谷川嘉浩さんの『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』を読みました。僕は高校生の頃とか大学生の頃に、それこそ人生を変えるような衝動をみつけて、何もかも振り払って衝動にしたがっていた友人をけっこう見ている方だと思います。高校生の頃は部活や行事に(勉強ではあんまり見ていないw)、大学生の頃は勉強や課外活動に。打ち込める何かをもっている友人たちを羨ましく見ていたのを、この本を読んで思い出しました。
探究型の学びをしよう、という学校教育には、「衝動」が必要なんじゃないかな、と思っています。人生のレールを外れるほど何かを探究したくなる学校っていいんじゃないかな、と思って。読んでおもしろかったところを読書メモとしてまとめて共有します。
序章 なぜ衝動は幽霊に似ているのか
最初に、この本のタイトルにも入っている「衝動」とはどういうことなのかが書かれている部分を見てみましょう。この本のテーマにしたいのは、「自分ではもうコントロールしきれないくらいの情熱」です、と谷川さんは書いています。
この本のテーマにしたいと考えているのも、まさにその「自分ではもうコントロールしきれないくらいの情熱」です。
自分でもコントロールしきれないほどの情熱。非合理で、説明もつかない、自分でもなぜそれに駆り立てられるように没頭しているのかよくわからない。そういう熱量が湧き出してしまう状態のこと。「取り憑かれたように何かに向かう」という意味で、「衝動」と言い換えることもできます。(p.10)
谷川さんは、この「衝動」を「幽霊」のメタファーで語っていきます。
今回用いるのは、「幽霊」のメタファーです。衝動は、どこか幽霊に似ています。幽霊が人に取り憑くとき、人は幽霊に働きかけ、人間の意思決定や判断を左右します。これは、私たちが望んでいなくてもそうなります。衝動もそれと同じです。
(略)
「衝動」と「幽霊」を重ね合わせるなんて意外だと思われたかもしれませんが、この発想は全くのオリジナルというわけではありません。興味深いことに、英語の”possessed”という形容詞は「何かに所有された状態」、転じて「何かに心を奪われた状態」を指していますが、この言葉には「憑依された」「取り憑かれた」という意味もあります。何かほかのものに主導権があるみたいに、何かに向けて突き動かされている状態を指しているという点で、「夢中」と「憑依」が重なっているのです。(p.20-21)
「衝動は、世に言う「将来の夢」や「本当にやりたいこと」を突き抜けて、もっと熱中へと誘ってくれる欲望」(p.22)だと谷川さんは書きます。学校で子どもたちと一緒に考えることが多い、「将来の夢」「やりたいこと」。そこには本当に熱中させてくれる衝動はあるだろうか?と考えさせられます。
「将来の夢」も「本当にやりたいこと」も、衝動には遠く及ばない、誰かの期待に沿って答えているだけでしょう?と書かれていて、ちょっとドキッとしました。
周囲の期待に振り回される状況に嫌気がさした人が飛びつきがちなのは、「本当にやりたいこと」です。「本当にやりたいこと」と表現すると、周囲にさゆうされず、自分の内から湧き上がる不動にして不朽の欲求を言い当てている気がしてきます。周囲の期待の反映である「将来の夢」なんかよりずっとよさそうに聞こえます。
しかし実際のところ、「本当にやりたいこと」として人が語っているのは似通っていて、あまり多様性がありません。私の見るところでは、「本当にやりたいこと」として語られるのは、①世間的に華々しいスポットライトを浴びているものか、②今の自分が「正解」だと思っているもののどちらかです。(p.24-25)
このあと、①は、俳優、モデル、声優、ミュージシャン、スポーツ選手、インフルエンサー、クリエイターなどの憧れ。「みんながいいと言うもの」を自分のやりたいことだと考えているだけでしょう?チヤホヤされたいだけでしょう?と続いていきます。学校で子どもにこんなこと言えないけれども…と思いながら読み進めます。
さらに、②については、小説の台詞が紹介されていました。この部分もなかなか刺さります。
屋久ユウキさんの小説『弱キャラ友崎くん』(小学館)には、「人間が言う『本当にやりたいこと』なんて、今の自分が、たまたま、一時的にそれが一番良い状態だと勘違いしている幻想でしかない」という台詞が出てきます。実際の文脈は、私の意図とはちょっと違うのですが、今の自分が「正解」だと思うことが「本当にやりたいこと」と等置されている現状に対する批判として、この言葉は妥当だと思います。(p.25-26)
じゃあ、どうすればいいのか。重たい言葉に縛られることをやめることだ、と谷川さんは書きます。
むしろ、私たちに必要なのは、これが「本当に」やりたいことだと、重たい言葉でくるんで固定するのをやめることです。つまり、自分のやりたいことが知識や経験の増大につれて変化するのを許容しつつ自分の将来を模索するには、「本当にやりたいこと」などという言葉遣いを避けた方がよさそうです。(p.26)
安易に「本当にやりたいことって何なの?」と訊かないようにしよう、と単純な僕は思ってしまいました。で、その安易な「将来の夢」とか「本当にやりたいこと」を使わずに、何が行動の源泉になるかというと、「衝動」なのだ、ということなんだと思います。この「衝動」に学校で仲間たちと出会ったらいいな、と僕は思っています。他人の「衝動」はクラスメイトにちょっと伝染しますし(僕がそうだったように)。
「何かを学びたい、身につけたい」と思うとき、衝動がその背景にある方がずっと持続するし、遠くまで行くことができます。今の自分の手が届く範囲を超えて、ずっと遠くのものに触れるために何かを学びたいのだとすれば、きっと「衝動」が必要です。自分でも説明がつかないくらい、非合理的な衝動が。
検索エンジンから生成AIに至る様々な情報技術は、何かを「欲望」し、それを「行動」に移すこと以外の大抵のこと――情報収集や問題の理解、集団の検討から計画立案、行動の準備や段取りまで――をカバーしてくれていると示唆する議論があります。裏を返せば、「欲望」と「行動」は、他と比べて、情報技術がまだ本格的に手をつけずにいる部分だということです。
新たなテクノロジーが次々登場しているからこそ、どこまでも私たちを突き動かす衝動について考える意義があるというわけです。解像度が低い議論だとはいえ、広い意味での「欲望」について考える意義が一層増していることを示すには、これで十分でしょう。(p.28-29)
SNSやインターネットがあるからこそ、衝動に出会いにくくなることもあるのか、と思いました。
これ以降で扱うのは、メリットやデメリット、コスパ、人からどう思われるかなどといったこととは関係がないところに向かう原動力としての「衝動」です。世間的な懸命さや理屈とは違うという意味で、「衝動」とは、人生のレールを外れる欲望のことであると言えるかもしれません。人生のレールを外れるといっても、逆張りをしてレールを意図的に外れるわけではありません。衝動とは、そこにレールがあるかどうかを気にせず走っていく力のことだからです。(p.29)
序章のたった30ページほどで、いままであまり自分に縁がなかった「衝動」という言葉について新しい考えをインストールされた感じがします。
第二章 衝動とは結局何ものなのか
第二章では、衝動とは何ものなのかについて説明されていました。「衝動」は自分だけの大事なものであるので、周りに合わせなきゃいけない環境だと持ち続けるのは大変だろうと思います。そうした深いところにある衝動をずっと大事に持ち続けられるのも大事なポイントだなと思います。
SNSの使用についての注意も書かれていました。少し長いですが、以下にメモします。
偏愛や衝動を掘り下げる上で、SNSの使用には注意すべきだという点も注意を促させてください。私たちは普段から自分の好みや行動を不特定多数の人々にシェアしていますが、そこで話題になるのは、基本的に、ちょっとした意外性を持ちつつも、共感可能で理解しやすい事柄です。その中には、安易なラベリング、決めつけ、勝手な判断も含まれています。世間にウケるかどうかで偏愛の語り方を決めていては、偏愛をちゃんと掘り下げることもできません。
もちろん、ネット上で突飛な語りが注目を浴びることはよくありますし、バズったSNS投稿の中には偏愛と言ってよさそうなものもあります。だったら、偏愛をSNSにシェアしたって構わないんじゃないかと思ってしまいそうです。
仮にそうだとしても、偏愛に関する投稿でバズっているのは、面白おかしく書かれていて、いかにも世間ウケする偏愛に限られています。共感を呼ばない偏愛もたくさんあるでしょう。それにもかかわらず、「SNS投稿ありき」で偏愛を掘り下げてしまっては、自分の欲望をタイムラインに合わせて編集することになりかねません。他人に気に入られるように偏愛を解釈する必要はどこにもないはずです。
偏愛のような特定化された欲望は、大抵、不特定多数の他人にシェアして共感を誘える類のものではないでしょう。偏愛が見つかるのは、思わずやってしまったり、そうするつもりでなかったのにいつのまにか習慣になっていたりするような些細な日常の行動の中であって、それは、およそバズとも共感とも無関係。だとすれば、原則としてそう考えた方が偏愛の言語化にとってはよいと言えます。
偏愛はあまりに個人的なので、簡単には他人の興味を誘えるものではない。だから、衝動を解きほぐすには、他の人に共有しづらく、バズらないところに注目することが避けられない。それなのに、SNSは逆方向へ私たちを導こうとしているのです。(p.75-76)
衝動をどう持ち続けていくのか、というときに、強い欲望ではなく、深い欲望に注目するべきだ、と谷川さんは書きます。
「深い欲望」は、感情的な刺激を伴わない地味な欲求であり、他人指向型ではなくものすごく個人的な欲求であり、従って表立って見えづらい欲求であるという性質を持っています。要するに、強さの軸で語られるモチベーションが公共的で抽象的であるのに対して、深さの軸で語られる衝動は、個人的で細かく特定化されています。
本書では、個人的で特定化された具体的な欲望のことを「偏愛」と呼んでいます。往々にして人生の「正しい」レールを外れて楽しく暮らしている人が身に着けているように思われる、「きめ細かく特定された、自分自身の(いわば偏った)好みや興味」のことです。偏愛は他人と共有できないかもしれないし、合理性もないかもしれない。
こうした偏愛の延長に衝動はあります。偏愛は、衝動が具体的な行動としての出口を見つけたときに用いられる言葉です。だからこそ、偏愛をほどほどに一般化すれば、衝動を言い当てることができます。衝動は、解きほぐされた偏愛のことです。
これが、本章の冒頭で掲げた「衝動とは結局何ものなのか」という問いへの答えです。衝動について知りたければ、欲望の強さに惑わされず、自分の細分化された個人的な欲望、つまり偏愛について掘り下げ、それを抽象度を上げてパラフレーズしていけばいい。(p.82-83)
個人的で特定化された具体的な欲望である「偏愛」の延長にある、「衝動」。これを持ち続けられるような教育はどんなふうであればいいのだろう、と思いながら読みました。
授業をしていて、「ほんと、こういうの好きよね…」と思う場面はたくさんあります。いつも同じモチーフで書いていたり、みんながやっているのとは全然違うけど自分のこだわりもって何かを作っていたり。ああいうこだわりみたいなものを大事に持ち続けられる場を用意してあげることくらいしか、僕にはできないかな、と思ったりしました。
コラム 言語化のサンクコスト
第二章の最後に「言語化のサンクコスト」というコラムがあって、そこで書かれている「言葉でっかち」という言葉、すごく刺さりました。そうなってしまいがちな自分がいるかもしれないと思っています。言語に囚われないようにしなくては、と思います。
ここで取り上げたいのは、「言語化」におけるサンクコストです。偏愛を解釈しながら掘り下げ、衝動を捉えようとするときに、それを(絵や図を含む広義の)「言葉」に表現することは避けられません。ここで注意したいのは、ざっくりした一般論で満足してしまうと、かえって適切な解釈にとって妨げになることです。単に雑な理解で観察力が鈍るというだけの話ではなく、多くの人は自力で頑張って言語化すると、言語化に費やしたコストに囚われてしまって、その言葉を手放せなくなりがちなのです。
大学教育の現場はもちろん、企業研修などで講座を担当していても、自分で頑張って作り上げた表現や言い回し、感想の持ち方に妙に囚われてしまっている、「言葉でっかち」な人を見かけることは珍しくありません。時間や労力をかけて言語化すると、「今さらその言葉遣いを変えたり、多様な表現を模索したりするようなアプローチはできない」と思ってしまう。
自分でも納得できるような言葉を持つことは確かに大事です。しかしその言葉が、自分だけ納得している、実際には説得力がない、問題のある言い回しだとすれば、それを後生大事にする理由は、自分の思い入れ以外にありません。実際、大抵の人が自力の言語化で辿り着くのは「それっぽい説明」である場合がほとんどですが、サンクコストに目を奪われて、その言葉が手放せなくなってしまうのです。
そうして「言葉でっかち」は量産されます(私の経験則ですが、「言葉にすると失われるものがある」と声高に言う人ほど「言葉でっかち」です)。自分を納得させる「それっぽい説明」の言い回しにしがみついても、個人的で特定化された細かな欲望には迫ることができません。そもそも個人の細かな関心を掘り下げる言語化は、一回で完結するものではなく、何度も繰り返されて試行錯誤されるものだからです。言葉は、握り込むのではなく、何かあれば取り落とすくらい軽くもつこと。それが言語化に取り組むときのコツです。(p.85-86)
第四章 どのようにして衝動を生活に実装するのか
第四章では、どのようにして衝動を生活に実装するのかを、「どうやって衝動から目的を生み出すのか」(p.131)という問いから考え始めます。
衝動は、進むべき方向をざっくりと指定し、そちらへと私たちを突き動かす原動力ではあるけれども、衝動そのものに計画性が組み込まれているわけではありません。だとすれば、代わりに私たちが頭を働かせるしかない。自分の具体的な「目的」はどれなのかはもちろん、その目的を実現するための「戦略」はどうなのかを判断する必要があります。それは知性の役割です。
仕事だと話がわかりやすいので、音楽業界で一流のミュージシャンと一緒に仕事がしたいという方向性だけ衝動からはっきり割り出せているとしましょう。「音楽業界」と一言で言っても、ミュージシャン、技師、マネージャーや代理人、著作権法務、ライブ会場運営関連企業の事務や営業など多様な選択肢があります。この選択肢のどれがふさわしい「目的」たりうるかを判定するのは自分の知性です。そして、目的と手段がセットである以上、どうやって目的の実現に近づくかという「戦略」を考えるのも、やはり知性の役割です。(p.131-132)
衝動から、目的を生み出して、そのなかからどれをとるかは自分で選ぶ、ということ。衝動を衝動のままもっているのではなくて、それを生活に実装する、というのはこういうことかと思いながら読みました。
仕事の例で書かれていましたが、仕事以外に学校だったらどんな場面でこういう実装ができるかな、探究学習だったらどんなふうな言い方ができるかな、と考えたいなと思いました。
まとめと感想
「衝動のみつけかた」というタイトルに惹かれて読んだのだけど、終始、「自分はそんな衝動をもってきただろうか?」と思ったし、「僕がしている授業は子どもたちの衝動を殺してしまっていないだろうか?」と思いました。
(為田)