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書籍ご紹介:『みんなのアンラーニング論 組織に縛られずに働く、生きる、学ぶ』

 法政大学経営学部教授の長岡健 先生の著書『みんなのアンラーニング論 組織に縛られずに働く、生きる、学ぶ』を読みました。副題にある「組織に縛られずに働く、生きる、学ぶ」ということができるために、学校がどんな役割を果たせるのだろうと思って読みました。読書メモを共有します。

 「はじめに」のなかで、アンラーニング(unlearning)という言葉の元になっている学習(learning)という言葉について書かれていました。

学習という言葉からまず連想されるのは、おそらく今でも「テストで良い点を取る」や「資格を取得する」といったこと。目的は何であれ、知識やスキルを習得する活動にはりつけるラベルとしての「学習」。(略)そう考える人がほとんどなのかもしれません。もちろん、それが学習の重要な一側面であることは言うまでもありませんが、ちょっと違った角度から、私たちにとっての「学び」の意味と可能性を考えてみたいと思っています。
この本では、「働くこと、生きること」と「学ぶこと」の関係を考えていきます。
私たちの働き方や生き方は、「学ぶこと」によってどう変わっていくのでしょうか。もう少し前向きに言ってみましょう。私たちは「学ぶこと」によって、自分らしい働き方、生き方を見つけ、実践することができるのではないでしょうか。学習という活動の意味づけを見直すことでそれは可能になると、私は考えています。「学習=目的達成のための知識・スキルを効率的に習得する」という見方を一旦脇において、新たなワークスタイルやライフスタイルを切り開いていく創造的な活動としての学習の可能性を探ってみたいと思います。(p.4-5)

 学校では、「学習=目的達成のための知識・スキルを効率的に習得する」という意味づけで行われている授業も多いと思いますが、それだけでなくもう少し広い「学習」の意味を持たせて子どもたちの学ぶ場を作ることが大切だと思います。そうしたエピソードがたくさん紹介されていますが、そのなかのひとつとして「越境学習」について書かれていました。

おそらく、私が考える越境は、人材育成関係者が使っている「越境学習」という用語とは違う意味をもっているのです。
「何かを学ぶために所属組織/場所の外へ行く」だけで、その行動を越境とはみなしません。特に興味がある訳ではないテーマの話を聞いたり、仕事と関連しない活動に参加したり、自分と異なる価値観をもつ人物に出会うことで、あえて自分を不安定な状態に置きながら、自分の中の“正しい”考え方やモノの見方を揺さぶっていく。それが私の考える越境です。つまり、「欲しいものがありそうなところを見つけて、出掛けて行って、もち帰ってくる」というより、むしろ、不安半分、興味半分の心境で「あなたの知らない世界」に行くイメージ、ちょっとビビりながらも、興味をそそられて、おそるおそるのぞきに行くような感覚です。(p.77)

 ただ所属組織/場所の外へ行くだけでなく、自分の考え方やモノの見方を揺さぶることが「越境学習」だと書かれています。こうした体験を学校で子どもたちに用意することはできるでしょうか。

 また、ロンドンビジネススクール教授のリンダ・グラットンが著書の中で語っている、「ビッグアイデアクラウド」も、学校で子どもたちにもってもらいたいことだなと感じました。

ロンドンビジネススクール教授のリンダ・グラットンは著書『ワークシフト』の中で、資本主義社会が経済格差を克服し、ゆとりある幸福な暮らしを実現するために、私たちが目指すべき変化の方向性を示しています。その中のひとつに、自分が求める働き方を自分の自由意思で決めていく社会を目指そうという提言がありますが、そのために求められるのが、多様な人々とのネットワークです。多様性を拒絶する閉ざされた世界で孤独な競争を繰り返し、消耗するのではなく、自分とは異なる世界に生きる人たちとの出会いを通じて、人生の地図を軽やかに広げていく。そんな世界の多様な人々とのネットワークを、グラットンは「ビッグアイデアクラウド」と呼んでいます。(p.83-84)

 「ビッグアイデアクラウド」の特徴として、以下の2つが書かれています(p.84)。

  • 自分の興味・関心を広げてくれる人々との弱いつながり
  • 自分とは違うタイプの人々とのネットワーク

 SNSが発達した現代で、「自分の興味・関心を広げてくれる人々との弱いつながり」は構築しやすくなっているかもしれません。一方で、情報が選別され、自分にあった情報が多く表示されるようになると「自分とは違うタイプの人々とのネットワーク」を構築するのは難しくなると思います。多様な人たちが集まる場としての学校が、「ビッグアイデアクラウド」を体験できる場になればいいと思います。
 また、出会った「ビッグアイデアクラウド」を広げるために、対話の時間をもつことの重要性も書かれていました。子どもたちに対話の時間を与えることも、長期に渡って通うコミュニティである学校だからこそ提供できる価値かもしれません。

ビッグアイデアクラウドを広げていくために大切なのは、シリアス・ファン(serious fun: 真面目に楽しむ)な対話の時間をもつことです。「役に立つ知識を得よう」と意識するのではなく、また、「このテーマの話が聞きたい」と焦点をあらかじめ絞らずに、対話そのものを楽しむという姿勢でいいのです。そんな”ゆるい”意識で楽しむ対話を通じて、ビッグアイデアクラウドが広がっていくのですから。(p.85)

 この本は、「学習は手段なのか?」という問いかけからスタートしていますが、学習を始めとする活動を「手段化しない働き方、生き方」が大切だと書かれています。

「手段化しない」とは、組織や学校がお膳立てした目的や環境を無批判に受け入れることなく、自分にふさわしい目的や環境を自分自身でつくっていくことです。つまり、自分の活動に関わる要素をアンタッチャブルな与件とはみなさず、主体性を力強く発揮していこうとする行動原理を、本書では「活動を手段化しない」と呼んでいます。
そして、これも繰り返し言ってきたことですが、「手段化しない」という行動原理こそが、行動を組織に縛られず、判断を組織に依存しない”心の自由さ”を醸成していくと、私は考えています。すなわち、それが「アンラーニングしながら働き、生きる」ということです。(p.156-157)

 自分自身でどう変化に対応するかを決めることが大切だ、と書かれていますが、これはなかなか学校では難しいな…と感じながら読みました。誰かから与えられた「こうやってやりなさい」「こうやって考えなさい」をきちんとできるようになってから、底から離れて、自分自身の「学び」を考えていくというステップを踏んでいくのが、小学校から高校くらいでは大事かなと思っています。だんだん自分自身で学べるようにしていく、というふうにグラデーションになるのかな、と思っています。

「学習を解き放つためのアンラーニング」という理解は、組織論ではなく、学習論の文脈での語りに見いだすことができます。そして、この意味でのアンラーニングは、哲学者の鶴見俊輔ヘレン・ケラーの対話から引用するかたちで、「学びほぐし」と訳されています。
手段化されたアンラーニング、つまり、「変化に対応するためのアンラーニング」との大きな違いは、何が「不適切か」「妥当性が高いか」の判断を組織や上司に委ねることなく、自分自身で行うべきという立場を明確にしている点にあります。しかも、単に組織や上司の代行ではなく、自分自身の中の”正しさ”を揺さぶり、従来の価値観や規範を見つめ直しながら、自分の進むべき方向や目指したい未来像を探索することを志向しているのです。
このような意味でのアンラーニング(=学びほぐし)は、組織が環境変化に適応するための手段ではなく、学習者個人が自分自身の「学習」のあり方を見つめ直そうとする意志であり、それを実行していく行為は、「手段化された学習」から自分自身を解き放つプロセスの中にあると言えます。(p.198-199)

 最後におまけで、よくビジネスの研修などで使われる、変化に気づかずに何もせず茹で上がってしまう、茹でガエルの寓話について書かれていた部分を紹介したいと思います。子どもたちにそのまま伝える必要は全然ありませんが、先生方はこうしたメタファーの変化も知っておく意味があるように思います。

さて、茹でガエルは「鈍感な怠け者」でしょうか? おそらく、その逆で、「勤勉な実務家」ではないかと、私は考えています。ビジネス界では有名な寓話ですが、茹でガエルはかつて「鈍感な怠け者」のメタファーとして理解されていました。「ぼーっとしていると茹でガエルになるぞ」という上司の言葉に「勤勉な実務家をめざせ」という寓意が込められていたのは、人材育成的な学習が浸透する前のビジネス社会だと思います。
ところが、学習が手段化された世界では、勤勉な実務家だからこそ、上司や教員の言葉に何の疑問ももたず、指示に忠実に従い、与えられた目標に向かって全力疾走し続けることになるのです。目的は上から与えられるままに、とりあえず正しいことにしつつ、「突貫工事のエキスパート」として、ひたすら目の前の課題をこなし続ける結果、21世紀的な意味での茹でガエルになってしまうのではないでしょうか。
茹でガエルとは鈍感な怠け者のメタファーではなく、狭い器の中の”正しさ”を疑わない者のメタファー。学習が手段化された世界に生きる私たちにとって、それが茹でガエルの21世紀的な意味だと思います。本書の1章でフリーエージェント的な働き方の特徴として、「大きな組織から飛び出すリスクよりも、組織内の閉じた世界に篭るリスクを意識する」という点を挙げましたが、まさに狭い器の中の”正しさ”に凝り固まった茹でガエルになるリスクのことを意味しています。(p.184-185)

 それで、「アンラーニングって何?」というのがあまり見えない読書メモになってしまいましたが、自分としては「学校の授業がどんな場になればいいのだろうか?」と考えるヒントが多く得られた本でした。

(為田)