石井英真 先生の『教育「変革」の時代の羅針盤 「教育DX×個別最適な学び」の光と影』のひとり読書会をしています。今回は、「第1章 「変革」の時代の教育政策の展開」の読書メモを公開します。
経産省の「未来の教室」と文科省の「令和の日本型学校教育」のあいだ
教育「変革」の時代の教育政策、と言われて、僕がいちばんに思いつくのは、経済産業省の「未来の教室」プロジェクトです。それなりに近い距離感で事業者として関わらせていただいたり、イベントに登壇していたのを思い出します。
2019年5月には、当時 経済産業省 サービス政策課長・教育産業室長で「未来の教室」プロジェクトを率いていた浅野大介さんに192Cafeで基調講演をしてもらったりもしました。
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2019年11月には、未来の教室 in 明日の教室 メインセッション「未来の先生の姿とは」に登壇させていただいたりもしました。
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さまざまなEdTech事業者が学校の授業をサポートして、学校を変えていく様子を見ることができました。そのなかで、実際に授業をする先生方とのディスカッションも本当に印象深く記憶に残っていますし、今の自分の学校サポートのやり方にもとても大きな影響を与えてくれたプロジェクトでした。
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その後、文科省からは「令和の日本型学校教育」が打ち出されます。この2つの比較がされていた部分をメモします。
経産省の「未来の教室」は、自由権的側面(国家規制からの自由)を重視し、公教育の機能主義的・個人主義的再編、人材育成への志向性が強いと言えます。それは、機能性や効率性の観点から学校組織の当たり前を問い直し、現状のリソースで欲張りすぎず、業務のスリム化やサービスの適性化を通して労働環境の改善につながるかもしれません。
(略)
文科省の「令和の日本型学校教育」は、社会権的側面(国家による自由)を重視し、教職の専門性や学校の共同体性・共通性を維持する傾向、人間教育への志向が強いと言えます。それは、それまでの教育コミュニティの歴史や文化や価値(土着性や特殊性や持続性)に根差しながら、変革においても押し流すべきではない学校の役割や教育という営為の軸を確認する志向性を一定持っています。(p.8-9)
ここで描かれている経産省と文科省の違いはおもしろいです。それぞれ重視しているところが違うので、「経産省はわかっていない…」とか「文科省も経産省みたいに…」とか当時いろいろ現場では聞きましたけど、そもそも志向性が違うということは知っておく意味があると思います。
その一方で、両方から影響を受ける学校現場としては、経産省的アプローチと文科省的アプローチをうまく自校に結びつけるという大変な仕事を担っていた(担わざるをえなかった)ように思います。
それともうひとつ、文科省の「令和の日本型学校教育」が目指す学校像では、「個別最適な学び」
という言葉が出てきます。「未来の教室」では、「個別最適化された学び」という言葉で言われていたのですが、この言葉の変化についても「文科省の姿勢」(p.5)として書かれていました。
「個別最適化」という政策上の概念は、ともすればAI型ドリルによる知識・技能の自由進度学習のイメージに矮小化されがちで、学習の効率化・機械化・孤立化が危惧されたり、大人や機械が最適な学びを提供する受動的な学びに陥ることが危惧されたりもしました。これに対して、中教審の審議を経て、「個別最適化された学び」概念は、個別化・個性化教育の歴史的蓄積と結びつけられてその論点が整理され、「指導の個別化」と「学習の個性化」という、日本の個別化・個性化教育が提起してきた概念によって捉え直されることとなります。さらに、`adaptive learning’ではなく、`personalized and self-regulated learning’として、自律的学習者の育成という意味を強める形で、その概念が規定し直されることとなりました。(p.5-6)
いままさに、多くの学校で「自由進度学習」や「自律的学習者を育てる」という研究がされています。僕自身、このあたりがあまりピンと来ていないので、とても興味深く読みました。
CSTIの「政策パッケージ」に見る「Society 5.0」への教育「変革」
次に、CSTI(総合科学技術・イノベーション会議)による「Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」が紹介されます。
「政策パッケージ」の最初にある「0.政策パッケージの位置付け」に書かれている文章について石井先生がコメントをしています。
「政策パッケージ」では、「教科の学びが自分の設定した課題の解決に活きているという実感」や学びの自己調整に力点が置かれており、実生活・実社会での知識・技能の活用やコミュニケーション能力の育成を基調としていた、2017年版学習指導要領改訂期の議論と比べて、より個人主義的・心理主義的な色彩が強まっています(石井 2022a)。「個別最適な学び」が推進される中、子どもたち一人ひとりに応じたオーダーメードのカリキュラムが可能になるかのような論調と、「子ども主語」や「学びの責任」といったキーワードの延長線上に、全国一律の「学習指導要領」はそもそも必要なのかという議論も現実性を帯びてくるかもしれません。(p.14-15)
最後に書かれている、「「個別最適な学び」が推進される中、子どもたち一人ひとりに応じたオーダーメードのカリキュラムが可能になるかのような論調と、「子ども主語」や「学びの責任」といったキーワードの延長線上に、全国一律の「学習指導要領」はそもそも必要なのかという議論も現実性を帯びてくるかもしれません」というところ、もちろん個人で学んでいける子も多いだろうけれど、そうでない子もたくさん学校にはいて、その子たちには全国一律の学習指導要領とか教科書って、とても価値のあるものだ、と僕は思っています(それを「子どもの学ぶ能力を信じていない」と言われてしまう可能性もあるんですけども…)。
そうしてどんどん自分で学んで、となる方向性は、僕には違和感があります。このあたり、どう言語化していけばいいのか、いつも考えています。先生方とも学校でたくさん話しています。
その意味で、石井先生がこの章で書かれていることには、こういうふうに言語化すればいいのか、と思わされる部分が多かったです。とても勉強になります。
塾や習い事で分数のかけ算は解けるようになっているので、学校では学ばなくてよいといった具合に、個別最適な学び、修得主義、ICTと教育データ利活用、働き方改革、カリキュラム・オーバーロードの解決が、機械的・行動主義的学習観と結びつき、スマート化、効率化の文脈で実装されると、教科学習は、目標項目の系列をクリアしていく検定試験的でスタンプラリーのようなカリキュラムに矮小化されかねません。(p.15)
教師や他の大人が手をかけなくても自分で、自分たちだけで学びを進めているように見えて、大人たちが設定した一定の枠内で、あるいは、自分の世界観の枠内に閉じた形での主体性になっている可能性があります。それは、「学びの責任」という名の、大人にとって都合の良い従属的な主体性であり、学び手自身にとっても、自分の嗜好や信念に閉じていく自己強化であり、既存の選択肢から選ぶ、あるいは選ばされる学びとなっているかもしれません。(p.15)
なるほどなるほど、と読み進めていきました。
教育「変革」政策が提起する「脱学校」論と学校像の分岐点
最後に「脱学校」論が出てきました。安易に「脱学校」をするのは危険だと思っています。
安易な「脱学校論」は、保護者をはじめとする大人たちがよほど気をつけていなければ、今や学校以上にむき出しの能力主義や競争主義に子どもをさらしかねないし、ペアレントクラシーを伴って、教育の商業主義的な市場化を進めかねません。(p.21)
「脱学校」ではなく、卒「学校」と卒「教育」という言葉が出てきます。
学校での学びにおいては、卒「学校」と卒「教育」という発想で考えていくとよいでしょう。すなわち、学校で教え学ぶ先に、授業外や学校外の生活において立ち止まりや引っかかりや問いが生起することで、無自覚に社会に動かされている状況から、生活や学びの主体として学習者が自立し、学校や教師や教育を学び超え、巣立っていくわけです。そこでは、「問題提起、課題提起の場としての学校」「学びへの導入としての授業」の役割が重要となるのです。(p.21)
ここで書かれている「学校で教え学ぶ先に」何があるのか、という描き方は好きだな、と思います。
まとめ(というか、気づき)
まとめてみて、自分でも混乱してきました…この読書メモ、意味あるだろうか…と思いつつ、半分以上は自分のために残しているメモだと思っていただければと思います。
経産省「未来の教室」と文科省「令和の日本型学校教育」とCSTI「Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」を全部まとめて読むというのを意外とやったことがなかったので、それがとても楽しかったです。
特に、「個別最適化された学び」については、「未来の教室」プロジェクトの周辺にいた頃によく聞いていた言葉だし、それについていろいろと考えてきたので、こうして石井先生の解説を読んで、自分のなかでまた考えてみようと思いました。
No.3に続きます。
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(為田)