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書籍ご紹介:『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』

 森本あんり『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』を読みました。本のなかで、植民地時代のアメリカのロジャー・ウィリアムズという政治家について書かれています。

 学校でたくさんの子どもたちと話をして、彼らの文章や発表などのアウトプットを見ていると、僕は「多様性」や「寛容」ということについて考えます。スクールタクトやロイロノート・スクール、Googleクラスルームなど、さまざまなツールを使うことによって、クラスメイトが考えていることなどが見えるようになってきたときに、自分とぜんぜん違う考え方をしている子をどう受け入れるのか、という練習になればいいな、と思うからです。
 現代とアメリカ植民地時代と時代も違うし、小学生や中学生と政治家と立場も違いますが、それでも、「寛容」とはどういうことだろうと考えさせられる本でした。

 この本のなかで、「船の譬え」が出てきます。船員一人ひとりには良心の自由があるから、船長の定める方針に従う義務はないのか、という話です。デジタル化する学校全体の方針に対して、「自分はデジタルでは子どもたちは育たないと思う」という個人の思いはどのように扱われるのか、ということと紐付けながら読みました。

そこでウィリアムズがしたためたのが、しばしば引用される「船の譬え」である。自分は「良心の自由が無限である」などと語ったことは一度もなく、むしろそれは自分の嫌悪するところである、と強い調子で対論者を諌めている。この譬えでは、政治共同体を一艘の船に乗り合わせた人びとに擬して、おおよそ次のように語られている。

船の上では、カトリックプロテスタントユダヤ教徒イスラム教徒も、自由に礼拝する権利をもっている。誰も他の礼拝を強制されることもなく、したがってどこにも参加しない自由も認められている。しかし、船の進路を決定するのはあくまでも船長であり、船内での正義と秩序を守るのも船長の務めである。船長や士官への反抗、船員の義務の不履行、あるいは運賃不払いなどがあれば、船長以下の権力が行使されるのは当然である。神の前での平等を口実にして、権威や法律をないがしろにすることは許されない。

さて、どうだろうか。一見すると、この譬えは政教分離の理念を明快に語ってくれているようである。研究者たちも、そのようにこの譬えを称揚してきた。
しかし、その発端となった問題をもう一度よく考えていただきたい。反対者たちは、市民的義務に異を唱えているのではない。軍事訓練は彼らの宗教的良心に反する、と訴えているのである。まさにこれは、ウィリアムズ自身が訴えてやまなかった「良心の自由」の問題である。はたしてそれは、宗教の問題なのか、それとも世俗の問題なのか。政治権力の行使を「世俗的な事柄のみ」に限定したウィリアムズのあの画期的な一言は、ここでどれほど明快な指針を提供してくれるだろうか。(p.229-230)


 もうひとつ、多様性や寛容を考えるときに、「礼節」という概念を大事にしているというのも、子どもたちに伝えたい考え方だと思いました。「自分と違うし、理解できないけれど、尊重する」ということをできるようになってほしいな、と思います。

もう一点、これまで誰も指摘してこなかったことだが、本書でウィリアムズのために付け加えておきたいことがある。それは、彼が政治的な弾圧をしなかっただけでなく、宗教的な弾圧もしなかった、ということである。彼はただ、神学論争を仕掛けただけである。クエーカーの礼拝に乗り込んでいってそれを妨害したり、集まった人びとを面罵したりはしなかった。
第三章で取り上げたように、これは彼が先住民から学んだ礼儀である。「先住民は、誰に対しても礼拝を妨害することを嫌った」。先住民にとって、イギリス人やオランダ人の神は理解できないものだった。だがそれでも、彼はイギリス人やオランダ人が礼拝をしていれば、それが宗教的な時間と空間であることを理解した。そういう時には、理解できないままにそれを尊重し、邪魔に入ることはなかった。だから逆に、自分たちが尊いと思っている宗教的な時間や空間や事物を、外の者も尊重することを求めた。自分と同じ信仰だから尊重するのではない。自分と違うし、自分には理解できない信仰だが、尊重するのである。ウィリアムズは、そこに先住民の「礼節」を見ている。(p.242-243)

 こんなロジャー・ウィリアムズがいたアメリカは現在、「寛容なのか?」と言われればそんなことはないし、いろいろな問題がたくさん存在している状態ではあります。事態はそう簡単ではないのです。でも、こうした指針があること自体に意味があると思います。

ウィリアムズが唱えたのは、両手を拡げて心の底から他者を愛し受け入れる、ということではない。彼は、「みんなちがって、みんないい」などと能天気に多様性を祝賀したのではなく、お互いが最低限の「礼節」(civility)を守るべきことを説いたのである。(p.268)

礼節の尊重は、ホッブズやロックよりもずっと広い寛容論を導くことができる。当時の寛容論では、カトリック無神論者やイスラム教徒は除外されたが、ウィリアムズが要求する基準は、それよりもずっと緩く、したがって多様性の高い社会でも実現が可能である。
礼節は、敬意がなくても可能である。相手を心から尊重していなくても、その信念や行動に嫌悪感をもっていても、なお可能である。特定の宗教や宗旨を共有する必要もない。ウィリアムズが繰り返し強調したように、プロテスタントであろうとカトリックであろうと、ユダヤ教徒であろうとイスラム教徒であろうと、あるいはそのどれでもない無宗教者や無神論者であろうと、最低限の礼節をお互いに守ることができれば、ともに一つの社会を形成することができる。
ウィリアムズは「もし礼節という絆を守るなら、礼拝や宗教のことでどんなに意見の相違があっても、何の問題もありません」と言っている。そこには、似たような考えをもつ人ばかりの集まりが醸し出す心地よさはないかもしれない。だが、現代のわれわれが知りたいのは、異なる思想や信念をもつ人とどのように共存するか、ということである。(p.270)

 「礼節という絆を守る」ことができるようになるために、誰かから「尊重された体験」を多くしてほしいし、誰かのことを「尊重する体験」も多くしてほしいと僕は思っています。そのためにICTは非常に良いツールとなるのではないかと期待しています。

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 日経ビジネスのサイトで、この本『不寛容論』について、著者の森本あんり先生と小田嶋隆さん(このお二人、高校の同級生だそうです)の対談記事があります。こちらも非常におもしろかったので、ぜひご参考に。

business.nikkei.com

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(為田)