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『「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実を目指して』 ひとり読書会 No.3 「第2章 多様性に正対し、自立した学習者を育む教育の創造」(奈須正裕 先生)

 奈須正裕 先生と伏木久始 先生の編著『「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実を目指して』をじっくり読んで、ひとり読書会として読書メモをまとめていこうと思います。今回は奈須正裕 先生が書かれた「第2章 多様性に正対し、自立した学習者を育む教育の創造」です。

一人ひとりを大切に扱う教育への志向

 第2章の最初には、改めて、「個別最適な学び」と「協働的な学び」とは何のためのものなのかが書かれています。

「個別最適な学び」と「協働的な学び」は対極に位置すると思われがちだが、一斉指導が等閑視した子どもの多様性に正対し、それがむしろ一人ひとりの子どもがその子らしく学び育つ基盤となり源泉となることを目指すなかで発展してきた点では軌を一にしている。多様性にこそ価値を見出し、一人ひとりのかけがえのなさを大切に扱う教育への志向は、正解主義や同調圧力を克服し、すべての子どもが自立した学習者として育つ道へと私たちを導くであろう。(p.22)

 ここで奈須先生が書かれている言葉を読むと、一時期よく見かけた「デジタルドリルを使って個別最適に学習を効率的にして、その後でプロジェクト学習を行って協働的な学びを…」というカリキュラムは、ちょっと違ったんじゃないか、と思わされます。
 個別最適な学びも、協働的な学びも、「一人ひとりの子どもがその子らしく学び育つ基盤となり源泉となることを目指すなかで発展してきた」ということが大事です。どんな教材を使っていても、どんなカリキュラムが組まれていても、「一人ひとりの子どもがその子らしく学び育つ」ようになっているの?と問いかけることが大事だな、と思いました。

デジタルドリルについて

 一人1台の情報端末が配備され、デジタルドリルを活用している学校も増えてきています。「デジタルドリル」と言っても、サービスによってできることはけっこう違うのですが、「ITS(知的学習支援システム Intelligent Tutoring Systems)が得意なこと、苦手なこと」の部分で、デジタルドリルについて考えさせられることが書かれていました。

臨機応変な見とりや対応は、現在のITSには不可能である。テクノロジーの進歩と普及は、教師の存在を脅かしたりはしない。むしろ、教師にしかできないことや、そこで発揮すべき専門性を浮き彫りにしてくれる。(p.25)

 この部分、デジタルドリルの研修のときには何度も何度も先生方にお伝えした部分です。デジタルドリルを使うからといって、先生方の授業中のタスクがなくなるわけではなく、むしろ専門性を発揮できる新しいタスクが増える、というイメージだと思っています。

ないものねだりをして、ITSを貶めようとしているのではない。ITSが得意なことと苦手なことをしっかりと意識し、カリキュラムの全体構造のなかで適切に利用していくべきだと思うのである。そのためにも、まずは教師として子どもに提供したい学習経験の全体像を描き、そのなかでITSを用いるのが効果的な部分をはっきりさせたい。ITSは利用可能な手段の1つであり、それを用いて教育をデザインするのは教師であることを忘れてはならない。(p.25)

 ITSでもデジタルドリルでも、先生方が教育をアップデートするためのツールとして使ってほしいと思います。
 最後に、「デジタルドリルと言っても、何でも良いものなわけじゃないぞ」ということが書かれていました。

なお、現在AIドリルとして流通しているものの中には、文字どおりのドリル機能のみで、GPチュータのような良質な学習支援機能をもたないものもある。それは紙のドリルをコンピュータに載せただけの代物であり、およそ個別最適な学びと呼ぶに値しない。導入に際し、しっかりと吟味する必要がある。(p.25)

 導入の際には、決裁者は気をつけなければなりません。「一人ひとりの子どもがその子らしく学び育つ」ことに繋がるデジタルドリル導入になるように、吟味しましょう。

学校教育のパラダイムシフト

 「第2章 多様性に正対し、自立した学習者を育む教育の創造」のキーワードとなる、学校教育のパラダイムシフトについて書かれていました。学校教育は、「教える」システムから「学ぶ」システムへと変わっていかねばならない、と書かれています。
 そのうえで、p.27に学校教育の過去・現在・未来のモデル図が掲載されています。以下にまとめてみたいと思います。

学校教育の過去・現在・未来のモデル(p.27-28)

  • 口頭継承パラダイム
    • 経験と知識を、教師から生徒へ口頭で一方的に伝達する
  • 現在のパラダイム
    • 教師は、情報の伝達者及びゲートキーパー
    • 経験と知識を教師が生徒へ伝えるとともに、生徒からも学んだり、生徒同士のやり取りも仲介する
  • 情報技術パラダイム
    • 知識データベースやエキスパートシステムに、生徒も教師も等しくアクセスでき、各自がいま現在必要とする経験や知識と出合い、自立的・個性的に学びを進めていく。
    • 生徒相互の間で自発的に生じる対話や協働も伴いながら学びが展開する。
    • 「これまで伝達者、ゲートキーパーの役割を担い、情報のコントローラーを全面的に掌握していた教師は、その役割を学びのデザイナー、コーディネーター、ファシリテーターへと大きく変貌させていく」(p.29)
    • デジタルの実装で「大いなる進化を遂げ」る(p.37)

 現在は2つめのパラダイム。近代学校教育は、口頭継承パラダイムよりもずっと効率的でたくさんの人に経験と知識を伝達することで、公教育システムとして成功してきた。これを、次の「情報技術パラダイム」へ進んでいかなくてはいけない、という話です。

このようなパラダイムシフトを実現するには、子どもたち一人ひとりが経験や知識に自在にアクセスできる物的な環境整備が不可欠である。逆にいえば、従来の学校において生徒が教師を介してしか経験や知識にアクセスできなかったのは、なにも教師がいじわるをしていたわけではなく、それらを教師の手で教室にもち込むのが最も効率的で有効であった、ないしはそれに替わる適切な方法がなかったからにほかならない。(p.30)

 この文脈で、GIGAスクール構想による1人1台端末がどういう意味をもつのか、ということが書かれます。

「情報技術パラダイム」という名称が示すとおり、テクノロジーの発展と普及がこの状況を一変させる。教師を介さずとも知識データベースやエキスパートシステムを介して、子どもたち一人ひとりが経験や知識に自在にアクセスできるようになったのである。(略)
これこそがGIGAスクール構想の真価であり、個別最適な学びに際し「答申」が「子供がICTも活用しながら自ら学習を調整しながら学んでいく」と語る真意である。1人1台端末がほぼすべての授業で主体的・個性的に使われている学校と、週に何回かのみ、しかも一斉画一的にしか使われない学校の違いは、このパラダイムシフトの実現状況に大きく依存している。(p.30-31)

子どもたちが自立的に学ぶ、個別最適な学びの教育方法

 子どもたちが自立的に「学ぶ」システムを構築するために、「環境による教育」について説明がされます。

子どもが自立的に「学ぶ」システムを構築する個別最適な学びの教育方法は環境による教育であり、教師の主要な仕事は学習環境整備になる。そこでは、教師は極力「教える」ことをしないが、もちろん、子どもがしっかりと「学ぶ」ことには責任を負う。具体的には、一人ひとりの子どもの学びの様子を丁寧に見とり、また整備した環境が十分な効果を上げているかを吟味する。うまく学べていない子どもがいた場合には適宜個別指導も行うが、より重要なのは、そのような事態をもたらした学習環境の不備の改善である。それにより、次にその環境と関わって学ぶ子どもの学習成立を目指す。(p.33)

 ただ教科書を渡しただけでは、子どもたちは自力で学び進めることができない理由も書かれていました。

単に教科書を手渡しただけでは、子どもは自力で学び進めることができない。子どもの側に、自立的に学び進める意欲や能力がないからではない。教科書は教師が一斉指導で使うことを想定しており、子どもが1人で学び進めるのに必要な情報が欠落しているからである。(p.34)

特に欠落しているのが文脈情報で、教科書の説明が理解でき、問題が解けたとしても、なぜいまこのことを知る必要があるのか、この問題をこの位置で解くことにどんな意味があるのかが子どもには見えない。個々の説明や指示や課題が位置づく、もう1つ大きな学びの文脈がとれないのであり、それではいくら個々の内容が理解できても、全体として何がどういうことなのかが十分に把握できないのである。意味理解や概念形成における文脈情報の重要性は、心理学者が繰り返し指摘してきたとおりである。そして、この文脈情報こそが、普段の授業で教師が子どもに口頭で提供してきたものにほかならない。(p.34)

 教科書を使うならば、想定されているように一斉指導で使い、文脈情報を子どもたちに伝達する、ということが必要になると書かれています。
 でも、自立的にどんどん教科書を使って学んでいっていいよ、という自由進度学習をしている学校もあります。そうした学校のひとつで子どもたちに配布されている「学習のてびき」について紹介されていました。教科書にかかれていない文脈情報を適切に補って使っているのだということがわかります。

学習のてびきにはさまざまなスタイルがあるが、典型的には、学習のめあて、学習内容、標準的な時間数、多くは問いかけの形で書かれた単元の導入に当たる短い文章、基本的な学習の流れ、教科書の該当するページや利用可能な学習材・学習機会に関する情報がわかりやすくコンパクトに記されている。学習のてびきに盛られた情報は、通常の単元指導案とほぼ同じである。子どもに指導書を渡してしまおうというのが、てびきの発想にほかならない。
(略)
よく「授業の主役は子どもだ」といわれるが、単元の構成はもとより、何時間で学ぶのかさえ、従来の学校は十分に子どもに伝えてこなかった。主役であるはずの子どもたちが、いわばシナリオである指導案を受けとっていないのは、考えてみれば随分とおかしなことだが、それこそが従来の授業が「現在のパラダイム」で実践されてきた何よりの証拠であろう。学習のてびきの発想が斬新に見えてしまう現在の状況にこそ、問題の深刻さはある。(p.35)

 このあたりについて、「教科書に文脈情報を書けばいいじゃないか…」とか、「読んで自学できるように教科書を変えればいい」とか、いろいろな意見はあると思いますが、ここまで劇的に変えるのはすぐにはできない話なので、まずは「学習のてびき」的な教材が広がって、個別最適な学びが進んでいけばいいなと思います。
 一方で、いろいろな学校を見ていて、特に中学校や高校では「そもそも授業がこれは成り立っていないのでは…?」という授業に出会うこともあります。そうした学校でも、単元内自由進度学習が機能するのか、というのはたくさんの事例を見ていきたいと思いました。
 高校時代に数学が本当にちっともできなかった僕は、単元指導案的なことも書いてある「学習のてびき」を渡されて、できるようになっただろうか?学べるようになっただろうか?と考えてしまいます。(自分の経験からばかり考えるのは思考の幅を狭めるとは思うので、フラットに考えなければいけないとは思っていますが…)

多様性が互恵的に学びを深める教室

 「情報教育パラダイム」によって、子どもたちが互恵的に学びを深めていく、ということが書かれていました。

「情報技術パラダイム」のような、教師の指示や許可を待つことなく、自分たちの意思で自由に学び進められる環境下では、子どもたちはごく自然に、また自発的に仲間との対話や協働を展開し、互恵的に学びを深めていく。理由は明快で、それが学びという営みの本来的な姿だからである。だからこそ、同様のことは幼児教育でも日常的に観察される。個別最適な学びは、このようなゆるやかな協働的な学びを多くの場合その必然として伴う。(p.42-43)

 小学校1年生にコンピュータを毎週教えていますが、「できるようになりたい!」「やってみたい!」というエネルギーは本当に感じます。わからないことは周りと協力してどんどんできるようになるし。ああいう場面を、どれくらいまで上にもっていけるのか、と考えます(ずっとあのまま、というのはさすがに難しいと思うのです)。

協働的な学びでは、異なる考えが組み合わさり、よりよい学びが生み出されるような授業にすることが大切である。そこでは、正解ではなく納得解や最適解をその都度求め続けていく学びが、子どもたちの手によって豊かに展開されることが期待されている。したがって、協働的な学びもまた「情報技術パラダイム」への移行を必須の要件とする。
もし「現在のパラダイム」で協働的な学びを展開したならば、教師が後ろ手に隠している正解を皆で力を合わせて言い当てにいくような授業になるであろう。たしかに、皆で力を合わせて頑張っており、その意味では協働的なのかもしれないが、結果的にもたらされる学びの質において、今回の「答申」が目指す協働的な学びとは程遠いと言わざるを得ない。(p.48-49)

 こんな「教師が後ろ手に隠している正解を皆で力を合わせて言い当てにいくような授業」、まだまだあちこちで見かけるのが実情です。パラダイムシフトしましょうよ、と言い続けていかなくては、と思います。
 パラダイムシフトが起こっても、先生の仕事の価値が下がるわけではなく、むしろ先生にしかできないことに取り組んでもらえるようになるのだと思います。

「情報技術パラダイム」では、どんな経験や知識を今日の授業の学びの対象とするかにおいて、子どもたちと教師は対等な位置にいる。当然、いま現在の私がどうしようもなく気になっていることは、なんら遠慮することなく仲間や教師に問いかけてよい。(略)
協働的な学びでは、仲間が表明する自分とは異なる知識や思考、感情や立場などが互恵的に問いや気づきを生み出し、それを契機に展開される対話や協働を通して学習の成立や深化がもたらされるように授業を構成する。そこでは、教師は子どもの事実の丁寧な見とりに基づき、高度な意図性や指導性を発揮するが、それはつねに子どもたちの現在に開かれた、柔軟なものである必要がある。(p.49)

子どもたちが進める授業

 最後に、子どもたちが進める授業についても書かれていて、実践してみると「子どもたちだけでできることと難しいこと」があるのだということが説明されていました。「子どもたちが自分たちで学ぶ授業をしています」という実践事例もときどき見かけるので、単元のどの部分をどんなふうに子どもたちが進めているのかを見る視点として勉強になりました。

子どもが進める授業を実践してみると、子どもたちだけでできることと難しいことが明らかになってくる。当然のことながら、単元の最初は難しく、教師が指導するのが順当である。一方、単元が動き出し、学びの見通しがもてるようになったら、子どもたちだけでも十分に協働的に学び進められる。
内容的に特に難しいのは、各教科等の見方・考え方を巧みに働かせ、以前の学びとも関連づけて発展的・統合的な理解を深める場面である。教師が指導しても容易ではない部分だから当然だが、逆にいえば、領域固有知識の習得や個別の概念的意味理解であれば、子どもたちだけでかなりの線までやれる。(p.52-53)

 そして、また自己調整の話が出てきました。この部分に書かれていることを中学生や高校生でもまったく同じように考えていいのか、というのを僕は考え続けたいと思います。中学校の先生や高校の先生はどういうふうに思うのか、ディスカッションしたみたいです。

一人ひとりの子どもに適合した多様な指導方法や教材を準備するのは大切だが、それをいつも教師の判断で子どもにあてがっていたのでは、子どもは自らに最適な学びについて理解を深め、さらに自己調整しながら自力で計画・実行できるようにはならない。勇気をもって子どもたちに選択や判断をゆだね、失敗も含めたさまざまな経験を積ませることが大切である。
個別最適な学びであれ協働的な学びであれ、最後は子どもを信頼できるかどうかにかかっている。より具体的には、すべての子どもは生まれながらにして有能な学び手であり、適切な環境と出合いさえすれば、自ら進んで学ぼうとするし、学ぶ力をもっているという認識に立てるかどうかである。(p.53)

 No.4に続きます。
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(為田)