教育ICTリサーチ ブログ

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『教育「変革」の時代の羅針盤 「教育DX×個別最適な学び」の光と影』ひとり読書会 No.5 「第4章 「真正の学び」による授業づくりの不易と革新」

 石井英真 先生の『教育「変革」の時代の羅針盤 「教育DX×個別最適な学び」の光と影』のひとり読書会をしています。今回は、「第4章 「真正の学び」による授業づくりの不易と革新」の読書メモを公開します。

 第4章では、「真正の学び」というヴィジョンを意識した授業づくりの方向性が提起されています。「変革」の時代における授業づくりの軸足(=不易)を再確認することから始まります。

授業づくりの軸足(不易)の再確認

 教育をとりまく現在のいろいろな状況が、改革に踊らされているのではないか、ということが最初に書かれていました。

一見もっともらしい改革のスローガンの裏で、授業観がゆさぶられるというよりも、授業観の軸がぶれて手法主義が進んでいるようにも思います。(p.96)

 「授業観の軸がぶれて」いるかどうかはちょっと僕はわからないですが、「手法主義が進んでいる」というのはちょっと思い当たることもあります。「なぜ、こういう授業をしているのか?」ということをあまり検討せずに、手法だけを真似て授業をしているケースは見かけることが多くなってきました。いろいろな改革スローガンがあって、それに繋がる授業をしなければいけなくて、それをしっかり咀嚼して準備する時間がとれない学校現場において、ある程度仕方ないかなと思うこともあります(というか、そういう時間を作らずに、ただ「改革の流れに乗れ」とやらせる方が悪いですよね)。

真面目に新学習指導要領に備えてきた教師ほど、そんなふうにキーワードがころころ変わるんなら、要は何をすればいいのか示してほしいとなるでしょう。「○○な学び」といった改革のキーワードは、ほどよく提示されることで、現場の新たな挑戦を励ます刺激となりえますが、それが次々と濫発されると現場は思考停止に陥るのです。(p.97)

 そうですよね。本当にそうです。真面目に仕事している先生方が損をするのはよくないんですよ。と言って、改革のキーワードを「ほどよく提示」というのも、どれくらい提示したらいいかも難しいですし…

 この後、石井先生は二項対立図式に単純化してしまうのがよくない、と書いています。これ、大賛成です。

改革論議にありがちな二項対立図式の中で、「学び」の強調は「教えること」を照らし出し、個別化の強調は、集団での学びの意味を照らし出します。そこで、文字通り「AからBへ」と、否定的にAに光を当てるのではなく、Bに軸足を移したときにどうAが捉え直されるのかを問うことが重要です。どれだけ「学び」に光が当たっても、大人の責任を放棄しない限りは、「教えること」に限らず、教師、あるいは子どもの学びと成長を支援する他者の仕事はなくなりはしません。(p.97)

 「学び」を強調することで「教えること」を否定することはない。「個別化」を強調することで、「集団での学び」を否定することもない。どちらかを選べ、ということではないのですよね。
 石井先生が書いているように、「学び」を強調することで「教えること」を再度捉え直す必要があるし「個別化」を強調することで「集団での学び」を捉え直す必要がある、ということなんだと思います。
 この図式、いろいろな場面で、いろいろな言葉を当てはめて考えられます。特に、学校を外から見ている人が二項対立図式に単純化してしまうことが多いようにも思います。そうしたことも石井先生が書いていました。

「授業から学びへ」という言葉も、教育関係者であれば、教えることや教師の仕事が完全になくなるという意味で使ってはいないでしょう。「学び」に光が当たることで、より縁の下の力持ちのような形で教師の指導性は見えにくくなっていきますが、しかし確かに存在はしています。(p.97)

 「そうした見えにくくなってしまう部分にもしっかり光を当てておかないと」いけない、と石井先生は書いています(p.97)。

教育論議が教育関係者の内輪だけでなく社会全体に開かれたときに、言葉を文字通り受け取って、子どもに任せさえすれば学べるんだ、教師はいらないのではないかといった誤解を生み、それを文字通り実践するような取り組みや改革が生まれかねません。「子ども主語」の学びや授業を追求するからといって、それを支援・指導するための「教師主語」の授業研究をおろそかにしてはなりません。(p.97-98)

 このあたり、本当にそのとおりだな、と思います。こういう言葉を先生方に研修のときにも届けたいな、と思いました。

「授業」という営みの本質的特徴

 この跡、授業づくりをするにあたって、「授業」という営みの本質的特徴について書かれていました。ここでも「個別」か「協働」か、というような二項対立ではなく、授業とは学習者と教材と教師のどのような関係構造で成り立つのか、ということが解説されていました。

 最初に、「深い学び」ができているかどうかはどう見たらいいのか、「学習者中心か/教師中心か」「教師が教えるか/教えることを控えて学習者に任せるか」というような二項対立図式で議論すべきではない、ということが書かれていました。ここで書かれていることも素敵です。

(教科の学びとして中身のある活動や話し合いになっているか=深い学びができているか、は)子どもたちが対象世界(材)と向き合っているかどうかを問うものといえます。
(略)グループで頭を突き合わせて前のめりに対話しているような、主体的・協働的な学びが成立しているとき、子どもたちの視線の先にあるのは、教師でも他のクラスメートでもなく、学ぶ対象である材でしょう。
授業という営みは、教師と子ども、子どもと子どもの一般的なコミュニケーションではなく、材を介した教師と子どもや子どもたち同士のコミュニケーションです。学習者中心か教師中心か、教師が教えるか教えることを控えて学習者に任せるかといった二項対立の議論は、この授業という営みの本質的な特徴を見落としています。授業という営みの本質的特徴をふまえるなら、子どもたちがまなざしを共有しつつ材と深く対話し、教科の世界に没入していく学び(その瞬間自ずと教師は子どもたちの視野や意識から消えたような、教師や周りなど眼中にないような状態になっている)が実現できているかを第一に吟味すべきです。(p.98-99)

 この「グループで頭を突き合わせて前のめりに対話している」子どもたちの様子を見られる授業って、ときどきありますよね。あれ、とても素敵だといつも思っています。

どれだけ「○○な学び」が示されようが、授業においては、いかに子どもたちを材と出会わせて、没入させて、さらにその先にもっと欲しい、学びたいと思わせるかが勝負です。(p.99)

 大切なのは、学習者と材(教材)と教師が三角形の関係性を作ること、と書かれていました。

同じものをともに見るだけでなく、それをめぐって顔を見合わせながら対話する三角形の関係性が、人と人との間の情緒的なつながりや安心感を生み出していくのです。(p.101)

共同注視の三角形を意識することによって、材との対話に没入し教師など眼中にない学びの姿という形で、「主体的・対話的で深い学び」を具体的な教室の風景として理解することもできるでしょう。(p.101)

 「顔を見合わせながら対話する三角形の関係性」「共同注視の三角形」ということを作るときに、ICTが介在することで注意することも少し前に書かれていました。これもちょっと大事だと思いました。

一人一台端末が日常化した授業においてこそ、共同注視関係が重要となります。ICTを文具として子どもたちに使い方を委ねるということは、必ずしも教師を介さずに、端末の先にある知や人や世界とつながれることを意味します。(略)ただしそれは、ただ横にいるというだけでもない、同じものをともに見ている伴走者の存在(共同注視関係)があってこそです。(p.100-101)

「真正の学び」による学校的な学びの問い直し

 授業づくりの「不易」について書かれてきた後で、いま求められているまなびや学力の中身を実現するために「真正の学び」について解説がされていきます。
 「真正の学び」はよく目にするし、話題に出ることも多いのですが、あまりちゃんと自分でわかっていない気がしていたので、しっかり読み込もうと頑張りました。

 バスケットボールの試合になぞらえて、ドリブルやシュートの練習(ドリル)ではなくて、バスケットボールの試合(ゲーム)をやらないとだめでしょう、というふうに解説されていました。
 ここまではわかります。学校から出てリアルな社会で学んだことを活かしていくのが試合(ゲーム)であり、そのための練習を学校でしている、というイメージですよね。

このゲームに当たるものを学校で保障し、コンピテンシー(社会が求める「実力」)にもつながる生きて働く学力を形成していこうというのが、「真正(ホンモノ)の学び(authentic learning)」の考え方なのです。(p.111-112)

 「生きて働く学力を形成していこう」というのが「真正の学び」の考え方…。ここのステップが僕には少し多すぎるような気がします。こういう意味での「真正の学び」って、いまの学校制度で実現可能なんですか…?と思ってしまいます。

「本物」とは、教育的に(時に嘘くさく)加工される前の、現実のリアルや文化の厚みにふれることを意味します。わかっているつもりは、現実世界の複雑さから、また、できているつもりは、その文化や領域の追究の厚みからゆさぶられることで、知と学びは血が通ったものになっていくし、子どもたちの視野が広がり視座も上がっていきます。(p.112)

 わかります。賛成なんですけど、どう学校に実装したらいいんだろう…というのが知りたいです。「これが真正の学びがうまく実装できている学校(授業)です」という事例とかあるのかな…?
 でも、それを形だけ真似て他の学校に転移させることはできるのかな。うーん、どうなんだろう、もっと知りたい…。

社会への関心をもって学び続けることこそ、変化への一番の備えです。しかし、学ぶ意義も感じられず、教科の本質的な楽しさにも触れられないまま、多くの子どもたちが、教科やその背後にある世界や文化への興味を失い、学校学習に背を向けていっています。社会科嫌いが社会嫌いや社会への無関心を、国語嫌いがことば嫌い、本嫌いを生み出していないでしょうか。「真正の学び」の追求は、目の前の子どもたちの有意義な学びへの要求に応えるものです。(p.113-114)

教科における「真正の学び」の追求は、「教科の内容を学ぶ(learn about a subject)」授業と対比される、「教科する(do a subject)」授業(知識・技能が実生活で生かされている場面での活動や、その領域の専門家が知を探究する過程を追体験し、「教科の本質」をともに「深め合う」授業)を想像することと理解すべきです。(p.114)

 「教科の内容を学ぶ(learn about a subject)」授業と「教科する(do a subject)」授業という対比もおもしろいですね。

「教科する」授業による学びのデザイン

 少し前に出てきた「教科する(do a subject)」授業による学びのデザインの方法などが書かれていました。

「足元の具体的経験や生活から学び、そこで自分の視野の狭さに気づく経験」「子どもだましでない嘘くさくないホンモノの面白さを経験しながら、ときに先達の追究の厚みに圧倒され、自らの非力を感じながら、力をつけていく経験」、こうした「真正の学び」には、挑戦や試行錯誤や失敗がつきものです。家庭や地域や社会が、教師や学校、そして子どもたちをもう少し信頼し、それぞれの挑戦を見守ることが肝要です。(p.122)

 「挑戦や試行錯誤や失敗がつきもの」と書かれていますし、子どもたちに存分に取り組んでもらおうと思ったら、もちろん時間もかかるだろうし、先生方のサポートもすごく必要だと思います。これを学校に実装できるんだろうか。できるとしたらどうやるんだろうか。
 こういう流れで、EdTechで解決しましょう、とかになったりもするのだろうか。「真正の学び」ってそもそもそうやってカリキュラムのパッケージにできたりするものなんだろうか…とすごく謎が深まってしまいました。完全迷子です…

まとめ(というか、気づき)

 けっこう頑張って読んだ第4章ですが、「真正の学び」がわからない。というか、同意はできるんですけど、これが学校に実装されるというのがどういう感じなのかを知りたくてしかたないです。

 検索してみたら、石井先生の本がトップに出てきたので、手に取ってみることにします。他にオススメの本があったら教えてほしいです。

 海外の事例の本も出ていますね(ちょっとこれは高いな…まず図書館で読んでみるか…)

 「真正の学び」への探究を続けていこうと思います。あんまりICTの話と繋げて考えることができなかったな、と反省…


 No.6に続きます。

(為田)