NHKで放送していた「星野源のおんがくこうろん」でトシ解説員をされていた、大和田俊之 先生の『アメリカ音楽の新しい地図』を読みました。
目次を見ると、テイラー・スウィフト、ブルーノ・マーズ、ラナ・デル・レイ、チャンス・ザ・ラッパー、ケンドリック・ラマー、カーディ・B、BTSとずらりと並ぶアメリカのヒットチャートの常連の皆様…。個人的には聴くアーティストも聴かないアーティストもいるのですが、アーティストを取り巻くアメリカ社会のことを知れたのがすごくよかった。また、社会との接点を知ることで、より音楽を聴く楽しみも増えた(さっそくSpotifyで検索して聴いてみたりもしちゃいます)。
最後の章である「10 パンデミックとアメリカ音楽」には、学校とテクノロジーとパンデミックの話が触れられていた部分がありました。1918年のスペイン風邪のパンデミックと2020年から続く新型コロナウイルス感染症とを比較しながら、パンデミックによる社会の変化と新しいテクノロジーの登場が書かれていて、これが学校へのICTの導入と新型コロナウイルス感染症との関係になぞらえて考えさせられました。
1918年にも学校は閉鎖されていて、そのなかで新しいテクノロジーであるフォノグラフやプレイヤー・ピアノがどんなふうに迎えられたのかが書かれていました。
フォノグラフやプレイヤー・ピアノは、まず第一に劇場などのライブ演奏の代替物として宣伝されている。パンデミックで現実的に生演奏に触れる機会が失われてしまったが、レコードやピアノロールのサウンドでそれに限りなく近い体験が家でも可能だというのだ。だが当時の新聞などを詳細に分析すると、これらの新メディアには別の意味や機能が期待されていたことがうかがえる。たとえばスペイン風邪第三波の渦中、ケンタッキー州ルイヴィルの新聞には公立学校でレコードを使用した新しい音楽の教授法が紹介されている。「新しい授業法のもとで学んだ生徒の急激な進歩が披露される」とする記事からは、フォノグラフをライブ演奏の再現装置というよりは、プロの音楽家ほど歌や演奏技術に恵まれていない一般の音楽教師の代替物として利用しようという教育委員会の意図が垣間見られる。
公立学校の教師が全員、子供達に教えられるほど演奏や歌に熟達しているわけではないし、そうしたことも期待されていない。もっとも優れた教員ですら、音程が外れてしまうかもしれない。だが最良の歌手と最良の音楽のレコードがあれば、教師の資質がどうであれ、スタンダードな教育を与えることができる。
つまりここでレコードは、現実の教師に代わる存在――その場所に身体的に実在するわけではないが、音楽を教授するもの――として想定されている(それはたとえば、現代の、というか少し前の時代の比喩を用いれば、予備校の人気講師のサテライト授業に相当するかもしれない)。さらに興味深いのは、フォノグラフによっては音楽を鑑賞するためではなく、使用者自ら音楽を演奏/操作する機能が強調される点である。とりわけトーン・コントロール機能がついたヴォカリオンの付属パンフレットはこの点をアピールする。「この素晴らしい新機能――グラデュオーラ――によって、エオリアン・ヴォカリオンは音楽表現が可能な機器(instrument)となったのです。あなた自身が演奏(play)できる楽器(instrument)として、音楽的なアイディアや感情を表現できるのです」(p.224-225)
テクノロジーによって演奏が変わる、という話は僕はとても好きです。自分が楽器をほとんど演奏できないからこそ、「演奏できないけど楽しめる」というのが素晴らしいと感じるからだと思います。5年前に古河市で見た電子打楽器奏者 MASAKingさんのステージを思い出しました。
blog.ict-in-education.jp
こういう観点から、GarageBandをはじめ、いろいろなデジタルのクリエイティブツールを捉え直すのも必要だと思います。
また、コロナ禍のなかで、オンラインゲーム「フォートナイト」でライブ活動が行われたことなども紹介されていました。
1918年のインフルエンザ流行時も、2020年の新型コロナウイルス感染症流行時も、学校や教会、そして劇場は閉鎖された。集会それ自体が感染爆発を誘発するとされ、やがて人々は互いに近づくことさえ避けるようになるだろう。パンデミック下のアメリカでアジア人/アジア系へのヘイトクライムが急増したように、100年前の戦時中もウイルスと敵国が同一視され、排外主義が強まった。身体接触を伴う新しいダンスステップの野蛮さすら感染症に例えられるのだ。人が集まることを前提とするライブエンタテインメントは危機的な影響を受けるが、いずれの時代も新しいテクノロジー――それはフォノグラフでありプレイヤー・ピアノであり、オンラインゲームでもある――を駆使して、脱身体化されたライブ体験の可能性が追求された。私たちはいかにして身体を用いずに集合し、ライブを楽しめるのだろうか。目に見えないウイルスを恐れる私たちは、身体を喪失させながら、それでも他者と触れ合う感覚を研ぎ澄ませ、現実を塗り替える新たなテクノロジーの誕生を夢想するのだ。(p.229-230)
パンデミック下で、テクノロジーを使ってどのようにコミュニティのなかで生きていくのか、ということを考える機会になりました。
…と、書きましたが、この『アメリカ音楽の新しい地図』のメインはあくまで、アメリカ音楽です。アメリカ音楽の新しい聴き方を知りつつ、パンデミックとテクノロジーと学校のことを考える機会になりました。
(為田)