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書籍ご紹介:『再読だけが創造的な読書術である』

 永田希さんの『再読だけが創造的な読書術である』を読みました。僕はいろいろな本を雑多に読むのが好きです。そんななかで、「再読」している本が何冊かあります。そんな「再読」にどんな意味づけがされるのかなと思って読みました。

 いろいろなことが書かれていて、いろいろな角度から本を読むことについて考えることができました。最後に「再読」についてまとめられていた部分があったので、少し長いですがメモとして共有します。

わたしは「再読はしたほうがいい」という立場です。「読書はもとより再読である」とか「再読しなければ読書にならない」といった過激な主張も紹介してきました。なぜ「再読はしたほうがいい」のでしょうか。それは、再読をすることで読者は自分が何を求めているのかを自分で知ることができるからです。
本書で繰り返し述べてきた「ネットワーク」とは、書物がたがいに参照し合うこと、書物のなかにおいては言葉が互いに参照し合っていること、読者の頭のなかでは、読書をしているときもしていないときも情報が行き来していることをそれぞれのレイヤーで捉えようとするものです。そして、再読をすることによって書物どうしのネットワーク、言葉どうしのネットワーク、読者のあたまのなかの情報のネットワークは組み替えられます。
その組み換えは、「過去に読んだとき」と「再読するとき」との時間のズレを含みこみます。この時間のズレは「読者の生きた時間」です。再読をすることによって読者は自分の人生に向き合うことになるのです。
(略)
再読をするとき、読者はその瞬間は目の前で開いて再び読む本と向き合っているだけですが、その再読には、手元で開いている当のその本だけでなく、むすびついてくる他の本の記憶が重ね合わされます。再読はまた、その読者にとっての再読ではありません。古典がその最たるものですが、ひとりの読者がその本を読むとき、無数のほかの読者が読んできたものをその読者もまた読もうと試みているのです。(p.206-207)

 永田さんが言う、「書物どうしのネットワーク」という意味では、僕は本を読んで、他の本とのネットワークが繋がっていくときがいちばん楽しいです。僕は、気になった部分を読書メモとして残したり公開したりしていますが、後々、ある本のある部分が何かに繋がることがあったり、「あ、こんなこと書いてあったのか!」と思い出すこともあります。こういうとき、検索機能があると全部のメモからキーワードで検索できるので便利です(昔は紙のノートに筆写してましたが、当然、検索機能なんてありませんでした)。

 また、再読すると永田さんが「読者のあたまのなかの情報のネットワークは組み替えられます」と書いているように、前に読んだときとは違う感じ方ができるのも、再読の良さだと思います。
 僕は、夏目漱石の「それから」を教科書で読んで、その後、大学生になって自分で文庫本で再読して、けっこう読み方が変わったのを覚えています。
 かつて教科書で読んだ作品を再読したときに「あ、だいぶ感じ方が違うな…」と思うような再読の仕方をしたりできると楽しいと思います(そのためにも、昨日書いた「教科書クロニクル」とかは役立ちそうですね)。

 「一度読み終わっておしまいではなくて、再読することも本と出会い直すことになっていいよ」ということを伝えていきたいな、と思いました。

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 ところで、永田さんの本では、もう1冊『積読こそが完全な読書術である』という本もあります。こちらも非常に気になります(僕にはこちらの方が合っているかもしれません・積読派なもんで…)

(為田)