教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

『言語の力 「思考・価値観・感情」なぜ新しい言語を持つと世界が変わるのか?』ひとり読書会

 ビオリカ・マリアン先生の『言語の力 「思考・価値観・感情」なぜ新しい言語を持つと世界が変わるのか?』を読みました。ビオリカ・マリアン先生は、言語、バイリンガリズム、多言語主義の研究者です。
 この本では、「マルチリンガル」であることがどういうことであるのかを紹介してくれています。サブタイトルにあるように、新しい言語を持つ(=マルチリンガルになる)と、思考・価値観・感情なども変わる、という研究が紹介されています。

 学校でのマルチリンガル教育について書かれているのではなく、もっと広い視点で「マルチリンガルになると世界はどう変わるのか」について書かれている本なので、教育や学校と直接関係するテーマではありません。でも、「世界が広がる」とはどういうことかを知ることは、子どもたちの世界を広げる仕事をしている先生方の参考になるかもしれないと思って読みました。読書メモを共有したいと思います。

はじめに――あるいは、この本へようこそ!

 「はじめに」では、さまざまな言語を学ぶことがどういう意味があるのか、それから「言語」「言葉」がどれほど人にとって大切なものであるかが紹介されています。こういう観点から「国語教育って大事だよな…」と先生たちの話を伺ってみたいです。

さまざまな言語を学ぶことは、私たちに貴重な力を与えてくれる。それは、社会に広がる分断を癒やし、差し迫ったグローバルな問題を解決するために欠かせない力だ。母語以外の言語や、違う文化の世界観が持つ有益性や美しさを理解することができれば、偏見にとらわれたり、自分とは違う物事や人々を悪魔化したりする可能性も低くなるということは、想像に難くないだろう。
言葉の力を理解すると、自分が他者の言葉によって操られているということにも気づきやすくなる。その他者とは、政治家かもしれないし、広告、弁護士、同僚、あるいは家族の誰かかもしれない。
言葉を巧みに操り、人々に特定の何かを買わせたり、特定の誰かに投票させたり、狙った評決に導いたりする仕事は、大金を稼ぐことができる。そして複数の言語に通じていれば、言葉が人間の感情に与える力により敏感になれる。なぜなら、言葉の違いから生まれる微妙な差異を、すでに自分の体験として知っているからだ。(p.15-16)

 最後にある「言葉の違いから生まれる微妙な差異」って、仕事をしていると感じることが多いです。学校の先生方も子どもたちとのやりとりのなかで感じることは多いのではないでしょうか。

 続いて、母語以外の言語を習得することの効果についてまとめられていました。

母語以外の言語を習得することの効果については、世界各国の研究からさまざまなことがわかっている。いくつか例をあげよう。(p.19-20)

  • 高齢者の場合、マルチリンガルであることは、アルツハイマー病やその他の認知症の発症を4年から6年遅らせ、「認知予備能」(脳が認知症の状態になっていても、症状が出にくい状態のこと)を強化する。
  • 子どもの場合、第二言語を学ぶと、ある対象と、それを呼ぶ名前の関係は恣意的であるということを早い段階で理解できる。(略)現実と、その現実を表現するシンボルは同じではない。それを理解すれば、言葉をより俯瞰的にとらえるスキルが手に入り、ひいてはより高度なメタ認知プロセスや、合理的思考を鍛える基礎を固めることができる。
  • 生涯を通じて見ると、2つ以上の言語を習得することは、脳の実行機能の向上につながり、大切なものに集中し、そうでないものを無視するのがより簡単になる。
  • 複数の言語に通じている人は、物事の間に他の人には見えないようなつながりを見ることができる。そしてその結果、創造性とダイバージェント思考(幅広く考えることで創造的な発想につながるような思考)を用いるタスクのスコアが向上する。
  • 母語以外の言語を使うと、より論理的で、より社会全体のためになるような意思決定を行う可能性が高くなる。

 いろいろな研究があるのだなあ、と感じます。マルチリンガルだと脳の実行機能も向上するし、創造的な思考もできるそうです。このあたりは、この本を通じていろいろな研究が紹介されていました。

4 言葉は受肉した

 「4 言葉は受肉した」の章では、マルチリンガルとはどういうふうに脳を使っているのかというのが、オーケストラを使って説明されていました。このあたりは自分自身ではほぼ実感がなくて、「そうなのかー」と思って読みました。(解説で、今井むつみ先生も引用されていた部分です)

私たちの言語能力は、それがどんな言語であれ、脳全体が協奏曲のように協調して働くことによって生まれた創発的な特性を持つと考えられる。そして協奏曲の比喩を続けるなら、英語を話すこととフランス語を話すことの違いは、チューバを演奏することとバイオリンを演奏することの違いというよりも、むしろオーケストラ全体がベートーベンの交響曲第5番を演奏することと、同じくオーケストラ全体がチャイコフスキーの交響曲第6番を演奏することの違いにたとえられる。(p.103-104)

 それともうひとつ、赤ちゃんが言語を学習する方法についての研究について書かれていた部分も紹介します。

赤ちゃんが言語を学習する方法についても、とても興味深い研究がある。生まれたばかりの赤ちゃんは、どんな言語でも耳で聞いて学習することができる。そこである1つの言語だけを聞いていると、舌や唇、声帯といった調音器官がその言語に適応し、その他の言語を認識したり発音したりする能力が失われる。その時期はだいたい1歳をすぎたあたりだ。この「知覚狭小化」と呼ばれる過程を通して、母語の発音に対応する神経の通り道が強化され、それ以外の言語の発音に対応する神経の通り道は取り除かれていく。
生まれた瞬間は誰もが「世界市民」であり、すべての言語の音を認識することができるが、母語を学ぶについれてその能力を失い、母語の発音しか認識できない「一国の国民」になるということだ。しかしマルチリンガルは、この世界的な音を認識する能力をずっと持ち続けることができる。(p.130)

 言語の臨界期についての話ですね。僕自身は、「発音はそんなにきれいじゃなくても、通じるならいいじゃないか」と思っているので、あまり気にしていないのですが、生まれたときにはどの言語にも対応できるように脳の機能がもっているって、すごいことですよね。
 「生まれた瞬間は誰もが「世界市民」」という表現が詩的で素敵です。

10 心のコード

 「10 心のコード」は、マルチリンガルの創造性の話が書かれていました。マルチリンガルだから優秀なのか、優秀だからマルチリンガルになっているのか、因果関係なのか相関関係なのか、とかもっと知りたいなと思った部分です。おもしろかったのは、マルチリンガルの定義に、「コンピューター言語」も入れて書かれていることです。

世界中から集まった優秀な人たちは、みな自然言語とコンピューター言語のマルチリンガルだ。彼らは、シリコンバレー、大学、政府機関にとって貴重な知的資産であり、発見とイノベーションを促進する競争で欠かせない存在になっている。
これはいってみれば創造性のループだ。複数の言語を操ることがより高い創造性につながり、そして高い創造性がより高度な言語につながる。(p.285)

 僕は1994年に慶應義塾大学SFCに入学したのですが、そのときにプログラミング(C言語)は必修科目になっていて、「自然言語(外国語)と人工言語(プログラミング言語)は、両方できなくてはいけない」とはっきり言われていたのを思い出しました。

自然言語と人工言語は共生関係にある。それはつまり、お互いがお互いの利益になっているということだ。語学学習で成功する秘訣を知るには、言語を学ぶことの裏にあるメカニズムを理解する必要がある。そして、この分野における重要な発見の多くは、人工言語の研究から生まれてきた。人工言語と人工知能(AI)は、人間の言語と思考が生み出した知識を基盤にしている。そうやって生まれた人工言語とAIが新しい情報を生み出し、それによって人間の思考と学習のさらなる進歩が可能になる。(p.285-286)

 マルチリンガル、人工言語、人工知能(AI)、「言語」という概念で全部が繋がっていくのがおもしろいです。知っていくほどに、「言語」「言葉」が大事ではないか、と思えてきます。

解説(今井むつみ 先生)

 最後にある解説は、認知学者の今井むつみ先生が書かれていました。「ChatGPTがあれば、英語をわざわざ学習する必要はないのではないか」という問いから始まる部分を少し長いですが紹介します。

ChatGPTがあれば、英語をわざわざ学習する必要はないのではないか、と思った人も少なくないかもしれない。
本書はしかし、そのような安直な考えを力強く否定する。母語以外の言語を学び、バイリンガルになることで得られる最大の利点は、「相手に自分の言いたいことを伝える」ということではないのだ。外国語の自然な文が作れて相手とコミュニケーションができる、というのは単なる結果にすぎない。外国語を学習する真の利点はその過程から生まれる。

本書にエビデンスとともに詳細に記述されている、マルチリンガルになることで得られるさまざまな変化を、そのさわりだけ紹介しよう。まず、バイリンガルは実行機能がモノリンガルより優れている。実行機能とは、今自分が行っている思考――意識的な思考だけでなく、ほぼ無意識に自動的に行っている認知処理も含む――を適切にモニターし、注意を制御する能力のことである。これは、学習や意思決定の要となる認知能力として知られている。バイリンガルは、今何語を使っているかというモニター機能と、注意の切り替えの訓練を常に行っているようなものである。
しかしそれだけではない。そもそも言語を使うことは「壮大な連想ゲーム」を脳内で繰り広げることに等しいと著者は言う。ある言語のある単語にアクセスすると、そのほかの関連する単語も同時に活性化する。その言語の関連することばだけでなく、別の言語の単語も活性化される。マルチリンガルは、ある言語で1つの単語を使うだけでも、モノリンガルにくらべて活性化する情報量がずっと多く、その情報を制御しなければならない。マルチリンガルは、多くの情報を見渡し、整理し、選択するという負荷が高い情報処理をいつも行っていることに等しく、それは実行機能の訓練を常に行っているということだ。
この日々の生活の中での訓練は、脳の構造も変化させる。運動が肉体を変えるように、新しい言語を学ぶことは脳の構造を物理的に変えるのである。それによって、通常では前頭部が司る作業のいくつかを、手続き的な作業を担当する他の部位に回すことができるようになる。すると、その分、高度で抽象的な思考の要となる前頭部で、より創造的な思考に使うリソースが増えるということだ。実際、本書の著者は、創造性の指標となる課題をバイリンガルとモノリンガルに課すと、バイリンガルのほうが高いパフォーマンスを示すと述べている。(p.357-359)

 「マルチリンガルであることは、コミュニケーションがとれる以上の意味がある。だから英語を勉強しましょう」というふうにはなかなか学校で先生方には言いにくいけれども、多言語の世界で生きることは多様な世界を自分のなかにもつことであり、多様な世界を自分のなかにもてていれば多様なシチュエーションに対応できる力が身につくのでいいかな、とは思いました。

 最後に、今井先生が外国語教育について書いている部分を紹介します。

外国語の教育は今の日本に重要な課題で、社会全体で、外国語学習にもっと力を入れる必要があることは疑いの余地がない。ただし、それは、受験に必要とか、仕事で有利とか、経済の活性化といった、個人や国の功利的な目的のためだけであってはいけない。文化と切り離して文法と語彙を教え、単にその言語で文が作れるようになればよいということを目標にしてもいけない。正しい文法に則って情報を伝えるだけの文生成ならChatGPTで十分である。
言語は私たちの思考とも、他者と関わる社会で生活する上でも、なくてはならないものである。他方、言語は危険な道具でもある。言語は人々の不安をあおり、戦争に駆り立てることに加担してきた。言語を道具に、強い民族が弱い民族を支配しようとすることは歴史上繰り返し起こっている。そういうことも含めて、言語と人間との関わり、言語と社会の関わりについて、自分ごととして強い関心を持ちながら若い世代が国語も外国語も学ぶ。そういう言語教育が施策として必要だ。それが国民全体に浸透したとき、はじめて国家は多文化に開かれた成熟した社会を築くことができるのだ。(p.364-365)

 「言語は私たちの思考とも、他者と関わる社会で生活する上でも、なくてはならないものである。他方、言語は危険な道具でもある。」という部分、本当にそうだと感じました。言語、本当に大事だと思うのです。(全然、言語化できていないですね…)

まとめ(というか、気づき)

 この本に限らず、最近は「言語の大切さ」について考える機会が多くて、そういう本をたくさん読んでいます。「言語の大切さ」を感じているからこそ、授業のなかで子どもたちが話している言葉、発表で使っている言葉、書いている言葉に興味があります。また、先生方とのやり取りを通じて、それらの言葉遣いがどう変わっていくのかにも興味があります。
 だから、一人1台の情報端末を使ってもっともっと言語を書いたり、非言語でもいいので表現をしたり、という機会を増やしたいと思っています。また、それをクラスメイト同士で共有して読み合ったり、対話したりする機会を増やしたいと思っています。

 この大事そうだな、と思っている感覚を大事にしながら、学校での授業を見ていきたいと思っています。

(為田)