教育ICTリサーチ ブログ

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『教育「変革」の時代の羅針盤 「教育DX×個別最適な学び」の光と影』ひとり読書会 No.6 「第5章 ICT活用を公正で質の高い学びの実現につなぐ」

 石井英真 先生の『教育「変革」の時代の羅針盤 「教育DX×個別最適な学び」の光と影』のひとり読書会をしています。今回は、「第5章 ICT活用を公正で質の高い学びの実現につなぐ」の読書メモを公開します。

 第5章では、学校でのICT活用・デジタル化について書かれていました。最初に、GIGAスクール構想についてのふりかえりとこの章での問題意識が書かれていました。

コロナ禍によって加速したGIGAスクール構想は、ICT活用やデジタル化を大きく進めるものであり、「令和の日本型学校教育」答申は、「個別最適な学び」というキーワードで、教育DXの先の学びの姿を提起しています。ICT活用や「個別最適な学び」の追求について、課題も含めてその意味をどう捉え、ここまで述べてきたような学びの質の追求にどう生かしていけばよいのでしょうか。(p.123)

一人一台端末が学校にとけ込んだゴールをどう描くか

 GIGAスクール構想によって一人一台の端末が配備された先のゴール像について書かれていました。一人一台の端末を学校の中でどのようなものとして位置づけるかというのは、学校の先生方によってそれぞれに違うので、こうしたゴールを描いて共有することはとても大切なことだと思います。
 「ICTは文房具になる」という表現はよく耳にしますが、「文具としてのICT」についての石井先生の見解が書かれていました。

文具としてのICTは、お箸や鉛筆や眼鏡のようなものです。身体が拡張された状態に至り、無意識化、透明化されることがゴールです。目新しく高機能な、いわば「スーパーお箸」や「スーパー鉛筆」のようなものの使い方に習熟したとしても、肝心の食事の作法や学びへの向かい方がおろそかになっては意味がありません。(p.125)

 ICTが「身体を拡張する」ものとして描かれていること、ただ使い方に習熟しても意味がないこと、など、大賛成です。コロナ禍の頃ならまだしも、2024年夏のいま「使っているだけ」の授業ではいけないと思います。

現時点でICTはまだ透明化されていないし、目新しさでもってその存在感をアピールしがちなため、二重の媒介性(「××というツールを使うことを通して△△という活動をスムーズに展開することを通して○○という目標を実現する」)が邪魔をして、最終的な目標を見失いがちです。「教育におけるICT活用」という言葉が注目を浴びていますが、「教育におけるICT活用」という言葉が存在感を失うほどに、それが透明化し日常化することがゴールなのです。(p.125-126)

 ここで出てくる「二重の媒介性」という表現、とてもいいと思いました。指導案などでよく見かけそうです。

一人一台端末によって授業中の活動のバリエーションは大きく広がりましたし、その活用が子どもに学びを委ねるきっかけになっていることもあります。しかし、そこに学びがあるのかを見極める教師の目が重要です。先述の「教科する」授業は、動詞に注目して子どもたちがホンモノのプロセスを経験しているかを問うものであり、学びの質は「動詞」に注目すると見えてきます。たとえば、「スライドを作成する」という活動を行っている時、果たして子どもたちは「調べる」という動詞を経験しているでしょうか。情報を検索して貼り付けているだけの「集める」になっていないでしょうか。集めた情報をある視点から整理・分析して初めて調べたことになります。さらに、そこから自分ごとに引き寄せて考察して自分の意見や主張を述べたり、新たな問いが生まれてきたりしているなら、それは「調べる」を超えて、「深める」ことになっていると言えるでしょう。(p.126)

 すごく耳が痛いです。「学びの質は「動詞」に注目すると見えてきます」という言葉に納得しました。動詞に注目しながら授業を参観させていただいて、学びの質を見ていけるようになりたいと思います。

ICTで学びの質を追求するために

 「教育や学習の中に効果的に新しいテクノロジーを溶け込ませていくために、テクノロジーをうまく使いこなしていく上でふまえておくべきポイント」(p.130)が書かれていたので、まとめてみました。

教育や学習の中に効果的に新しいテクノロジーを溶け込ませていくポイント(p.131)

  • ペダゴジー・ファースト、テクノロジー・セカンド(pedagogy first, technology second)をこそ実現すべき
    • Web授業や学習アプリといった最新テクノロジーで表面的に新しく見せて、旧式の学習観に基づく教育を展開していないか。
    • ハイテクなものが学びの質を高めるとは限らない。
  • 新しいテクノロジーの選択と活用を考える際には、それがこれまでの授業のどのような機能を代替するものなのか考えてみる
    • 黒板→電子黒板などのように。
    • それぞれのアプリについては、それを使って可能になる「動詞」で考えてみると、代替を考えやすい。

 「ペダゴジー・ファースト、テクノロジー・セカンド(pedagogy first, technology second)」という表現、ときどきプレゼンテーションで目にしますが、とてもいい表現だな、と思います。参考文献として、白水始 先生の「ポストコロナ時代の学校教育に向けて」(2020, 『教育展望』6月号)が参照されていました。
 「ハイテクなものが学びの質を高めるとは限らない」は、ものすごく当たり前だけども、ちゃんと論理的に評価している人と、感情的に拒絶している人とが同じようにこの言葉を言うので、もう少しきちんと丁寧に言葉を言わないといけないだろうな、といつも思っています。拒絶する人が言い訳に使ってしまうのは阻止したいな、と思っています。
 それと、ここでも「動詞」で考える、ということが書かれていました。これも継続的に考えるべきテーマですね。

新しいテクノロジーの活用理念を吟味する

 前段で書かれていた「動詞で考える」ということは、「どういうことができるのか機能で考える」ということに繋がっていくと思います。「機能に注目して考えてみると、ICT活用による教育のデジタル化と言ってもその内実はさまざまであることがわかります」(p.132)は、本当にそのとおりだと思います。
 ICTを活用することによって何ができるのか、何ができないのか、ということを考えることが重要です。

教師の本業部分の学びの質の追求という点でのICT活用については、テクノロジー先行の観もあります。
AIやICTの教育への活用という場合、学習方法の合理化・効率化に矮小化されがちです。たとえば、知識習得を、自習ベースの自由進度型ドリル学習に矮小化し、また、探究的な学びを、ロールプレイングゲーム的なシミュレーションにパッケージ化する傾向が危惧されます。(p.133)

 めちゃくちゃわかります…。いろいろなICTの活用が進むことは、子どもたちの学び方の選択肢が増えることに繋がるので基本的には賛成ですが、「これは、これでいいのか?!」と思うこともときどきあります。それがまさに「知識習得を、自習ベースの自由進度型ドリル学習に矮小化」や「探究的な学びを、ロールプレイングゲーム的なシミュレーションにパッケージ化」というあたりだなあ、と思いながら読みました。

ICT活用による能力拡張は活動の生産性を高めますが、それ自体で個人の能力発達(力がついたり成長したりすること)を保障するものではない点に注意が必要です。(p.134)

 これもすごくそう思いますが。ICTを活用して、今までできなかった楽器の演奏ができたり、動画編集ができたり、高度なデザインができたり、というのはいいことだとは思います。いままでできなかったことをICTの力を借りてできるようになるのは本当にすばらしいことです。いわば、0→1をICTで実現してくれる感じです。でも、1→5にしたり、1→10にしたり、というところはICTを活用するだけではだめで、技術や知識を身につける個人の能力発達があってこそのことだな、と感じます。

第三次AIブームの特性からテクノロジー活用の方向性を見極める

 AIについても書かれていました。生成AIを使った授業の事例を見ることも増えてきました。教育DXとも関連することが多いと思いながらメモしました。

AIには、診断と情報提示という課題発見ツールや学習支援ツールとしての可能性はあります。また、自動採点や学習ログや学習過程分析など、学びの可視化や学力の評価に関する研究と実践において、AIは力を発揮するでしょう。一方で、際限なきデータ化がもたらす、リモート管理による主体的標準化と管理社会のリスク、そして、学びや生活の過程の生体情報までがデータ化され、うそ発見器にかけられ続けているような状況が、コミュニケーションや人間関係に与える影響も考えておかねばなりません。(p.144)

まとめ(というか、気づき)

 じっくり読んだ章でしたが、ICTの活用について「動詞で考える」「機能で考える」ということが書かれていて、こういう表現の仕方をすればいいのか、と勉強になりました。学校での校内研修などで先生方に伝えていきたいと思うこともたくさんありました。

 No.7に続きます。

(為田)