奈須正裕 先生と伏木久始 先生の編著『「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実を目指して』をじっくり読んで、ひとり読書会として読書メモをまとめていこうと思います。今回は伏木久始 先生が書かれた「第4章 互恵的に深化・発展する個別最適な学びと協働的な学び」です。
最初に、この章では、「個別最適な学び」と「協働的な学び」の関係性を3つの切り口から検討する(p.77)と書かれていました。
この3つの切り口で順に説明がされていくのですが、その前に、「個の学びが求められる意味が3点説明されていた(p.81-84)ので、まとめてみました。
- 新たな画一化の波からの救済
- ◯◯スタンダードのように、学級経営や授業実践がマニュアル化されてしまっている=教師間にも、同調圧力が。
- 「こうした教員スタンダードの発想は教員の自律性を損ない、多様な教員がいるメリットを埋没させるため、教員が働きやすい学校にもならない。横並びの教育を助長させないためにも、個別最適な学びという理念を推奨したい」(p.82)
- 子どもたちの多様性へのまなざしの回復
- 「個性ある人格として子どもを捉える前に全体指導で足並みをそろえようとする学習指導や生活指導は、自律的な学習者を育てることには貢献しないし、子どもの自己肯定感を高めることはできない。全体指導優先の教育方針が採用される場合、求めたい理想的もしくは標準的な子どもの姿(スタンダード)を共通に目標設定して、多様な子どもたちをその目標と照合して評価し、不足部分を補おうとする心理が優先する指導に陥っていく。」(p.82)
- 「子どもの多様性を尊重する教育を目指す立場では、個別最適な学びという基本理念に即した指導が優先される必要がある」(p.82-83)
- 義務教育の役割についての根本的な問い直し
「子どもの多様性を尊重する教育」を目指すために、「個別最適な学びという基本理念に即した指導」が必要となる、と、個別最適な学びの目的が明確になっているのがいいと思いました。「個別最適な学び」は、授業の効率化のためでも、学力の向上のためでもなく、「子どもの多様性を尊重する」ことを目指すのだな、と。こうしてはっきりと言えている授業はあまりないようにも思います。
「自律的な学習」と「他律的な学習」
1つめの切り口は、「自律的な学習」と「他律的な学習」です。僕は小学校の授業を見ることが多いのですが、発達段階によっては「自律的」と「他律的」はあまり区別できないような感じもしています。このあたり、見ている授業の数が足りないな、と思いながら読みました。
学習者が個別に学習する場合も、複数で協働して学ぶ場合も、それが学習主体である子どもの自律的な学びとしてあるのか、他律的な学びとして位置づくのかによって、個別最適な学びを目指す教育の在り方も、協働的な学びの実質も変わってくる。(p.91)
「自律的な学び」か「他律的な学び」か、どちらか100%というわけではなく、バランスよく考えるということだと思います。「自律的な学び」と「他律的な学び」の軸をもって、授業を設計していくことが重要だと思います。
各教科内の単元の特性や学習内容によって、他律的な学習が適切なこともあるだろうし、教師がひたすら要点を教え込むことが適切な場面もあるだろう。しかし、目標・内容・方法・時間配分・学習形態・活動場所・参照すべき資料などの学習をめぐる構成要素のうち、他律的な学びの要素を減らして自律的な学びの要素を増やしていくほど、個別最適な学びはその子にとっての潜在的な能力や個性を顕在化させ、同時に自己肯定感や学習に対する粘り強さなど非認知能力を高めることにも貢献すると考えられる。(p.91-92)
「一人学び」と「学び合い」
2つめの切り口は「一人学び」と「学び合い」です。個別最適な学びを目指すと、一斉指導の機会を極力減らそうと思う先生もいるようですが、スタイルの問題ではない、ということが書かれていました。この部分、たくさんの先生方に読んでいただきたいです。
個に応じた指導の重要性は説明するまでもないが、教師による一斉指導も決して否定されるべきものではない。ただし、その一斉指導が必要な場面とはどのような学習指導のタイミングなのかを問い直すことも必要である。一斉指導の限界を子どもの目線に立って理解したとき、子ども一人ひとりにより多くの選択権を与えた個性化・個別化の学習指導のニーズが生まれてくる。(p.97)
個別学習=「一人学び」の目的とは何かが書かれています。この部分、とても好きです。協働的な学びをうたった授業を参観させていただいて、モヤモヤすることが多い部分です。
先月11月30日に神戸市立夢野の丘小学校で行われたリーディングDXスクールの公開研究会で、山梨大学の三井一希 先生が「アナログかデジタルかを選択することが“個別最適な学び”ではないです」と言っていたのですが、その奥に何を目的としようとしているのかを考えることが重要だと思います。
個別学習は、自分の力でどこまで取り組めるのかに挑戦する学びであり、トライしていた学習が先に進めなくなったときに自分なりに打開策を考え、別のやり方を試行してみて、それでも問題解決に至らない場合は適切に他者に助言を求めて、場合によっては教師に質問するという一連の学習を自分の力出進めていく力をつけるために取り組むものである。誰かに安易に頼る前に、まずは自分の力でやれるだけの努力をする経験を重ねることに意味がある。(p.98)
この、「自分の力出やれるだけの努力をする経験を重ねる」というところこそ、教室で先生が子どもたちに働きかけないとできない子たちも多いと思うのです。
こうした個別学習の経験から次第に自律的に学ぶ力が育まれると考えられるが、個別に自分の考えを高めていくことが目指されるのみならず、それぞれの子どもが自分なりの考えをしっかりと構築することによって、子ども同士が協働して学び合う集団思考の場で、個々の見方が補正されたり豊かになったりすると考えられる。その反対に、一人ひとりが自分の考えをもつことなしに集合して話し合いをはじめても、そうした集団での学び合いの質が高まることは期待できまい。授業に参加した”ふり”ができて、議論に加わった”つもり”になれても、実質的には自分なりに納得して理解する学びにはなりにくいということは明らかである。(p.98)
形だけ個別学習をしたり、話し合いをしたりしていても、学びは少ないように思います。
集団での教育が優先されている日本の学校では、協調性や社会性が尊重され、授業場面においても「学び合い」や集団思考が美徳とされる傾向が強い。しかし、学び合いが形式に流れたり、対話的な学習形態を取り入れることが目的化して中身が深まらなかったりする授業も散見される。それは「個の追究」が不十分なまま集団思考を位置づけるからであり、協働的な学習の方法論をいくら工夫しても根本的な解決にはならない。自分なりの問題解決に専心した子どもは、自分の追究内容を仲間に知ってもらいたいし、仲間の追究の様子も聴きたくなるから対話に必然性が生じる。個別学習を通して、自分なりの追究を経験し、自分の考えを話す準備ができている子ども同士が学び合うことで、対話の質が深くなると考えられる。(p.99)
こういう授業を作りたいな、と思いながら読みました。一人ひとりの追究に時間をかけて、心理的安全性を高めたクラスを作って授業をすればできるだろうか、と考えてしまいます。
「ダイバーシティ」と「インクルージョン」
3つ目の切り口は、「ダイバーシティ(多様性)」と「インクルージョン(包摂)」です。
個人差に対応することは、大勢を相手にする一斉授業では実現が難しく、1人の教師がすべての子どもの学習状況を把握することも不可能に近い。実現できることは何か。たとえば、単元内自由進度学習のような、子どもに学習の主導権をゆだねていくような授業を適度な割合で導入し、多様な学習環境を整備することが考えられる。(p.104)
個別最適化を行うのは、「個人差に対応する」ためという説明はとてもしっくりくるなと思いました。今度登壇するセミナーで、「誰一人取り残さない」というのがキーワードになっているのですが、「誰一人取り残さない」ためにこそ、個別最適化が必要ですよね、という言い方をしてみようかな、と思いました。
まとめ(というか、気づき)
この章の最後に書かれていた言葉もとてもいいな、と思いました。一人ひとりの子どもが自分なりの追究を深めていける授業って、素敵だと思います。
日本型学校教育の本来の良さが、協働的に学ぶなかで異質な考えと出会い、自分の考えを更新していくような深い学びへと誘導していくものだとすれば、一人ひとりの子どもが徹底的に自分なりの追究を深めていることが必要条件になるはずである。(p.107)
この『「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実を目指して』を読み始めて、はじめての奈須正裕 先生の執筆「でない」章でしたが、いろいろと考える機会をもらいました。特に、「個別最適な学び」の目的のところ、個人の追究が大事だというところ、今後の自分の思考の種になりそうだと思っています(大事に育てていこう)。
No.6に続きます。
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(為田)