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書籍ご紹介:『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』

 成田悠輔さんの『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』を読みました。正直なところ、「ちょっと過激かな…?」と思いながら読み始めましたが、この議論を知ったうえで、学校でテクノロジーをどう使うのか、ということを考えることに意味があると感じました。

 この本は、「はじめに断言したいこと」というパートと、「要約」というパートがあり、その後で詳細が語られるようになっています。それぞれのパートで興味深かった部分の読書メモを共有したいと思います。

はじめに断言したいこと

 民主主義の話をするときに、投票率の低さや、高齢化社会による選挙権を持つ人たちの年齢分布の偏りについては、選挙前によく話題にのぼる。選挙権が18歳から与えられるようになり、高校生で選挙に行くこともできるようになっているいま、学校で政治について考える機会があることはとても大切だと思っています。ただ、若者が選挙に行くくらいでは、何も変わらない、と成田さんは最初に断言しています。

断言する。若者が選挙に行って「政治参加」したくらいでは何も変わらない。今の日本人の平均年齢は48歳くらいで、30歳未満の人口は全体の26%。全有権者に占める30歳未満の有権者の割合は13.1%。21年の衆議院選挙における全投票者に占める30歳未満の投票者の割合にいたっては8.6%でしかない。若者は超超マイノリティである。若者の投票率が上がって60~70代と同じくらい選挙に行くようになっても、今は超超マイノリティの若者が超マイノリティになるだけ。選挙で負けるマイノリティであることは変わらない。

若者自身の行動も追い打ちをかける。日本の若者の投票先は高齢者の投票先とほとんど変わらないという事実だ。20~30代の自民党支持率は、60~70代とほとんど同じかむしろ高い。ということは、若者たちが選挙に行ったところで選挙結果は変わらないし、政治家にプレッシャーを与えることもできない。(p.5-6)

 そもそも、「若者の投票率を上げる」という手段が、そもそも今あるゲームに乗っているだけで、そこにいては問題は解決しない、ということが続けて書かれます。

私たちには悪い癖がある。今ある選挙や政治というゲームにどう参加してどうプレイするか?そればかり考えがちだという癖だ。だが、そう考えた時点で負けが決まっている。「若者よ選挙に行こう」といった広告キャンペーンに巻き込まれている時点で、老人たちの手のひらの上でファイティングポーズを取らされているだけだ、ということに気づかなければならない。

(略)

これは冷笑ではない。もっと大事なことに目を向けようという呼びかけだ。何がもっと大事なのか?選挙や政治、そして民主主義というゲームのルール自体をどう作り変えるか考えることだ。ルールを変えること、つまりちょっとした革命である。

革命を100とすれば、選挙に行くとか国会議員になるというのは、1とか5とかの焼け石に水程度。何も変えないことが約束されている。中途半端なガス抜きで問題をぼやけさせるくらいなら、部屋でカフェラテでも飲みながらゲームでもやっている方が楽しいし、コスパもいいんじゃないかと思う。

革命か、ラテか?究極の選択を助けるマニュアルがこの本である。(p.7-8)

 学校での主権者教育も、投票率を上げるべくさまざまなキャンペーンも、「負けが決まっているゲームだ」と言われると、学校に関わる仕事をしている人間としては辛いのですが、でもそれだけでなくより広い視野で考える必要がある、というのは賛成です。広い視野をもったうえで、学校教育で何ができるのかを考えていきたいと思いました(「それも焼け石に水だ」と言われてしまうと思いますけど…)。

要約

 民主主義のシステムがずっとアップデートされないままでいることが問題であり、テクノロジーの力を借りて、民主主義を再発明することが説かれます。構想として、「無意識データ民主主義」が紹介されます。

求められるのは、民主主義を瀕死に追いやった今日の世界環境を踏まえた民主主義の再発明である。

そんな構想として考えたいのが「無意識データ民主主義」だ。インターネットや監視カメラが捉える会議や街中・家の中での言葉、表情やリアクション、心拍数や安眠度合い……選挙に限らない無数のデータ源から人々の自然で本音な意見や価値観、民意が染み出している。「あの政策はいい」「うわぁ嫌いだ……」といった声や表情からなる民意データだ。個々の民意データ源は歪みを孕んでハックにさらされているが、無意識の民意データ源を足し合わせることで歪みを打ち消しあえる。民意が立体的に見えてくる。

無数の民意データ源から意思決定を行うのはアルゴリズムである。このアルゴリズムのデザインは、人々の民意データに加え、GDP・失業率・学力達成度・健康寿命ウェルビーイングといった成果指標データを組み合わせた目的関数を最適化するように作られる。(p.17-18)

 「インターネットや監視カメラ」、たぶんウェアラブル端末などからもデータはとれると思うのですが、そうしたものを活用するのは、監視社会っぽくて否定的な人もいるかもしれませんが、目的は「民意が立体的に見えてくる」ようにすることです。
 いまの選挙制度だと、政党あるいは候補者でしか選べません。多様な問題について、すべて自分の考え方と同じ政党・候補者に投票することはほぼ不可能です。問題Aと問題Bを推進したい有権者が、問題Aについては推進派だけど問題Bについては反対派になる候補者に投票せざるをえない、という状況もたくさんあります。
 問題ごとに投票するという煩雑なことは選挙制度としては面倒すぎてかつては不可能だったと思いますが、この「無意識データ民主主義」によって、もう少し有権者個人個人の問題意識に寄り添った投票ができる可能性はあるのではないかと思います。

 実際の意思決定アルゴリズムのデザインも書かれています(p.18-19)。

意思決定アルゴリズムのデザインは次の二段階からなる。

(1) まず民意データに基づいて、各政策領域・論点ごとに人々が何を大事だと思っているのか、どのような成果指標の組み合わせ・目的関数を最適化したいのかを発見する。「エビデンスに基づく目的発見(Evidence-Based Goal Making)」と言ってもいい。
(2) (1)で発見した目的関数・価値基準にしたがって最適な政策的意思決定を選ぶ。この段階はいわゆる「エビデンスに基づく政策立案」に近く、過去に様々な意思決定がどのような成果指標に繋がったのか、過去データを基に効果検証することで実行される。

この二段燃焼サイクルが各政策論点ごとに動く。したがって、

無意識民主主義=
(1) エビデンスに基づく目的発見
  +
(2) エビデンスに基づく政策立案

と言える。

 この意思決定アルゴリズム「無意識データ民主主義」によって、選挙の位置づけが変わっていく、と成田さんは書きます。すべてをアルゴリズムに任せるのではなく、人間が介入する部分もあることが書かれています。

こうして、選挙は民意を汲み取るための唯一究極の方法ではなく、(1) エビデンスに基づく目的発見で用いられる数あるデータ源の一つに格下げされる。
民主主義は人間が手動で投票所に赴いて意識的に実行するものではなく、児童で無意識的に実行されるものになっていく。人間はふだんはラテでも飲みながらゲームしていればよく、アルゴリズムの価値判断や推薦・選択がマズいときに介入して拒否することが人間の主な役割になる。人間政治家は徐々に滅び、市民の熱狂や怒りを受けとめるマスコットとしての政治家の役割はネコやゴキブリ、デジタル仮想人に置き換えられていく。

無意識民主主義は大衆の民意による意思決定(選挙民主主義)、少数のエリート選民による意思決定(知的専制主義)、そして情報・データによる意思決定(客観的最適化)の融合である。周縁から繁りはじめた無意識民主主義という雑草が、既得権益、中間組織、古い慣習の肥大化で身動きが取れなくなっている今の民主主義を枯らし、22世紀の民主主義に向けた土壌を肥やす。(p.19-20)

 こうした思考を考えつつ、いまの日々を見ることも大事だと思います。

まとめ

 本の最後にあった「おわりに」では、民主主義のアップデートの話が書かれていました。教育もまったく同じだと思いながら読みました。

私たちが日々使う商品やサービスは、ここ20~30年で別世界になった。90年代にはポケベルで家族や友達と一行のテキストをやりとりするのがせいぜいだった。それが、今では動画や無数の協業ツールで別府温泉から地球の裏側のアメリ東海岸の大学で働くことさえできる。情報・コミュニケーション・データ技術が作り出したこの激変が、人の手で作り出された天変地異であることに異論を唱える人はいないだろう。すばらしいことだ。

ただ、反省しなければならないこともある。そうした技術発展を公共領域、特に民主主義や選挙に反映していくことに人類は驚くほど失敗してきたことだ。投票や選挙のやり方は何十年間もほぼ変わっていない。日本ではネット投票すらいまだになぜか議論中で、政党が党内選挙でネット投票を導入すると先端的な試みとして報道されたりする。何かおかしい。懐かしいセピア色の昭和が堂々とのさばっている今の選挙や政治の仕組みは異常である。病的である。(p.239)

この本で取り組んだ課題やアイデアの多くは古い。私が考え出したことでも何でもなく、数百年も、下手すると数千年も前から、ずっと色々な形で変奏され、実験されてきた。民主主義に関する議論は同じ場所を何千年間もグルグル回りつづけていると言ってもいい。
ただ、同じ問題を取り巻く文脈や環境が変化したことで、同じ問題が違う表情を見せはじめた。数十年前までは、問題を解決する具体的で技術的に実現可能な代替案がなかった。100年前だったらどうしようもなかっただろう。でも、今は雲行きが違う。意思決定のために使える情報・データの質量や計算処理能力は桁がいくつも変わってきた。それを使って意思決定するアルゴリズムを支えるアイデアや思想・理論も貯まってきた。そいつらを繋ぎ合わせて民主主義更新のためのサバイバル・マニュアルにしてみたのがこの本だ。(p.240-241)

 とても刺激的な『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』を読みながら思い出したのは、ひとつは今年の春に放送されていたNHKドラマ「17才の帝国」です。あのドラマでは、リングをつけて生体情報などもモニターしていました(住民投票クリッカーの役割もしていました)。

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 もうひとつは、鈴木健さんが『なめらかな社会とその敵』のなかで書いていた「分人民主主義」のことでした。
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 『なめらかな社会とその敵』は、2022年10月13日に文庫版が出ますので、手元に単行本を持っていないので、買って改めて読もうと思います。

 少し先の未来のビジョンを知った上で、日々の学校をどうしていくのかを考えていくことが、学校をFuture Readyにしていく確実な道だと思っています。またがんばっていこうと思います。

(為田)