教育ICTリサーチ ブログ

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『言語が消滅する前に 「人間らしさ」をいかに取り戻すか?』ひとり読書会

 國分功一郎さんと千葉雅也さんの著書『言語が消滅する前に 「人間らしさ」をいかに取り戻すか?』を読みました。あまり教育と関係ないか?という感じもする本ですが、「言葉」について考えるきっかけをたくさんくれる本でした。僕は、子どもたちとたくさん「言葉」のやりとりをする授業が好きだからだと思います。それから、デジタルシティズンシップ教育とも繋げられそうな内容が多いと感じました。読書メモを共有します。

「勉強」について

 まずは、「勉強」について書かれているところです。國分さんが言っている、「純粋に学んでいるときって気持ちいい」という感じ、授業の中で少しでもいいから感じられるといいな、と思っています。

國分 純粋に学んでいるときって気持ちいいです。年齢に関わる秩序などといった社会のいろんな決まりごとから外れて、ただ教えてもらうことだけに身を委ねる気持ちよさは、昔よりわかってきたかもしれない。
千葉 それは思いますよ。研究や勉強を重ねていると、生徒になるなり方も更新されていきますよね。だから勉強って、ずっと続けていると、どんどん楽しくなると思うんです。
國分 僕は「研究」という言葉に昔から抵抗があるんだよね。「究める」ってのがおこがましく感じる。僕は自分のやってることは研究じゃなくて勉強だと思ってますね。勉強とは、「強いて勉める」でしょ。「強いて勉める」が大事ですよ。(p.30-31)

 「勉強」については、千葉雅也さんの『勉強の哲学 来たるべきバカのために』も一緒に読むといいように思います。
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 勉強は、「強いて勉める」だからよくない、ということはよく研修の場でも聞きますが、國分さんは、「強いて勉める」が大事、と言っています。

「シティズンシップ」について

 続いて、シティズンシップを教えることについて書かれている部分です。デジタルシティズンシップ教育とも関連づけられそうだと思います。

千葉 國分さんと僕に共通するのは、何かもっと広く、みんなに考えるようになってもらいたいところを、諦めてないことですね。でも、ある種の人たちは、國分とか千葉は、啓蒙の夢を追い続けているバカな連中で、みたいに言う。
國分 そうなの?(笑)
千葉 多少はいますよ。でも、われわれはその点に関して信念をもってやっているじゃないですか。
ボーンと、これをこうするべきだとか、これを考えるべきだというのではなくて、考えることにどう姿勢を向けていってもらうか。それは「向かわせる」とは違います。向かわせてしまったら、能動・受動の関係になってしまいますから。そうではなくて、僕らが書いたものとの関わりの中で、何か考えるようになるというプロセスが自ずと発動する。
そういうものを書きたいというのが、共通しているところだろうと思うんです。そこが國分さんの本の独特の巻き込み力でもあり、まあ、啓蒙的なところですよね。
國分 啓蒙的と言うと、能動・受動な感じがするから、難しいところですけど。
千葉 言い方はね。まあ、わかりやすく言えばということで。
民主主義が成り立つ条件としては――民主主義というキーワードがいいかどうかの議論はありますが――市民的な思考力というか、いろいろな物事を広く、差別的でなく考えるような教養の涵養といったことがあるわけじゃないですか。ある種の市民教育というか、最近はシチズンシップの教育論と呼ぶのかな。シチズンシップに必要な、ものを考えるディスポジションを育てていくこと。國分さんの仕事には、実際的意味として、そういう大きなプロジェクト的な面がある気がするんですよね。(p.54-55)

 千葉さんが言っている、「向かわせてしまったら、能動・受動の関係になってしまいますから。そうではなくて、僕らが書いたものとの関わりの中で、何か考えるようになるというプロセスが自ずと発動する」という部分、学校の授業もこうあったら素敵だな、と思いながら読みました。
 そうして、能動・受動ではない、中動の話へと繋がっていきます。『中動態の世界』を読んだときには自分のなかで関連づかなかったことが、ここで関連づけられました。

國分 哲学って真理を究めることじゃないんですね。何か問題があって、その問題に応えようとして悪戦苦闘する中で何か新しい概念を作る。あるいは既存の概念を利用する。哲学というのは問題の発見に始まるこのプロセスだと思うのね。これはドゥルーズも言っていることですね。哲学において大切なのは真理じゃなくて、問題とそれに応える概念だと。『中動態の世界』の場合だと、依存症とか民主主義とかいろんな問題との出会いがあって、それに応えようとして悪戦苦闘した結果、中動態という概念を僕なりに練り上げることになった。
哲学を勉強して、概念の使い方をさまざまな仕方で経験することは、シチズンシップを涵養していくのにとても役立つと思う。
千葉 うん、基礎力ですよ。ビジネスをするのにも役立つことです。問題を立てるのは、すごく基礎的なことですからね。というか、人ってなかなか問題を立てようとしない。問題を立ててしまうと気持ち悪いから、みんな問題を見ないようにしている。(p.56-57)

エビデンス」と「言葉」について

 エビデンス主義(エビデンシャリズム)について書かれていた部分も、とても考えさせられます。エビデンスを出して評価をすることはとても大事だとは思うけれども、エビデンス一辺倒になるのもいやだ。とはいえ、エビデンスだけではないことを、エビデンスをまったく見ない理由に使う人たちもいて、それもいやだと思うのです。

國分 千葉さんがかねがね「エビデンシャリズム」と言っていることともつながってきますね。これはインターネットに加え、新自由主義的な経済体制の台頭とも相関関係にあると思います。そこでは言葉ではなくて「エビデンス」として認められている、極限まで種類を切り詰められたパラメータに従ってのみ評価が行われ物事が進んでいく。エビデンス主義の特徴の一つは、考慮に入れる要素の数の少なさです。ほんの数種類のデータしか「エビデンス」として認めない。
そしてエビデンス主義の背景にあるのが、言葉そのものに基礎を置いたコミュニケーションの価値低下だと思います。人を説得する手段として言葉が使われず、「エビデンス」のみが使われていく。それこそアレントが言っていたような政治のイメージは、みんなが言葉でやり合ってその中で一致を探るというものでしたが、言葉による説得と納得はかつての地位を失ってしまっている。
千葉 言葉で納得するということと、エビデンスで納得するということは違うことなんですよね。
國分 全然違いますよね。
千葉 まずそのことを確認するのはとても大事だと思います。そういうふうに思われていないでしょうから。エビデンスの勝利は言葉の価値低下なのだということが、まずは共有されなければならない。
國分 そこは本当に根本的なところだと思います。
ところでこの場合のエビデンスとは何なのでしょうね。世の中では数字とか言われているけれど。
千葉 基本的には、ある基準から見て一義的なもののことだと思います。多様な解釈を許さず、いくつかのパラメータで固定されているもの。もちろん代表的には数字です。それに対して言葉というのは、解釈が可能で、揺れ動く部分があって、曖昧でメタフォリカルです。エビデンスにはメタファーがない。まあ、エビデンス主義者ならばメタファーを消し去ってエビデンスで行くことが必要なのだと言うでしょうけどね。メタファーの価値低下が文明論的にどれほど大変なことかが理解されていない。これがポイントでしょう。エビデンシャリズムの強まりとは、メタファーなき時代に向かっていることでもある。(p.114-116)

 「エビデンスの勝利は言葉の価値低下なのだ」と千葉さんが書かれています。エビデンス=数字ばかりになりすぎるのは少し嫌だな、と思います。日和っている感じがするかもしれませんが、ちょうどいいバランスで収めておいてほしい、と僕は読みながら思いました。エビデンスも大事。でも、エビデンスばかり重視すると、数字に現れないものが捨てられる。両方をきちんともってほしいと思うのです。

メディア環境について

 SNSをはじめとする、メディア環境についても書かれていました。ここも、本当に考えなければいけないことだと思います。学校でのデジタルシティズンシップ教育にひきつけて言うならば、子どもたちは小学校時代から学校の端末を使って、あるいは自分のスマートフォンやゲーム機を使って、ネットに直接接続しています。そこでのコミュニケーションは、いきなり触れるには怖いこともたくさんあるので、まずは学校でデジタルコミュニケーションに慣れて、多少の失敗をしてほしいと思います。

國分 ですから先ほどの「ネットに無意識が書き込まれている」というのも、いまの時代の民主主義的状況の帰結でもあるわけですね。万人に平等にメディア環境が与えられた。それは実に重要な進歩であったけれども、そこから、これまでだったら口に出さないどころか、考えるのすら憚られたことを平気で公にする人間たちも出てきた。トランプ大統領の登場はそうした現状の一つの表現でしょう。(p.123)

 「おわりに」でも、千葉さんがメディア環境の変化について書かれています。

ブログやツイッターからインスタグラムへ、さらにTikTokへという流れは、隠喩や多義性が弱体化し、より直接的な知覚と情動が優位になっていく過程を示している。仕事においても、長い複雑な文章は嫌われ、パワーポイントの色とりどりの図が好まれるようになった(哲学の学会発表でさえそうなっている)。こうした変化に眉をひそめるなら、保守的に見えるかもしれない。もちろんパワポは適切に使えばいいし、視聴覚的なSNSの魅力もある。だが、そうした現象の背後では何か深刻なことが起きていると僕は感じるし、そしてそれがあまり気づかれていないと思うのである。(p.208)

 ブログやツイッターからインスタグラム、TikTokへのプラットフォームの変遷が、何をもたらしていくのか。この状況で、いままでどおりの学校でいいのか、というのは考えさせられます。TikTokを使ってみていますが、何も考えないままあっという間に時間が過ぎていくのにびっくりします。これと自律的につきあっていけるだろうか、とか考えます。また、僕はしていませんが、発信している人たちは承認欲求との折り合いもつけなければいけないと思いますし。
 そのなかで、僕らはどんなふうな「言葉」をもっていなければいけないのか、それは学校でいま学べているのか、と考えさせられました。

まとめ

 「言葉」と「デジタルシティズンシップ教育」とメディア環境について、いろいろと考える機会をもらえました。学校での子どもたちの様子、先生方の様子と合わせて、考え続けていきたいと思います。

(為田)