教育ICTリサーチ ブログ

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書籍ご紹介:『ルポ 誰が国語力を殺すのか』

 石井光太さんの『ルポ 誰が国語力を殺すのか』を読みました。「国語力を殺す」というセンセーショナルなタイトルではありますが、子どもたちが使う「言葉」の力についていろいろな面から書かれている本でした。読書メモを共有します。

 たくさんの「言葉」を知っていて使えることは、思考の幅を広げてくれるし、他者を理解することにも繋がると思っています。だから僕は、子どもたちにはたくさんの「言葉」=語彙をもってほしいと思うし、人に何かを伝えること(プレゼンテーションでも、作文でも、何でもいいので)を努力する人になってほしいなと思っています。
 「第一章 誰が殺されているのか――格差と国語力」では、学校の先生が子どもたちの「言葉の力」について書いている箇所がありました。

学校の教員によれば、教室内でつくられるグループは不思議と子供が持つ国語力によって決まることも多いという。言葉を持っていない子供たちは同じような者同士で集まって粗雑な言葉でやりとりする傾向が強く、一方で言葉を持っている子供たちは豊富な語彙をつみ重ねて複雑なコミュニケーションをとることができる。
普段の学校生活のなかでは、それぞれのグループに有利不利はあまりなく、言葉を巡る能力差は可視化されにくい。むしろ、語彙の少ないグループの方が声が大きく、乱暴な言動が目立つので、他に比べて力を持っているケースが多い。だが、グループの中で人間関係が悪化した時、言葉を持っている子供とそうでない子供とでは反応に明確な違いが現れる。
言葉のない生徒たちは、うまくいかなくなった時に、なぜそうなったのかについて筋道を立てて言語で考えることをしない。とにかく悪い状況に陥ったことにストレスを感じて、場当たり的な方法で現状に無理やり蓋をしようとする。相手に暴力を振るう、学校に来なくなる、ネットに悪口を書き込む、リストカットをするなどといった行動だ。それは余計にトラブルを大きくすることになる。(p.30)

 他者と関係を作るときに、お互いに同じ「言葉」を近い意味で使えることは重要だと思います。言葉の意味をどう捉えるかは人それぞれであり、コミュニケーションをするときに擦り合わせられるようになるといいと思うのですが、そのためには多様な人とコミュニケーションを取る場が必要だと思います。
 こう考えると、学校の授業の場で「言葉」をやりとりする場面が必要だと思います。みんなである「言葉」を必ず同じ意味で捉えられるように言葉の意味を教え込むのではなく、ある「言葉」を少し違う意味で使っている人と意味を擦り合わせる場面が多くある方がいいと思います。

 「第三章 ネットが悪いのか――SNS言語の侵略」では、ネット上での「言葉」のやりとりについて考えなければならない、ということが書かれています。SNSをはじめネット上でふれる「言葉」をどう扱うかについては、教室という小さい世界で、授業支援ツールなどでのコメントの書き込みをみんなで見合ったりしながら考えていくことも必要だと思っています。

私が言いたいのは、昔の人は分別があったということではない。長い年月をかけて培われてきた対話によるコミュニケーションの形式が、ほんの10~20年ほどの間にSNSのそれに取って代わられたことで、社会的な規制や教育が追い付かないまま、新しい特殊な言語環境にすべての子供たちがさらされているという事実だ。
そこで飛び交う言葉は、従来のそれのように人間の関係性に基づいて取捨選択されたものではなく、二次元の世界から氾濫を起こしてなだれ込んできて、深い思慮を伴わないままどんどん暴力性を帯びていく傾向にある。にもかかわらず、親も教師もそれをどうつかいこなせばいいのか適切なアドバイスやコントロールの仕方を知らない。
(略)
現在の子供たちの国語力は、SNSの短文テキストコミュニケーションによって根底から揺さぶりをかけられている。元来、言葉は自己肯定感を育み、世界のあらゆることを思いやりでつなぎ、未来を切り開いていくためのものだった。それが無思慮に感情を吐き捨てるだけのものに取って代わられた時、子供は、世界は、未来はどうなってしまうのか。
私達が目を向けなければならないのは、そんな世界の危機的な一側面なのである。(p.152-153)

 「第六章 非行少年の心に色彩を与える――少年院の言語回復プログラム」では、少年院のなかで子どもたちが「言葉」で考えさせるようにしているエピソードが書かれていました。感情に「言葉」を与えられなかった子どもたちが、「言葉」をもつことで感情を処理できたり、思考することができたりする。法務教官の江島さんのコメントを紹介します。

「うちでは内省ノートの他に、日記、作文、感想文など、毎日のように物事を言葉で考えさせるようにしています。最初は何も書けなかったり、ノート一面に『………………』とか『死にたい死にたい死にたい』と書いてきたりする子もいます。言葉が出ないんです。そんな時、私たちは無理に促すのではなく、待たなければなりません。最初はできなくても、みんなどこかに思いを表現したい気持ちがあるんです。だから、彼女らが少しずつ自己表現できるようになるのを忍耐強く待つ必要がある。少年たちは自分の言葉で語るようになると、急に成長していきます」(p.235)

 教室で使っている「言葉のバブル」プリントも紹介されていました(p.247)。喜怒哀楽を示す言葉がたくさん書かれていて、それを大小のマル印に入れていくというプリントです。「怒っている」という感情にも、たくさんの言葉があります。たくさんの言葉を知ることで、それを思考に使えるようになります。語彙を増やすことは、生活のなかでの認知の解像度を上げることにも繋がっていくと思います。

 第七章は小学校での授業の紹介、続く「第八章 中学校はいかに子供を救うのか――国語力育成の最前線2」では、中学校での授業の紹介でした。日本女子大学附属中学校・高等学校の中学2年生が学ぶ、『アンネの日記』の文庫本を1年間使う授業が紹介されていました。

日記を貫くのは、少女のしなやかな人間性と、生きることへの揺るぎない希望だ。女子校という空間だからこそ、生徒たちは同年代のアンネの思いに向き合い、共感し、語り合うことができる。精読だけでなく、一年の間には作家研究や時代研究も行う。これが、読解力に留まらず、生きる上で必要な国語力を磨いていくことにつながる。
実際に、授業を見学すると、生徒たちの思考は非常に不快。ある日の授業で教員が生徒に出した課題は、「アンネにとって『書く』とはどういうことだったか」というものだった。むろん、この問いに正確な答えがあるわけではなく、生徒は自分自身の頭で考え、意見をまとめなければならない。(p.287)

 日本女子大学附属中学校・高等学校の野中友規子 教頭先生のコメントもとてもよかったです。

「本校では、すべての教科の基礎として国語を位置づけているので、社会や理科といった他の科目や行事とも連携して、レポートやディベートによって考えること、書くこと、話すことをしていきます。各科目が縦割りではなく、国語力の育成という共通の意識を持ってつながっているのです」(p.291)

 たくさん書いて、それを先生だけでなくクラスメイトも読んで、お互いに感じたことを言い、他者の書いた文章を読み、また自分の文章を書き直し、思考を磨いていく、そんな授業になっているのかな、と思いながら読みました。こうした、書く→書いたものを読み合う→書き直す→思考を磨く→…という授業は、一人1台の情報端末を使うことで、とてもやりやすくなったと思います。

 「言葉」を操る力を育てる授業を先生方が行うサポートをしていきたいな、と感じました。

(為田)