児童精神科医の関正樹 先生の著書『子どもたちはインターネットやゲームの世界で何をしているんだろう? ―児童精神科医からみた子どもたちの「居場所」』を読みました。
インターネットやゲームがあることで、リアルな世界では得られない「居場所」を得られる子どもがいると僕は思っています。だから、子どもたちがデジタルを使いこなせるようになることは、自分の「居場所」を得るためのツールを得ることに繋がると思っています。であれば、学校でデジタルを使って「居場所」を得るための練習(コミュニケーションとか協働とか…)を学校の教室でもできたらいいじゃないですか。
でも一方で、インターネットやゲームの世界は子どもたちにとってあまりに魅力的すぎてハマってしまうという一面もたしかにあると思います。でも、そうしたことがありつつも「居場所」を作ることが大事じゃないのか、と関先生が丁寧に紹介してくれている本でした。
「うちの子はゲームばっかりやっていて…」という相談が学校の面談などでされることもあるかと思うのですが、そうしたときの返答のための引き出しを先生方に増やしてくれるのではないかと思います。関心があったところを読書メモとして共有します。
はじめに 子どもたちの「居場所」としてのインターネット・ゲームの世界
最初にさっそく、この本はスマホやネットを遠ざける方法を扱った本ではない、と書かれていました。スマホやネットが「居場所」になることもある、ということが書かれている本なのです。
本書はスマホやネットを遠ざける方法を扱ったハウツー本ではありません。そのような内容を期待して手に取ってくださった方には本当に申し訳ありません。
また、「居場所」という視点からとらえ直す性質上、中立的な立場でもなく、道徳的でもありません。けれども、不登校の子どもたちにとっての溺れそうな現実から逃れるためのオンラインゲームの世界のような、「もう消えてしまいたい」と思っている子どもたちにとってのTwitterのタイムライン上に流れ、消えていく思いのような、ささやかな「居場所」に少しだけポジティブな眼差しを向けていないと消えてしまうかもしれない命があるということを、私たち児童精神科医は少しだけ知っているのです。(p.8)
では、「居場所」とは何か、どういうものか。
「居場所」という言葉の学術的定義は一様ではありませんが、萩原は、居場所の構成要素として、次の4点を挙げています。
- 自分という存在感とともにあること
- 自分と他者との相互承認という関わりにおいて生まれること
- 生きられて身体としての自分が、他者・事柄・物へ相互浸透的に広がっていくことで生まれること
- 世界(他者・事柄・物)の中での自分のポジションの獲得であるとともに、人生の方向性を生むこと
つまり、「居場所」とは自分ではない誰かがそこにいてくれて、そこでお互いに認め、認められることを通じて、お互いに影響しあい、自分という存在が自分らしく広がり新たな人生の方向性を獲得していく場所といい換えることができそうです。
ですので、誰もいないただの物理的な場所は「居場所」にはなり得ません。(p.11)
萩原先生の参照文献もリンク貼っておきます。
そうした「居場所」の定義を見てみると、リアルの世界だけでなく、インターネットやゲームの世界だって、子どもたちの「居場所」になれることが、類型化して説明されていきます。
インターネットやゲームの世界は、子どもたちにとってどのような「居場所」になっているのでしょうか。本書では、四つの類型を考えていきます。(p.12-14)
- 「遊び場」としてのインターネットやゲームの「居場所」
- 「学び場」としてのインターネットやゲームの「居場所」
- オンラインゲームにおけるギルドのようなコミュニティでの仲間関係
- SNSでの対人関係
- 「浮かぶ場」としてのインターネットやゲームの「居場所」
- 現実の対人関係のある世界で沈んでいってしまいそうな時に、「浮かぶ場」にもなり得る
- 「漂う場」としてのインターネットやゲームの「居場所」
この類型を見て、「あのゲーム/アプリ/SNSの、あの機能は、この類型に入るかも…」と思いながら見るといいように思います。
わからないものがあるかもしれません。僕はオンラインゲームのギルドは概念としては知っていますが、やったことがありません。スマホでオンラインゲームもやっていますが、ギルドとかがあるやつは避けまくっています(笑)
でも、子どもたちは楽しんでやっていますよね。LINEのオープンチャットとかもそうですね。知らないからダメと拒絶するのではなく、知っていく努力をすればいいと思います。
第4章 ゲームやオンラインの世界
第4章では、「いまの」ゲームやオンラインの世界はどんなふうなのかが紹介されています。このゲームの変化は、親世代が全然わかっていないことかもしれないなと思いながら読みました。
小学校高学年くらいになると、多くの子どもはオンラインゲームを始めており、そのうちの3から4割位の子どもはボイスチャットなどを通じて仲間とリアルタイムで交流しながらゲームを楽しんでいるという実像が見えてきます。つまり、現代におけるゲームは、昭和の時代のようにテレビの前で、ぽつんと一人で遊ぶようなものではなく、オンラインで遠く離れた誰かとおしゃべりし、交流しながらプレイするものであるともいえます。(p.84)
それから、子どもがゲームをやりすぎてしまうときの親子のやりとりのケースが書かれていましたが、これもとても参考になりました。
子どもがゲームやインターネットをやりすぎてしまうときには、「ゲーム以外の活動を増やそう」という目標が掲げられがちです。けれども、「ほかの活動にいろいろ誘ってみたけどあまりうまくいかない」ということもしばしば外来では耳にします。
(略)
どんな活動を提案するにしても大事なことが一つあります。それは大人も楽しくその余暇活動に参加していることです。どんなに子どもが好む活動でも、一緒に参加している大人がつまらなさそうに参加していたらうまくいくものもうまくいきません。(p.138-139)
それと、子どもが「何にドライブされてゲームをしているのか」を考えてみましょう、というところも参考になります。何でもかんでも「ゲーム」と大きく括るのがいけない気がします(反省)。
子どもは何にドライブされてゲームをしているのかについても考えてみましょう。
- そのゲームがすごく好き!
- 自分の生活には欠かせない一部だと思っている
- 所属しているギルドの居心地がよいなど、自分にとっての居心地のよさがあったり、意義があったりする
- ログインボーナスのため「毎日やらなくちゃ」と思っている
- 「ダンまちコラボ」のレアなキャラクターを引きたい、レアな★5装備を引きたい
- 今やめたら「ランカーから落ちてしまう」と思っている
- 友人や知人に勝ちたいと思っている
- そもそもモチベーションなんてない、ただ惰性でやっている
純粋にそのゲームが好きな子どもと、「ランカーから落ちてしまうかも」「そもそもモチベーションなんてない、ただ惰性でやっているだけ」と語る子どもとの間では、子ども自身が約束事を作りたいというモチベーションも、ゲームを制限できる度合いもだいぶ違いそうですよね。こうした点も踏まえながら約束事は作っていく必要があると思われます。(p.155)
それから、大人から見たゲームと、子どもから見たゲームはぜんぜん違う、ということも「ゲームには子どもにとっておもしろさだけでない、いいこともある」とまとめられていました(p.158-159)。
- ゲームがうまい子どもは子どもの世界の中でヒーロー
- ゲームの話題は共通言語
- 試行錯誤しないとうまくならないゲームもたくさんある
- 離れていても一緒に遊べる
- 不登校の子どもの「居場所」になり、子どもを救うこともある
YouTubeや、僕ら大人がまったく知らない子どもたちだけが知っているアプリやサイトなども同じかな、と思いながら読みました。大人が知らないことがたくさんあるのです。そこで「ダメ」と言ってすべてを閉ざしてはいけないな、と思います(難しいですけどね…)
第5章 ゲームやオンラインゲームをやり過ぎてしまうとき
第5章は「ゲームやオンラインゲームをやり過ぎてしまうとき」という、それ知りたい!と思う保護者が多そうだなと思うタイトルがついた章です。
インターネット利用に関しての2つのモデルが紹介されていました。どちらも知らなかったです。
インターネット利用に関しては別の視点から古くから二つのモデルが提唱されています。そのうちの一つが社会的補償仮説で、もう一つがRich Get Richer仮説です。
社会的補償仮説は、もともと対人コミュニケーションが苦手であったり、人目を気にしたりするなど、社会的リソースに恵まれていない人の方が、インターネット上ではより適切な社会相互交流ができ得るという仮説です。一方でRich Get Richer仮説は、もともと対人コミュニケーションが得意で、社会的リソースの多い人は、インターネットを利用して外向性などを発揮し、より適切な対人関係が作りやすいという仮説です。
どちらもインターネットの一側面をいい表しているように思いますし、それぞれのモデルに馴染みやすいインターネットサービスがありそうです。(p.171-172)
たしかにどちらの側面もあると思います。どちらの側面も見たことがあるような気がします。ゲームやアプリなどとの相性もあるかもしれないですけど。
電話などあまり親しくない人と話すのが苦手な僕は、テキストベースのデジタルコミュニケーション(このブログも含めて)が好きで、それによって助けられていることが多いので、社会的補償仮説の方が当てはまるかなあ…と思いながら読みました。
その後で、「本当に私たちはインターネットゲーム行動症やゲーム行動症を精神障害として扱ってよいのだろうか?」と関先生は書いていきます。
確かに、児童精神科の外来には、診断基準だけに照らし合わせればゲーム行動症と診断できる子どもたちはいますし、一日中SNSや配信などを見て過ごし、外に出られない青年もいます。しかし、オンラインゲームやインターネットにハマるとはいっても、その対象や動機は本当にさまざまです。SNSにハマる女性の背景に、現実世界での不安や寂しさや悲しさ、うまくいかなさがあることや、オンラインゲームにハマる子どもや大人の背景に、不登校やひきこもりが認められることはしばしばみられます。衝動性の問題からガチャやゲームプレイがやめられない子どももいます。そう考えると、私たちが「ゲームやネットにハマる」と考えている行動は、それらの結果に過ぎないのかもしれません。そのような場合には、ゲームやネットそのものをコントロールすることよりも、寂しさや悲しさ、学校や家庭での「居場所」のなさ、ADHDなど衝動性をもたらす背景など、それぞれの背景に支援の軸足を置いていく必要があるのではないかと思います。(略)私たちのような立場の者はこのような子どもたちが病院を訪れた時にゲーム行動症として個人の病理に帰結してしまうことを避け、家族やコミュニティなども巻き込んだ支援を行っていく必要があると私は考えています。(p.181-182)
このあたり、まさに知りたかったところです。こういうケースを知っておくと支援の選択肢が増えると思いました。
第6章 インターネットやゲームに関する適切な心理教育のために
第6章では、『ゲーム・ネットの世界から離れられない子どもたち』の著者である吉川徹先生の大人と子どもの約束についての言葉が紹介されていました。
吉川徹先生は著書で、大人と子どもの「約束」において大切なこととして、「ネットやゲームについての約束は子どもには守れない」ということを一番のキーフレーズとして挙げていますが、この点について私もまったく同感です。そして、子どもが守ることのできない、また大人も守らせることができる約束に作り替えていくことが望ましいと考えています。このような約束事の作り直しの際に大人はしばしば、より厳しい約束事にしがちです。けれども、このより厳しい約束事を作るということが約束事をめぐる大人と子どもの対立をしばしば招きます。より緩やかな約束事が守れず、守らせることも難しいのですから、それを厳しくすれば守れなくって当然です。大人は「約束をまた破った」と怒り、子どもも「どうせこんな約束守れない」と内側に怒りを抱えたり、その怒りを大人にぶつけたりするようになってきてしまいます。このような「約束事をめぐる悪循環」はしばしば大人向けの心理教育でもテーマになるところです。(p.195)
ルール作りは、学校でのICTの使い方のときにもよく出るテーマです。こういう視点、保護者との共有も含めて参考になりそうだと思いました。
吉川先生の著書『ゲーム・ネットの世界から離れられない子どもたち』のひとり読書会も2022年にやっていましたのでリンクを貼っておきます。
blog.ict-in-education.jp
もうひとつ、家庭での「約束」のありかたについて考えさせられることも書かれていました。
往々にして余裕がない家庭の方が早く自分のタブレットやスマホをもっていることはあります。そして、約束などの取り決めも不十分なままゲームをしていたり、ネットに親しんだりしていることはしばしば経験します。けれども、この際にそのご家庭を責めることは支援者としては絶対にしてはならないことの一つです。
(略)
このような家庭を助けるためにも、公的な教育機関などにはこれまでのような、メディアを遠ざけるためだけではない、メディアが近くにあることも想定したICT教育が望まれます。また、親御さん向けにはiPadやSwitchなどの具体的なペアレンタルコントロールの仕方を伝えていくのが有効かもしれません。けれども、ペアレンタルコントロールが有効に機能するためには、やはり親子間の対立が少なく、約束事づくりができる土台があることが必要になってきます。(p.201-202)
これも、保護者に伝えて、考え方を共有したいテーマだと思いました。
第7章 発達障害の子どもとインターネットやゲームの世界
第7章は、発達障害の子どもについて書かれていました。支援級の先生方や、特別支援学校の先生方が研修のときに、ICTでどんなことができますか、と質問してくださることがありますが、そのときに参考になりそうだと思いました。
ASDの子どもたちや青年は、言語能力が高くても、非言語(ジェスチャー、アイコンタクト、声のトーンなど)を扱うコミュニケーションが苦手であることはよく知られています。インターネットを通じたコミュニケーションはこのような非言語コミュニケーションが苦手なASDの子どもたちや青年にとって、有用なコミュニケーション手段になっている側面もあるといわれてきました。
例えば、ASDの青年のインタビュー調査からは、彼らがインターネットを快適なコミュニケーションメディアであると認識しており、その要因として、視覚的な匿名性、多様で柔軟なコミュニケーションのペース、テキストの永続性(テキストがスクリーン上に残ってくれること)などが挙げられています。(p.217)
第8章 不登校の子どもとインターネットやゲームの世界
第8章は、まさにインターネットやゲームの世界が「居場所」になることの意味が書かれていたように思います。
いじめの被害にあった子どもは、「学校に行かなくちゃ」と思えば思うほど、足取りが重くなります。そして、学校のことを考えれば涙が出るほどつらいことや恐怖に体を固くすることもあります。そんな朝が毎日やってくるのです。そんな時に子どもたちはリアルでないどこかの世界に脱出を試みるかもしれません。その脱出先がオンラインゲームやゲームということもあるでしょう。オンラインにもオフラインにもその脱出先が保証されず、家庭にも学校にも「居場所」が見つからない場合に、子どもたちは「死にたい」「消えたい」と考えることもあります。そう考えると「逃げないで」というメッセージよりも「あなたの命の方が大切」「家にいてほしい」というメッセージを伝えることの方が大切になるでしょう。(p.232)
ゲームやオンラインゲームが「居場所」にもなり得るのならば、その居場所を大事にしてあげられたらいいな、と思います。
学校の中にポジティブなかけらが見つからない場合は、本人のモチベーションや元気さと相談しながら、フリーススクールや適応指導教室など、学校外の「居場所」との接点を探していきますが、そのような子どもが回避的にゲームやオンラインゲームに傾倒することはよく見られます。このような場合に、大人は、「ゲームやオンラインゲームをしているせいで学校に行けない」と思いがちですが、この因果関係はむしろ逆で、「学校に行きづらいから、回避的にゲームやオンラインゲームをしている」ことが多くあります。
このようなケースを「ゲームやオンラインゲームのコントロールが難しい」という本人の中にある問題としてとらえてしまうと、環境と本人との相互作用という不登校の側面を見逃しがちになってしまいます。この理由からも、私はDSM-5-TRのインターネットゲーム行動症やICD-11のゲーム障害/ゲーム症の診断基準については、臨床的にはきわめて慎重に扱わなければならないものと考えています。(p.233)
「ゲームやオンラインゲームをしているせいで学校に行けない」と思いがちですが、この因果関係はむしろ逆」という文章は、ドキッとする人もいるのではないかと思います。
おわりに&あとがき
最後に、「おわりに」と「あとがき」に書かれていた、とても頷いたところを共有したいと思います。
まずは、「好きなもので子どもの世界を操作しない」というタイトルで書かれていた箇所です。この言葉、とても大事なことだと思います。
好きなものがあることは、それだけで尊いことです。だからこそ、私たちのような大人は子どもが好きなものや好きなものの話を、レコード盤に触れるかのように大切に扱わなければならないでしょう。好きなものがあること、そして、それが肯定されていることがメンタルヘルスの上でも有益であることはいうまでもありません。私たちのような大人が気をつけておきたいことは、子どもの好きなものを「大人の尺度」で勝手に善悪を決めつけたり、子どもの好きなものを利用して、大人が思うように子どもの世界を操作したりすることです。「マインクラフト」は教育に役立ちそうだからよいもの、SNSは騙されるニュースをたくさん見るから悪いものと決めつけてしまう大人とは子どもはあまり自分の世界のことを話したがらないでしょう。(p.259-260)
それから、背景を知ることの大事さについて書かれている箇所。ここも素敵です。善悪の二元論にする意味がないということも、意識していきたいと思いました。
子どもを取り巻くインターネットやゲームの世界は日々進歩し続けており、インターネットやゲームに依存的になることに関しては多くの専門家が調査研究をしている途上にあります。けれども、インターネットやゲームの世界に子どもたちが傾倒するのには、その子どもたちなりの背景があります。その背景の一つ一つを知らずして、私たちのような大人たちが「インターネットは善い」VS「インターネットは悪い」、「オンラインゲームは善い」VS「オンラインゲームは悪い」などの議論をすることは、あまり有意義なこととはいえません。私たちが本来ポジティブな視線を向けるべきは、そこに「居場所」を求めた子どもたち自身なのです。その子どもたちに「インターネットやゲームの悪いところ」をお説教し、そのコントロールを目指して「インターネットやゲームからの卒業」を目指すことよりも、少なくとも当初は、その世界に興味をもって近づき、対話をすることを通じて、子どもにとってその「居場所」が存在する意味や意義を考えていく姿勢が大切なのではないかと思います。そして、そんなリアルの他者との関わりを通じて、子どもたちは居場所を広げていってくれるのだろうと思います。(p.261)
本を読み通して、何のためにインターネットを使うの?という理由のなかに、子どもたちが「居場所」を作れるようにするため、というのは入れるべきだな、と思いました。
何となく思っていたことに、言葉を与えてもらった読書になりました。
(為田)