教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

書籍ご紹介:『教室における政治的中立性 論争問題を扱うために』

 ダイアナ・E・ヘスさんの『教室における政治的中立性 論争問題を扱うために』を読みました。帯に書かれていた、「教師は授業中に、自分の政治的な意見を表明してはいけないのか?」という問いに惹かれました。

 訳者解説に、著者のダイアナ・E・ヘスさんがこの本のなかで立てているリサーチクエスチョンと、それに対する回答は、訳者の皆さんにとって、「いずれも刺激的なものばかりであった」(p.327)と書かれています。

これらのリサーチクエスチョンに対してヘス氏の明らかにするエビデンスとそこから導かれる回答は、少なくとも訳者らにとって、いずれも刺激的なものばかりであった。なぜなら、その多くが、教育界で一般に流布している「常識」、例えば、「生徒は教師から影響を受けやすいので、教師は自らの意見を決して授業中に発してはいけない」、「両論併記すれば教室の政治的中立性は担保される」、「事前の準備よりその場その場の状況即応こそが議論型学習では大切となる」、「いろいろな意見や性格を持つ人間から構成されるグループの方が、同質性の高い集団による議論よりも学習効果がある」、「学校の授業の成否を決めるのは教科書である。これは論争問題の学習でも当てはまることである」などに異議申し立てをする(少なくとも疑問を投げかける)性質のものであるからだ。(p.327)

 序文では、学校で論争問題を扱うことの意味について書かれています。

私は学校には、政治的可能性について生徒が議論し広い視野で見ることができるように支援していくために、公的な論争問題を真に用いることのできる知る自由と政治的自由のある雰囲気を創り出す権利があるだけでなく、そうした義務があると主張する。学校で公的論争問題を扱っていくことは、差異を抑圧したり無視したりすることではないので、より教育的であるというだけでなく、論争的な政治的問題をめぐる対立した様々な見解が現れてきて、公平に考察され、批判的に評価されることを確実なものにすることで、意思決定の質を高めることにもつながるのである。(p.27)

 論争問題について生徒が議論できるように支援していく雰囲気を作ることが大事、というのは賛成です。こうした雰囲気のなかで、論争をたくさんしたうえで、選挙権を行使してほしいと思います。
 訳者解説まで入れると370ページもある分厚い本ですが、教室での調査結果なども読むことができ、いろいろと考えさせられました。日本の教室での事例ではないですが、日本ではどうだろうか、と考えながら読みました。各章で興味があったところを読書メモとして共有します。

第1章 なぜ民主主義社会は論争を必要とするのか

 まず、学校の教室における、「議論」と「会話」との違いを定義しています。そして、議論は「共同体を形成すると同時に論争も育みたい」というジレンマを生むと書かれています。

議論を他の形式の教室での会話と区別するのに役立つ共通の特徴がある。一つ目に、議論とは人と人との対話であるということ。これには、少なくともトピック(例えば、論争、問題、出来事、人など)に関する情報の交換が含まれる。二つ目に、議論は知識を構築するための特別なアプローチであり、人々がある話題について自分の考えを表現し、他の人々がその考えを表現するのを聞いている時に、最も強力なアイデアが生み出されるという信念に基づいている。さらに、先に引用した複数の定義は、議論に関するコンセンサスの領域を示している。それは多くの形式をとり、多くの目的のために使用される。これは特に、民主主義教育、つまり、一見矛盾しているように見える複数の目標によって公正された教育の一形態として、議論が用いられる場合に当てはまる。民主主義教育者が共通して直面するジレンマとしては、共同体を形成すると同時に論争も育みたい、共有されていない考えを持つ権利を尊重しながら特定の価値観へコミットメントすることを生徒たちの中で芽生えさせたい、強制的に参加を要求することなく政治的な「声(voice)」の表出を奨励したい、といったことがある。(p.39)

 上の引用部分で出てきている「民主主義教育」という言葉について書かれている箇所では、学校が国をどのように作っていくのか、ということが書かれていました。

本書の中で、私は公民教育の代わりに「民主主義教育(democratic education)」という言葉を使う。私が意図的にそうしているのは、「公民教育(civic education)」というレッテルが現在の社会に「適合する(fitting in)」ことを示唆しているのに対し、私が意図的に「民主主義(democratic)」を使用しているのは、民主主義に内在する、議論を認めていこうとする動的な側面を浮き彫りにしているからである。この違いを最もはっきりと目にしたのは、民主主義とは程遠い二つの国、1980年代のソレント冷戦終結直前のキューバの学校で過ごした時だった。二つの国は学校で強固で驚くほどに効果的な公民教育を行っていた。生徒たちは、自分たちの国の歴史、日常生活における自分たちの役割と責任、そしてなぜ自分たちの統治システムが当時の世界、特にアメリカなどの民主主義国家よりもはるかに優れているのかということを数多く学んでいた。若者たちから、なぜ自分たちの国が「世界で一番」なのかという話をよく耳にした。(p.40)

 人がたくさんいるなかで多様な価値観もあって、論争・対立をしながらも共同体を作っていくための練習の時間を、学校で子どもたちに持たせてあげることが必要だと思いながら読みました。「論争・対立をしながらも共同体を作っていく」という体験は、学校という場で小さい頃からやっていかないと価値を感じられないまま大人になる子も多いのではないかと思っています。

分裂状態にされた地域社会に住む人々は、ますます自分の意見を硬化させ、異なる意見を持つ人々を理解できるものとしてみることができなくなり、不寛容になる可能性が高い。この過激主義は、テレビやインターネットのような全国的なメディアを通して異なる見解にさらされることによって克服されるかもしれないが、テレビでの「怒鳴り散らす頭(shoutng heads)」傾向、そしてインターネットの自己選択という特性は、これらのメディアが、同質性の共同体から生じる可能性のある過激主義の高まりに対抗してバランスをとる力としての役割を果たすことを妨げてしまう。(p.50-51)

 テレビやインターネットなどメディアを介した情報活用能力に関わる内容も書かれていました。分裂していく社会のなかで、「異なる意見を持つ人々を理解できるものとしてみる」ことができるようにならなければいけないと思います。

 そのうえで、学校という場が持つ可能性についても書かれています。

様々なタイプの学校(公的、私的、都市、農村、世俗、宗派)は、多くの大人が持っていない――横断的な政治討議に参加する――機会を若者に与えるのに、特にふさわしい強力な場所である。さらに重要なのは、学校は若者たちがそのような会話に賢く上手に参加する方法を教えられる場所であるということだ。このように、私がこの種の民主主義教育を奨励する最も重要な理由は、それが学校の外の世界には真正とされなくとも、健全な民主主義が求めるものには真正であることにある。さらに重要なのは、合衆国の民主主義の質を向上させる操縦桿として学校を利用することに関心があるのであれば、学校はおそらくわれわれが現在有している最高の場であるということだ。
学校がこの種の教育の主要な場である理由は三つある。一つは、問題について話し合うためのカリキュラムを用意していることである。二つ目は生徒たちに参加方法を教えることに長けているか、その可能性のある教師がいること、そして三つ目は、学校では、ある程度のイデオロギー的多様性があり、それが熟議の材料になりうることである。(p.52)

第3章 論争的な政治的問題についての定義

 第3章では、授業で扱う「論争的な政治的問題」とは、どんなものであるべきかの定義が書かれています。題材を選ぶときのガイドラインになりそうです。

私は、論争的な政治的問題を、重大な意見の相違を引き起こす公共政策についての問い、と定義している。それは、公共の課題――それらは決して仮想的な課題ではない――に対処するために採用されるべき公共政策の種類を問う真正の問いのことである。そのような問題は、個々の課題に対してどの種類の民主的政策が最良の対応であるのかを判断するために、「私たち」の間で熟議することを要求する。これらは一般市民の課題(the pubilc’s problem)であり、また一般市民の課題として、場合によっては(例えば、教育委員会やその他行政機関が採用するべき政策が何であるかといった事例で)一般市民が意見提供をすることを、また場合によっては市民が直接的に決定すること(しばしばこれは住民投票やその他の「直接民主主義」のプロセスを通して声が表明されることになる)を求めてくるし、またそうしたことをするだけの価値のあるものである。(略)論争的な政治的問題は開かれた問いであり、しばしば多様で驚くほど異なる答えが正当化される――それは、たとえ人々が、選好した答えについての意見に確信を持っていたり、明瞭な推論をしていたりすることが頻繁にあったとしても。(p.77)

 自分ごととして捉えられ、開かれた問いで多様で異なる答えが正当化されるものを、「論争的な政治的問題」として提示する必要が書かれています。いまの日本だったら、どんな問いを立てるのがいいのだろうかと考えたいです。

第5章 私たちの中に潜んでいる多様性

 第4章から第6章にかけては、学校の教室での事例が紹介されています。さまざまな先生たちのコメントが取り上げられています。27年目の教師だったヴォイト先生のコメントがあるのですが、ここで設定されている目標(ゴール)がとてもいいなと感じました。

私はちょっとうるさい人ですよ。だって彼らに議題を持ってほしいと考えているんですから。私は彼らが何も資料を取り上げないなんてことを望まないし、なにかの表面的な概念を説明することのないようにしてもらいたい。私は彼らに論争問題について深く理解してもらいたい。(…)私は彼らに何か意味のあるものを読ませたい。ここでの私の目標(ゴール)は、彼らを異論を言えるようにさせること、本当の意味での合意ができるようにさせること、それについて議論することを本当に理解できるようにすること、目的もなく詮索したりうろついたりするのではなくやりきることができるようにすることだ。私たちの国では失われつつあることだと思う。(p.168-170)

 きちんと考えた「異論を言えるようにさせること、本当の意味での合意ができるようにさせること、それについて議論することを本当に理解できるようにすること」というゴール設定は、いい言葉だと思います。

第9章 教室でもっと論争問題を扱ってもらうために~自分自身のまとめ

 最終章となる第9章のタイトルは、「教室でもっと論争問題を扱ってもらうために」です。

私は、私たちは学校において若者たちに寛容な心を持って、自分の見解以上に他の人の見解に真剣に向き合うようにしさえすれば良い、と主張しているのではない。私たちがする必要があることは、彼らに寛容になってもらうこと以上に、より広く、より強力なことなのである。私たちは学校内で論争問題を議論することの重要性を促し、家庭でもその会話を続けるようにさせることでそのような議論を支援し、私たちの地元の学校が若者たちに礼節やスキルを伴った議論に取り組む方法を現在教えていないなら、こうした議論をするように求めていく必要がある。もし、あなたの子どもが公共での政治討議への参加の仕方を教わっていないクラスにいるならば、なぜそうしないかを尋ねてほしい。学校において異なる立場の意見を聞くことを実際に要求することのできる保護者になろう。そして、論争問題の議論を実践する教師になろう。端的に言って、今こそ全ての学校を民主主義のために機能させる時なのである。(p.306-307)

 僕は実際に学校で担任をもって教えているわけではなく、実際に学校で論争問題を扱うことの大変さが見えていない部分もあると思っています。
 それでも、「対立しながら共同体を作っていく」ということを体験し、その行為に価値を感じ、行動ができる子を育てたいと思っていますし、学校がそこで大きな役割を果たせるのではないかと思っています。

 ICTを活用することで、教室外と繋がることもできますが、いきなり知らない人と繋がるのも怖い部分がありますし、アルゴリズムによって自分に近い意見の人と繋がりが強まってしまう部分もありますので、本当に多様な人と議論をする場をもつ練習が必要だと思います。まずは教室で、目に見える範囲で、論争についての意見以外にも、別のいろいろな面を日常から知っているクラスメイトと先生と一緒に、論争を超えていく体験をする場を作れればいいと思いながら読みました。

(為田)