教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

書籍ご紹介:『偶然の散歩』

 独立研究者の森田真生さんの『偶然の散歩』を読みました。森田さんのさまざまな連載をまとめた本なのですが、多くの文章のなかで森田さんの息子さんの様子(1歳の頃から6歳の頃まで)が書かれていて、そこから森田さんのいろいろな思いを読むことができる本です。直接、学校でのICT活用・デジタル活用について書かれているわけではないのですが、考えさせられることがとても多かったので、読書メモとしてまとめて共有します。

探究について考えた

 最初は、1歳4ヶ月の息子さんと一緒に散歩に出かけて、彼が散歩中にいろいろなものを手に取っては不思議そうに見つめているところから、森田さん自身が探究していることについて書かれている部分です。

しかしときに人は、一度手に取ってしまった謎を、手放せなくなることもある。そのときそれをぎゅっと片手に、握ったまま歩き続ける。

「自分だけがぶつかっている特殊な問題」を究めてゆくことが学問なのだと、かつて三木清小林秀雄との対談のなかで述べたことがある。手放せない小石に出会ったときに、無邪気な散歩は、険しい学問の山道に入る。

僕がいま手に握っているのは「数学」という不思議な石だ。
小さな頃から幾度も手に取り、何度か手放そうとしたけれど、どうしても捨てられなくなってしまった石だ。(p.20)

 手放せなくなってずっと探究したくなるものを見つけられることはとても幸せなことだと思っています。家庭でも、地域でも、どこで探究したいものを見つけてもいいと思うのですが、「学校で探究したいものに出会えた」という子がもっと出てもいい、と思っています。

Duolingoがおもしろい

 僕は2週間前の週末から、Duolingoを使って英語の独習を始めたのですが、突然文章のなかにDuolingoとDuolingoの開発者ルイス・フォン・アンの話が出てきてびっくりしました。

愛用しているのは、全世界でユーザ数が一億人を優に超えるという人気の言語学習アプリ・Duolingo(デュオリンゴ)だ。
(略)
2012年に公開されたDuolingoも、語学を「勉強」する時間を翻訳という「仕事」に変換するという着想から生まれた。ユーザはあくまで自分の学びのために文章を翻訳するが、まだ誰も翻訳したことのない文章が課題として出題される。
「正しい訳」があらかじめ存在しない文でも、同時に何万ものユーザが翻訳すると、「どの翻訳が正しそうか」統計的にある程度判別できるのである。Duolingoはこうして、勉強という個々人の労力を結集し、翻訳という仕事に置き換えてしまうのだ。その代わり、言語学習の環境を無償で提供できるという発想である。
一定の事業規模を超えて、いまは翻訳中心のビジネスモデルではなくなっているようだが、「何気ない作業をネットで集約して生産的な仕事に変える」という彼の方法論は、これから様々な場面で見られるようになっていくだろう。(p.66-68)

 全然知らないエピソードだったので、勉強になりました(この文章が掲載されたのは、2017年です)。Duolingo、とってもデジタル的な出自だったのですね。Duolingo、とても気に入ってがんばって独習しているので、また紹介したいと思います。

スマホが洗練されたテレビになってしまってはいけない

 子どもがスマホタブレットなどのテクノロジーを使う場面を見て、「これで大丈夫だろうか?」「どんなルールが必要だろうか?」と考えているのは、学校の先生も保護者もだと思うのですが、森田さんも「複雑な気持ちになる」と書きつつ、アラン・ケイの言葉を紹介してくれています。考えさせられる言葉でした。

コンピュータには文字の発明を凌駕するほどのメディアとしての可能性がある。そのことを重々承知の上でなお、僕は息子がスマホで遊ぶのを見ると複雑な気持ちになるのだ。

「パーソナルコンピュータの父」と呼ばれるアラン・ケイは、最近公開されたインタビューのなかで、「モバイルコンピュータは洗練されたテレビになってしまった」と苦言を呈していた。コンピュータのデザインは洗練され、幼児ですら使いこなせるようになった。それは喜ばしいことのようだが、コンピュータがユーザの欲望に寄り添いすぎた結果、人間が主体的に変容していく機会が奪われていることを彼は嘆いているのだ。

メディアを使いこなすことは本来、困難で面倒なことである。いまだに子どもが読み書きを覚えるまでには、何年にもわたる訓練が必要である。
身につけるための主体的な努力の時間を経るからこそ、人は生まれ変わることができる。読み書きの学習は、自分自身を変容させていくプロセスでもあるのだ。

アラン・ケイはかつて、コンピュータとは「メタメディア」であると喝破した。コンピュータとは「メディアを作るためのメディア」なのである。
単に便利なサービスの消費者になるのではなく、みずからメディアの創造に参加できるようになるためには、読み書きと同じく、コンピュータというメディアの本質をつかみ取るための時間と訓練が必要である。(p.81-82)

 「モバイルコンピュータは洗練されたテレビになってしまった」という苦言は刺さります。そうならないように、どういう体験をさせなければいけないのかを考えていかなければいけないと思います。

教室でのコミュニケーション体験はとても大事

 森田さんのコミュニケーションについての言葉も、教室での子どもたちの言葉のやりとりを思いながら読みました。

人と話すのは基本的に好きだが、あとでいつも反省ばかりする。
「あれは言い過ぎだったか」「あの発言は誤解されたのではないか」
考えはじめるとキリがない。

そんなとき、情報学研究者のドミニク・チェン氏の「読むことは書くこと」という言葉を思い出す。何かを読むことは、自分の言葉で書き直すことである。読むことは「ありのまま」の言葉を受け取ることではなく、書かれた言葉をきっかけとして、自分の思考や気づきを、みずから生み出すことである。

書かれた言葉だけではない。
語られた言葉もまた、受け取る人のなかに、受け取り手自身の思考を引き起こす。
刺激し合い、それぞれが個々に学び合うこと。
それが、コミュニケーションなのである。

とすれば、「誤解」を恐れること自体が、コミュニケーションの誤解ではないか。
頭ではそのように了解している。
だが、反省の癖はなかなか抜けない。(p.119-120)

 一人1台の情報端末でたくさんの文章を書き、授業支援ツールを使ってクラスメイトの書いたたくさんの文章を読むことができるようになる。そこには誤解があったり、すれ違いがあったり、問題もたくさんあるのですが、そうしたコミュニケーションを経験することに大きな意味があるのではないかと思っています。学校だからこそ存在するコミュニケーションの場が、子どもたちにとっての学びの場になればいいと思っています。そうなるようにテクノロジーを使わなければいけないと感じました。

過度に最適化されて、無駄がなくなるのは違うと思う

 最後に、森田さんが無駄を大切にしている、という部分です。

無駄が無駄だという考えにだけは、僕は否(ノー)と言わざるを得ないのである。

ときどき高校で講演をすることがある。そのとき、しばしば聞かれるのが「高校生にオススメの本はありますか?」という問いだ。
このとき僕は「オススメの本だけ読んでいるようではいけない」と天邪鬼な返答をする。

何百、何千という本を読む。
するとそのなかに、いくつかの本当に素晴らしい本がある。
では、最初からその「素晴らしかった本」だけを読めばいいかというとそうではないのだ。

読んでもいつかは忘れてしまう本。
書棚に眠ったまま二度と開かない本。
退屈で途中で投げ出してしまう本。
そうしたすべての本たちが織りなす読書経験の豊かな網(メッシュ)のなかで、自分にとっての「素晴らしい本」が生命を宿す。
無駄をすべて削いで、よかった本だけを選ぶことができたら魔法は解ける。
よかったはずの本のよさまで、きっと幻のように消えてしまうだろう。

これは本にかぎった話ではない。
何事もそうだ。
一見無駄に見える寄り道、道草にこそ人生はある。
僕は心からそう思うのである。(p.178-180)

 偶発的な出会いを生かすためには、たくさんの無駄や寄り道が大事です。無駄なまま終わるものもあるけれど、無駄ではなかった、と思わされるものもあります。
 僕は「学びの個別最適化」という考え方が好きですが、最適化された一本道をどんどん進むのではなく、こうしてたくさんの無駄に出会う時間を作るために個別最適化されたらいいな、と思っています。

まとめ

 たくさんの気づきをもらえた本でした。森田さんの文章が読みやすく心地よく、すっと入ってきて、考えさせられてしまいました。こういう文章を書きたい、と思わされる読書になりました。

(為田)