教育ICTリサーチ ブログ

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『まとまらない言葉を生きる』ひとり読書会

 荒井裕樹 先生の『まとまらない言葉を生きる』を読みました。荒井先生の専門は障害者文化論で、この本では、さまざまな闘いに身を置いていた人たちの言葉が紹介されていました。読んでいて、「言葉」について考えさせられる文章にたくさん出会いました。学校教育の場や、デジタルコミュニケーションの場での「言葉」についても考えさせられる文章にたくさん出会い、心が揺さぶられました。読書メモを共有します。

言葉が壊れてきた

 「まえがき 「言葉の壊れ」を悔しがる」から、「言葉の壊れ」についての部分を紹介したいと思います。この本を書いた荒井先生の思いが伝わる部分です。

「言葉が壊れてきた」と思う。いや、言葉そのものが勝手に壊れることはないから、「壊されてきた」という方が正確かもしれない。
こう書くと、若者の言葉遣いが乱れてきたとか、古き良き日本語表現が忘れられていくとか、そうした類いの苦言や小言に受け取られてしまうかもしれない。でも、ここで考えたいのは、もう少し深刻で、たぶん陰鬱な問題だ。
日々の生活の場でも、その生活を作る政治の場でも、負の力に満ち満ちた言葉というか、人の心を削る言葉というか、とにかく「生きる」ということを楽にも楽しくもさせてくれないような言葉が増えて、言葉の役割や存在感が変わってしまったように思うのだ。
この本は、こうした「言葉の壊れ」について考える本だ。できれば、それに抗うための本でありたい。
ただ、そこまで立派なものになれるかどうか、正直自信がない。でも、せめて「言葉が壊されつつある」ことに警鐘を鳴らして、「言葉が壊される」ことを悔しがりたい。この本を手に取ってくださった方々と、このやり切れない思いを分かち合いたい。(p.3-4)

 この後、「言葉はややこしい」「あらゆる言葉が毒にも薬にもなる」と書かれています。オンラインでの炎上騒ぎや、ヘイトスピーチなど「荒々しく乱暴な言葉」は読んでいて気が滅入ることも多いです。そうした言葉への出くわし方について続けて書かれていました。

でも、こうした言葉と出くわす場所というか、出くわし方というか、出くわす頻度というか、そうしたものは明らかに変わってきた。「私怨」の範囲を超えて、もはや誰の「怨」なのかもわからないような異様な荒々しさや禍々しさが、堂々と表通りを歩き出したような感じと言ったらいいだろうか。
特に2010年代に入って以降、憎悪・侮蔑・暴力・差別に加担する言葉がやけに目につくようになってきた。少しSNSをのぞいてみれば、海外にルーツを持つ人・少数民族生活保護受給者・性的少数者・障害者・生活困窮者・路上生活者・移民・外国人技能実習生たちに対する「理解のない発言」や「心ない言葉」はもとより、「憎悪表現」としか言い様がない言葉もあふれている。
ソーシャル・メディアは、かつてとは比較にならないくらい個々人の日常に食い込んできた。民間のサービスだけじゃなく、公共のサービスを受けるためにも必要になってきたから、これはもはや生活インフラだ。こうした場に粗雑で乱暴な言葉が溢れていることの怖さは、何度でも強調しておいた方がいい。(p.4-5)

 SNSに子どもたちも接するようになり、ソーシャル・メディアが「生活インフラ」となっている現状で、どのようにオンラインにある「言葉」に接するかということは、いま学校でよく言われる「デジタル・シティズンシップで学ばなくてはいけない」とも思いますし、それ以前に国語の授業や学校での日々のなかで学んでほしいことだなと感じました。
 こうした言葉はネット空間に留まらなくなっているので、「デジタル・シティズンシップ」というよりも、「シティズンシップ」をどう育てるか、ということに直結していると思いました。

憎悪表現は、ふりまく側にとってみれば自分なりの正義を叫んでいるのかもしれない。でも、そうした言葉をよくよく聞いてみると、卑近な嫌悪感が卑俗な正義感をまとっているだけだったりする。
「言葉が壊される」というのは、ひとつには、人の尊厳を傷つけるような言葉が発せられること、そうした言葉が生活圏にまぎれ込んでいることへの怖れやためらいの感覚が薄くなってきた、ということだ。(p.6)

 さらに続けて、言葉の「質」について書かれています。社会全体として「言葉」にどう向き合うのかを考えなければいけないと思います。そのなかで、僕は公教育がやれることはたくさんあると思います。

「言葉が壊される」というのは、これだけじゃない。社会に大きな影響力を持つ人、財力や権力を持つ人、そうした人たちの言葉もなんだか不穏になってきた。
対話を一方的に打ち切ったり、説明を拒絶したり、責任をうやむやにしたり、対立をあおったりする言葉が、なんのためらいもなく発せられるようになってしまった。(p.6)

日本語には「言質を取る」という慣用表現がある。あまり耳慣れないけど「言葉質(ことばじち)」という表現もある。この「質」は「人質」の「質」。言葉は本来「質」になりえるくらい大事なもので、発言者自身の言動をも縛ってしまうほど重いということだ。
人と人が議論できたり、交渉できたりするのは、言葉そのものに「質」としての重みがあるからだ。でも、いまは言葉の一貫性や信頼性よりも、その場その場でマウントを取ることの方が重要らしい。とりあえず、それさえできれば賢そうにも強そうにも見えるのだろう。でも、「言質」にもならない言葉で国や組織が運営されているのって、考えてみれば怖くて仕方がない。(p.8)

「壊されたもの」というのは、強いて言えば、言葉の「魂」というか、「尊さ」というか、「優しさ」というか、何か、こう、「言葉にまつわって存在する尊くてポジティブな力めいたもの」なのだけれど、こうしたものは短くてわかりやすいフレーズにはなりにくい。
もどかしいことに、いまの社会では、「短くてわかりやすいフレーズ」に収まらないものは、そもそも「存在しない」と見做されてしまう(逆に言えば、実体なんかなくてもキャッチーなフレーズさえ出せれば存在しているように見えてしまう)。でも、この本で考えたいのは、この「短い言葉では説明しにくい言葉の力」だ。
言葉には、疲れたときにそっと肩を貸してくれたり、息が苦しくなったときに背中をさすってくれたり、狭まった視野を広げてくれたり、自分を責め続けてしまうことを休ませてくれたり……そんな役割や働きがあるように思う。
そうした言葉の存在を、言葉の在り方を、なんとか描き出してみたいのだけれど、大切なものほど言葉にしにくいのが世の常というか、人間の業というか、とにかく手短にまとめたり、きれいに切り出したり、スマートに要約したりすることができない。(p.12)

 まえがきの中だけでも、ズシンと響く荒井先生の「言葉」への危機感。日々子どもたちとやりとりする言葉をもっと大事にしなくてはいけないなと感じます。

言葉は「降り積もる」

 「第一話 正常に狂うこと」のなかで、言葉には「降り積もる」という性質があると書かれている部分、それがソーシャル・メディアの影響を受けている、ということが書かれていました。

言葉には「降り積もる」という性質がある。放たれた言葉は、個人の中にも、社会の中にも降り積もる。そうした言葉の蓄積が、ぼくたちの価値観の基を作っていく。
「心ない言葉」なんて昔からあるけど、ソーシャル・メディアの影響で「言葉の蓄積」と「価値観の形成」が爆発的に加速度を増してきた。しかもその爆発を、誰もが仕掛けられるようになってきた。
それが怖い。
「誰かを黙らせるための言葉」が降り積もっていけば、「生きづらさを抱えた人」に「助けて」と言わせない「黙らせる圧力」も確実に高まっていくだろう。
(略)
こんな「圧力」を高めてはいけない。理由は「生きづらい人が可哀想だから」じゃない。「可哀想」というのは、「自分はこうした問題とは無関係」と思っている人の発想だ。
こうした圧力は、「自分が死なないため」に高めてはいけないのだ。(p.26-27)

 自分が受け取る言葉の蓄積が、「価値観の基を作っていく」というのは本当にそのとおりだと思っていて、だからこそ学校での言葉のやりとりを通じて、子どもたちの価値観の基を作っていくことに貢献したいと思っています。それは、意見が違う人へのリスペクトを伴った言葉だったり、失敗することを怖れずに何度でもやり直せる前向きなフィードバックの言葉だったり、どんなものでもいいですが、言葉が価値観の基を作るからには、学校でやりとりされる言葉は本当に大事だと思うのです。

「地域」か「隣近所」か

 「第五話 「地域」で生きたいわけじゃない」で書かれていた脳性マヒ者の横田弘さん(日本脳性マヒ者協会 青い芝の会 神奈川県連合会)たちの運動について、「地域」という言葉に生々しさがない、というところも非常に興味深かったです。仕事をしていて、「この言葉では伝わっていないな」と感じることが多いのですが、それはきっと、「生々しい実感」がないからだろうな、と思いました。

横田さんたちは、半世紀近く前から「地域で生きさせろ」と訴えてきた。横田さんたちが言ったり書いたりしてきた「地域」は、はっきりと「隣近所」という意味だった。障害者も、あなたの「隣近所」にすみたいのだ。あなたの「隣近所」で、あなたが生活するみたいに暮らしたいのだと訴えてきた。
「隣近所」という言葉には、生々しい生活実感がある。「地域」には、その生々しさがない。ほどよく生々しくないから行政文書でも使いやすいのだろう。でも、横田さんたちが求めてきたのは「書類に書きやすい地域」なんかじゃなかった。(p.81-82)

 生々しい生活実感がある「隣近所」という言葉を与えられると、そこから想像力が具体的になっていきます。

自分の「隣近所」を守ろうとする時、人は驚くほど保守的になったり、攻撃的になったりする。障害者運動の歴史を調べていると、そう感じる事が多い。障害者が街中で暮らすこと。地元の学校(普通校)へ通うこと。それに反対してきた人の多くは、どこにでもいる普通の人たちだった。
人を遠ざけるのは「悪意」ばかりじゃない。「何かあったら大変です」「困るのはあなたじゃないですか」といった「善意」が人を遠ざけることもある。横田さんたちは、そうした「善意の顔をした差別」を鋭く告発してきた。
こんなことを書いているぼくにも、こうした保守性や攻撃性は、きっとある。子育てをしていると、「隣近所」で起こる変化に過敏になっている自分がいる。この過敏さは、どこかで誰かを傷つけていないだろうか?(p.82-83)

 言葉を与えられることで、思考が変わっていく、こうしたプロセスを学校現場で作っていきたい、と思います。また、インターネットでの調べものをしたり、ChatGPTなどで簡単に文章を生成できるようになってくると、子どもたちが実感のない言葉を書いたり言ったりすることもこれから増えていくと思うのです。そのときにも、「言葉」を大切にしなければなりません。

「役に立たない」という烙印を押したがる人

 「第七話 「お国の役」に立たなかった人」で書かれていた、「役に立たない」という烙印を押したがる人についてのところを読んでいて刺さった言葉を紹介します。

誰かに対して「役に立たない」という烙印を押したがる人は、誰かに対して「役に立たないという烙印」を押すことによって、「自分は何かの役に立っている」という勘違いをしていることがある。
特に、その「何か」が、漠然とした大きなものの場合には注意が必要だ(「国家」「世界」「人類」などなど)。(p.107)

 仕事をしていて、「役に立たない」まで強い言葉を言わなくても、「あれはダメ」「終わってる」というような烙印は自分でも押してしまっているかもしれません。自分を省みなくてはいけないと強く思いました。

変えるために闘うための勇気はどうすればもてるか?

 この本を読んでいて、いちばん強く感銘を受けたのは「第一四話 「黙らせ合い」の連鎖を断つ」だと思います。「らい予防法闘争」に尽力した森田竹次さんの言葉から、どうして「闘う勇気」を人はもてるのかについて書かれていきます。

「らい予防法闘争」に尽力した人物に、森田竹次(1920~1977)という人がいる。戦前から療養所の中で言論活動を行ない、戦後も人権闘争に奮闘した。その森田が次のような言葉を残している。

人間の勇気なるものは、天から降ったり、地から湧いたりするものでなく、勇気が出せる主体的、客観的条件が必要である。
『偏見への挑戦』長嶋評論部会、1972年

(略)

差別されている人に「勇気を出せ」とけしかけるのではなく、勇気を出せる条件を整えることが大切で、そのためには孤立しない・孤立させない連帯感を育むことが必要だと、森田は訴えている。
森田はこの本の中で、孤立した弱者は<犬死にする>とも指摘している。<犬死に>という言葉を使うあたり、この人は差別されることの恐ろしさを骨の髄まで知っていたのだろう。だからこそ、差別との闘い方も熟知していたはず。
森田の言葉は、一読すると厳めしく見えるけれど、人は独りでは闘えないことを認めているわけだから、実はとても現実的な発言でもある。「人権闘争」や「差別との闘い」と書くと、いかにも偉大で崇高なことのように見えるのだけれど、実際に声を上げる一人ひとりは、恐怖心を持った生身の人間なのだ。(p.193-194)

 闘えるように、連帯感を育むことも、学校というコミュニティのなかでやってあげたいことだと思います。

「言葉」には「受け止める人」が必要だ。「声を上げる人」にも「耳を傾ける人」が必要だ。
でも、「自己責任」というのは、声を上げる人を孤立させる言葉だ。最近では、声を上げた人を孤立させて<犬死に>するのを待つような嗜虐的な響きさえ帯びてきたように感じている。(p.195)

 ここから「自己責任」という社会の中でよく言われ、僕らに降り積もっていて価値観の基に入り込んでしまってきつつある言葉について、荒井先生は書いていきます。

森田竹次の言葉をぼくなりに発展させるならば、「他人の痛み」への想像力は、人々が社会問題に対して声を上げるための<勇気>を育む最低限の社会的基盤だ。いま、「自己責任」という言葉の氾濫によって、この社会的基盤が危機的なまでに浸食されている。ぼくは、そうした危機感を抱いている。(p.195-196)

「自己責任」という言葉は、誰でも使えるし、誰にでも使える。こう書いているぼく自身、少し気を抜けば、この言葉を呟きそうになることがあって、背筋が寒くなることがある。
この言葉があふれている現代は、いつ、誰が、どんな理由で、誰から虐げられるかわからない状況に突入している。ぼくたちは、「自分が理不尽な目にあったとき、どうやって抗うか」を考えながら生活しなければならないステージに立っているのだと思う。
ただ、このように書きつつ、こんな疑問が湧いてくる。
そもそも、ぼくたちは「理不尽に抗う方法」を知っているだろうか。
誰かから教えてもらったことがあるだろうか。
「理不尽に抗う方法」を知らなければ、「理不尽な目に合う」ことに慣れてしまい、ゆくゆくは「自分がいま理不尽な目にあっている」ことにさえ気づけなくなる。
「自己責任という言葉で人々が苦しめられることを特に理不尽だとも思わない社会」を、ぼくは次の世代に引き継ぎたくはない。
だとしたら、ぼくたちは「理不尽に抗う方法」を学ばなければならない。
今回紹介した森田竹次にならうなら、理不尽な社会と闘う<勇気>を得たいなら、孤立しない・孤立させないことが大切なようだ。
そのためには何をしたらよいのだろう。
差し当たり、ぼくは「いまこの瞬間、怒っている人・憤っている人・歯がみしている人」を孤立させないことからはじめたいと思う。「自己責任」という言葉が、「人を孤立させる言葉」だとしたら、「人を孤立させない言葉」を探し、分かち合っていくことが必要だ。(p.197-198)

 「理不尽に抗う方法」を、どう学べるのか、これもまたシティズンシップの問題だと思いながら読みました。

言葉に救われる、ということ

 「終話 言葉に救われる、ということ」のなかで改めて、「言葉が壊されている」という荒井先生の危機感が書かれています。

何度も繰り返すけど、いま、ぼくは「言葉が壊されている」という猛烈な危機感を持っている。
言葉というものが、偉い人たちが責任を逃れるために、自分の虚像を膨らませるために、敵を作り上げて憂さを晴らすために、誰かを威圧して黙らせるために、そんなことのためばかりに使われ続けていったら、どうなるのだろう。
肯定的な感情と共に反芻できない言葉ばかりが、その時、その場で、パッと燃焼しては右から左に流されていく。そんなことが続いていけば、言葉に大切な思いを託したり、言葉に希望を見出したり、言葉でしか証明できないものの存在を信じたり、といったことが諦められたり軽んじられたりしていくんじゃないか。
多くの人が言葉を諦め、言葉を軽んじ続けたら、世界に何が起きるのだろう。きっと、ろくでもないことしか起こらないはずだ。次の世代にそんな世界を引き継がせないために、いまぼくにできるほとんどすべてのことが、ぼくを助けてくれた言葉たちへの恩返しのために、この本を書くことだった。(p.246-247)

 また、「あとがき 「まとまらない」を愛おしむ」のなかでは、SNSが言葉を代えているということも書かれていました。これは学校でのICT活用を推進する仕事をしている以上、向き合っていかなくてはいけない問題だと思っています。

最近、この社会は「安易な要約主義」の道を突っ走っている気がしてならない。とにかく速く、短く、わかりやすく、白黒はっきりとして、敵と味方が区別しやすくって、感情の整理がつきやすい。そんな言葉ばかりが重宝され、世間に溢れている。
この一因には、SNSが存在するのは間違いないだろう。確かにSNSの情報は速くて助かる。ぼく自身、普段からその便利さを享受している。
でも、SNSのフレームに切り出された言葉は、物事の緻密で正確な「要約」になっているかというと、そうでもないことが多い。かといって祈るような思いが込められているかというと、やっぱりそうでもないことが多い。ぼくらが毎日見ているあれらの言葉が、正確な「要約」でも世界の「一端」でもないとしたら、果たして招待は何なんだろう……。
いま、人類が経験している新型コロナウイルスの大流行も、この「安易なようやく主義」に拍車をかけるのではないかと、嫌な予想をしている。(p.251)

まとめ

 2023年に読んでいちばん心を揺さぶられた本です。子どもたちの前に立って、子どもたちと言葉をやり取りしているなかで、彼ら彼女らにどんな言葉を降り積もらせて、どんな価値観の基を伝えられているだろうかと考え込んでしまいます。先生方向けの研修で話していることも同様です。自分自身がもっと言葉を大切にしたいし、言葉を大切にする子たちを学校で育てられるお手伝いができたら、と強く感じました。

(為田)