教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

書籍ご紹介:『現実はいつも対話から生まれる 社会構成主義入門』

 ケネス・J・ガーゲン メアリー・ガーゲン『現実はいつも対話から生まれる 社会構成主義入門』を読みました。「Help Schools/Education Become Future Ready」という行動指針をもって活動をしているなかで、何人かの方に「アクションリサーチを学んだことがありますか?」「社会構成主義の本を読んでみたら?」と薦められたことがあり、そのなかで推薦された一冊でした。

 読んでみての感想は非常に学びが多く、本当におもしろかったです。また、仕事をするうえで大切にしなければならないな、と感じることもたくさんありました。自分の中に留めおきたいと思ったことを中心にメモとして公開したいと思います。

 まずは、大学でもまったく触れてこなかった、「社会構成主義とは何か?」というところからまとめておきます。

社会構成主義はもともとデュルケームなどにより、社会学の考え方として生まれたものです。「現実」はそれとして存在するのではなく、人々の頭の中で作り上げられるという考え方でした。
(略)
ケネス・ガーゲンは、社会構成主義の考えは社会のすべてが幻想だとか実存が存在しないということではないと主張し、人は対話(ダイヤローグ)を通して意味をつくっていくのであり、「言葉が世界を創造する」と述べて社会構成主義に新しい価値を与えました。(p.3-4)

 ここで書かれている、「「現実」はそれとして存在するのではない」という考え方は、大学のゼミで学んでいた、意味づけ論に非常に近いと思っています。

 意味づけ論は、伝えたいと思う言葉に意味はなく、そこに意味をつけるのは、言葉を受け取る側なのだ、という考え方です。したがって、どんな意味づけをするかは言葉を受け取る側がどういう思考をする価値の枠組み(フレーム・オブ・レファレンス)を持っているか、にかかってきます。僕は、「だからこそ、このフレーム・オブ・レファレンスを育てるために教育が大切だ」と思って、教育業界に進みました。
 そうしたことを思い出させてくれる箇所もいくつもありました。

説明が「正確」かどうかは、「共通の伝統」にかかっているのです。(略)
伝統の一つひとつに、それぞれ特有の判断基準があります。ですから、裁判での証言が真実化どうかというのは、その証言者が、私たちと同じように言語を使っているかどうかによるのです。デベロッパーが新しく地域を開発しているのか、それとも、空き地を破壊しているのかということも、「開発」という言葉をどのような意味で使うかにかかっています。
その意味で、「真実を話す」ということは、「ある特定のコミュニティ(共同社会)の伝統を支持する形で話す」ということなのです。(p.29-30)

 コミュニティごとにそれぞれ伝統があり、コミュニティをまたがる形でのコミュニケーションは、そのことを念頭においてしなければなりません。

ヴィトゲンシュタインによる定義では、私たちの「言語ゲーム」は、「生活形式」と彼が呼ぶ、より大きな行動パターンの中に組み込まれています。実際、生物学者、美容師、銀行家はそれぞれ違った「生活形式」の中にいます。
「言葉」は、これらの異なる「生活形式」を一つに束ねる助けとなっていると同時に、「生活形式」が「言葉」に意味を持たせているのです。また、それと同時に、これらの「生活形式」が私たちの世界に「限界」をつくってもいます。(p.29-30)

 ヴィトゲンシュタイン言語ゲームの話も、ひさしぶりに読みましたが、やはりおもしろい。

私たちはみな、「事実」と「価値観」との違いを知っています。
「事実」とは、「確かなもの」で、客観的であり、願望や政治、宗教といったバイアスがかかっていないエビデンス(証拠)に基づいた記述です。
一方、「価値観」とは、「脆弱なもの」で、主観的であり、確固たる基礎もなく、単純であり、個人的に心を注いでいるものを表しているに過ぎないと考えられています。
私たちは「事実」には同意しなければなりませんが、「価値観」に関しては、それぞれ違うものを持つ権利があるとも考えられているでしょう。
社会構成主義は、この長い間に培われた「事実」と「価値観」の区別に挑戦します。(p.33)

 「事実」と「価値観」の違いは、「学校にICTを導入すべきか」という仕事に関わるところでも、気をつけて行動しなければならないところだな、と思っています。自分のいる場所から見えることは、多くの場合「価値観」であり、「事実」ではないかもしれない、と思ってコミュニケーションを取りたいと思っています。
 僕は、学校はガラガラポンで作り直そう、とは思っていません。今まで先生方が作り上げてきたもののなかに残したいものもたくさんあります。ただ、それもすべてが「事実」ではなく「価値観」でしかないものもたくさんあるのだと思います。
 この間を、どのように繋いでいかなくてはならないのか、ということを懸命に考えていきたいと思います。
 そうした考え方についても、書かれていました。

社会構成主義は、どの伝統、どの価値観、どの宗教、どの政治的イデオロギー、どの倫理観が、究極的あるいは超越的に正しいか間違いかを決めるという責務から、私たちを解放します。
構成主義の視点では、あるグループにとっては、すべてが正当かもしれないのです。構成主義者の考えは、「徹底的な多元主義」、つまり、さまざまな名前のつけ方、さまざまな価値の置き方に心を開くよう私たちを誘います。
自分自身の伝統の優位性を主張するための基盤を持たないので、他の伝統に関心を持ち、敬意を払うという姿勢が生まれるのです。自分の伝統には存在していないもので、他の伝統が提供できるものには何があるでしょうか?自分の伝統にあって、他の伝統にとっても価値があって共有できるものは何でしょうか?(p.40-41)

構成主義の概念に関わることによってもたらされる最も興味深いことの一つは、それがもたらす「止まることのないクリエイティビティ(創造性)」です。
唯一無二の真実を探し求める人は、世界をたった一つの固定された言葉へと単純化しようとします。唯一無二の真実を宣言するということは、言葉を「急速冷凍」して、その結果、新しい意味が現れる可能性を狭めてしまうということです。
一方、構成主義者が支持するのは、「常にいつまでも開かれたままの対話」です。そこには常に、もう一つの声、もう一つのビジョン、もう一つの構想や修正案という余地があって、「関係」にはさらなる広がりがあります。(p.49)

 ここで書かれている、「常にいつまでも開かれたままの対話」ができる人でありたいと思っています。学校の先生の声を聴き、一緒に学校をFuture Readyにしていく仲間として活動していきたいと思っています。

 実際に、教育に関しても書かれている箇所がありました。

従来型の教育は個人主義に根差しています。伸ばすべきは一個人の知性であり、学生は本人の成果に基づいて評価され、各自に成績がつけられます。
しかし、構成主義的な概念は、人間観と政治的イデオロギーの両面からこの個人主義に疑問を投げかけます。
先に、個人の「考え」とされるものは、実は関係性に身を浸すことで得られる副産物なのだと論じました。たとえば「正義」や「責任」を説明する言葉を持たないのに、どうやってそれらについて思考できるでしょうか?
また、これまで見てきたように、個人を社会の基本単位にすれば、そこから生まれるのは分離と孤立の文化です。かたや、私たちがリアルだとか合理的だとか大切だとかみなすことすべてが関係性の副産物だとしたら、関係性のプロセスを教育実践の中心に据えるのも理に適ったことなのです。(p.115-116)

 実際に教育者のなかで「関係性」を取り入れた実践についても続けて次のように書かれていました。

教育者の間で関係性を取り入れる動きが加速しています。この動きから生まれた大きな成果が協働学習の登場です。これは、他者と共に学習を行い、他者の中に身を置くことによって学びを得るものです。先に紹介した対話を取り入れた実践は一つの例に過ぎません。
関係性を導入する動きの中でも、おそらく一番よく知られているであろう形態が「コラボラティブ・ライティング(協働作文)」です。
小学校から大学まで、ライティング担当教師は個人ごとに課す作文の課題ではなく、コラボラティブ・ライティングを実験的に取り入れています。
コラボラティブ・ライティングでは、生徒は2人1組となるか、小さなグループの一員となります。いずれにせよ、生徒は最終原稿を一緒に仕上げるのです。
教師も実感していることですが、この「一緒に取り組む」プロセスにはグループメンバー全員の強みやスキルが活かされます。
例えば、抽象的概念を扱うことを得意としている生徒もいれば、説明に使うのにぴったりの物語を提供してくれる生徒もいるでしょう。奇抜な考え方をする生徒やグループをやる気にさせてくれる生徒もいるでしょう。
メンバーそれぞれが全体に対して自分なりのやり方で貢献することになります。このように生徒が強みを活かして貢献できるようになるだけでなく、互いの姿から学ぶことも可能になります。(p.116-117)

 TwitterなどのSNSでよく見られる炎上やコミュニケーションのすれ違いなどに関しても、社会構成主義と絡めて考えられそうなことが多いように思いました。

伝統的に知識の探求は「真実」の探求と密接に関係していました。しかしこの伝統とは対照的に、社会構成主義者は「知識」を特定の思い込みや信念、価値観に導かれた各コミュニティの産物として理解しています。
「すべてに当てはまる真実」ではなく、「コミュニティ内での真実」という認識をしているのです。
「無知だ」と言われる人は、すべての知識に欠けているのではありません。ただ、彼らを無知だとみなすコミュニティに属しているだけなのです。彼らは、別の種類の知識によって機能しています。
たとえば数学の教授は野球選手より物知りだというわけではありませんし、歴史学者はレンガ職人より物知りだというわけでもありません。それぞれの集団の知識が異なる方法で異なる目的のために機能するのです。
知識は複数存在するという認識への発想転換が、私たちが以前から行っていた知識を構成する行為に対し、社会構成主義的な疑問をさらに投げかけるきっかけになります。(p.131-132)

 「教育をFuture Readyにする」などという大きなテーマは、非常にたくさんの分野にまたがって問題解決をしなくてはならないと思います。その際に、分野を越境していくことは本当に大切だと思っています。

社会構成主義者の課題は分野の境界を曖昧にすることです。私たちの最高の幸福は、「クロストーク」にあります。
「クロストーク」とはすなわち、複数の現実や価値観が交わることを可能にするような対話のことです。現実や価値を共有することができないと、価値や新たな伝統が生まれる可能性を見落としてしまうという状態を招きます。(p.135)

 アクションリサーチがどのように存在しているかについても紹介されていました。いま自分がしている仕事の仕方がアクションリサーチとどれくらい近いのかは、僕自身にはまだ評価できないのですが、「新しい可能性を生成する」ことに貢献できているのだとしたら、本当にうれしく思います。

研究者はリサーチ利用の可能性に関心を寄せる傾向にありますが、それは未来を予測する目的で過去を記録するためではなく、新しい未来を直接つくり出すためです。
この狙いに向けて特化されているのがアクションリサーチです。1970年代に始まったアクションリサーチは、当時の政治や知識開発の盛り上がりと時を同じくして起こりました。
当時の研究者は研究所にこもって人や動物を研究し、仲間の研究者や長期的な科学の成果のために雑誌論文を発表するということは目指していませんでした。彼らはむしろ、外に出て、必要とする人に奉仕したのです。そのような研究が重苦しい政治情勢や経済状況から人々を解放することを促し、新しい生活の可能性を生成することを望んでいました。
この特殊な形式のリサーチ関与は長年にわたって規模が拡大されていますが、特にイギリス、スカンジナビア南アメリカで顕著です。1990年代後半にコロンビアのカルタヘナ市で開催された「アクションリサーチ・ワールドシンポジウム」には、61カ国から2000人もの代表が集結しました。
現時点では、アクションリサーチの主な目的は苦痛の緩和や正義の確立、争いの縮小、民主的プロセスの増進などを含むものです。アクションリサーチは、組織開発や教育、コミュニティ開発、セラピーなど、さまざまな実践の場で役立っています。(p.161-162)

 読み終えて、自分の仕事の整理をすることもできたし、これからのことを考える機会にもなりました。アクションリサーチも社会構成主義も本当におもしろい。「他にもこれ読んだ?」という文献などがありましたら、ぜひご紹介いただきたいです。
 また、学校をサポートする立場の企業の方々と一緒に、このテーマで何かディスカッションやミニ講義などの場もできたらうれしいな、と思いました。興味がある方は、SNSやこのブログを通じて、コンタクトしていただければと思います。

(為田)