された目標(もちろんここには多少の複数性はある)に対して各人がどのように学習していくかに関心が向けられている。ここでは、学びに対する自律性や自由、自己決定が奪われている。一見すると積極的に学習しているように見えても、実際には、受け身の学びが強要されていく。
実際、ICT機器を使用した学びは「受け身」そのものである。自分の学習進度に応じて、解説や問題が提示され、それをひとつ一つクリアしていく作業。ひとつクリアするとまたつぎが提示され、終わることがない。他者と協力したり、他者との関係の中で自分の認識を位置づけたりはしないので、そこでの学びはあくまでも「自己完結」となる。個別に最適だと言っているのだから、自己完結に決まっている。それゆえに「画一的」にならざるを得ない。たぶん、文部科学省は、みんなが一斉に同じ授業を受けている場面を「画一的」と呼んでいるのだろう。しかし、タブレットの中で、みんなが同じ内容・目標に向けて、その進度に応じて、それぞれの時間で学習していることは「画一的」ではないのだろうか。個別化されてしまっているので、これまで以上に「画一的」であることが完成されていると思うのだが。みんなで一斉に学習が行われているのなら、そこには絶対に「ブレ」が生じる。画一的に学習は進まない。理解の早い遅いもあるし、子どもそれぞれが学習内容に刺激されて、あるいは相互に学習状況を確認し合うことで、さまざまに学習場面は展開していく。「個別最適化」は、このような授業の「生きている場面」を否定する。少なくとも、そのような「動き」には関心は払わない。
要するに、ここでの「学び」には、予期しないことは起こらない。想定外の「はみ出し」が起こらないようになっている。きれいに順序立てられた個別課題が提示されるだけである。一方で、これとは別の枠組みで「協働的な学び」も確保すると言われているが、二度手間ではないか。そもそも「学び」は一人では成立しない。おそらく、この点の認識があるかないかが、方針の決定的な違いを生んでいるのだろう。そして、このことが教育への権利を保障できる環境(子どもたちが安心して過ごせる環境)をつくれるかどうかのカギになる。(p.153-155)

 いろいろな学校へ伺って授業を参観させてもらうと、少し教室がかっちりし過ぎているかな、と思うこともときどきあります。「学校が子どもたちにとってどういう場であるべきなのか」ということは、学校のなかで合意をしてあるほうがいいだろうな、と思います。その際に、この本で書かれている「アナキズム」の視点は役立つように思いました。

子どもたちは、学校の中だけで生きているわけではない。いろいろな人間関係の中で生きている。つまり、いろいろなネットワークが子どもたちを介して合流してくる場が学校である。そこでは、さまざまな「常識」が相互に衝突することになる。それを「矯正」したり「指導」したりするように働きかけてはならない。むしろ、その衝突によって、これまでの価値を相対化し、調整を経て、そこから新たな価値が見出されてくる、そういうメカニズムが作動する場として、学校はとても適しているのだから。(p.220)

 最後にまた、タブレット端末について書かれている部分を紹介します。

アナキズムは、人間の自然なあり方であると、これまで繰り返し述べてきた。そして、その生き方にどこか懐かしささえ感じるとすれば、それは、わたしたちにとって「おしゃべり」が自然なことだからだろう。また、それが今日では十分に保障されない状況だからこそ、懐かしく感じるのだろう。確かに、わたしが子どもだった頃の教室は「うるさかった」。職員室も「うるさかった」。何か重要なことを議論していたのではない。ただ「しゃべり」、そのことで感情が交換されていた。
いまの教室は「静か」である。みんなタブレット端末に向かっている。そもそも「おしゃべり」は、教員から注意されるもっとも典型的な指導対象である。「静かにしなさい!」が口癖の教員もいる。クラスの中では、まわりにたくさんの人がいるのに、教員から指示されるまで話し合ってはいけない。職員室も、同様である。キーボードをたたく音だけが響く。「おしゃべり」は、いつでもどこでもできなければ意味がない。
とはいっても、本当にいつでもいいというわけではない。「しゃべって」いく中から自然と節度が立ちあらわれてくる。これが、アナキズム体験である。子どもは、「おしゃべり」が好きだ。それは、音声によるものだけに限らない。身体全体で「しゃべって」いる。もちろん、「おしゃべり」のメンバーに教員も入っている。いろんな「おしゃべり(表現)」が交換されることで、教室という生活空間で起こる問題も、調整を重ねながら解決されていく。しゃべりたくなければ、それはそれで問題がないことは、言うまでもない。(p.227-228)

 逆に、タブレット端末があるからこそアナキズム体験が生まれることもあるように僕は思っていますが、「おしゃべり(表現)」が交換される余白が学校にあったほうがいいな、というのは賛成です。

 「アナキズム」という言葉についてイメージがガラリと変えてくれた本でした。また、学校がどういう場であってほしいか、ということについても考えさせられました。

(為田)