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『教育「変革」の時代の羅針盤 「教育DX×個別最適な学び」の光と影』ひとり読書会 No.3 「第2章 教育「変革」政策を公教育のバージョンアップにつなぐための論点整理」

 石井英真 先生の『教育「変革」の時代の羅針盤 「教育DX×個別最適な学び」の光と影』のひとり読書会をしています。今回は、「第2章 教育「変革」政策を公教育のバージョンアップにつなぐための論点整理」の読書メモを公開します。

 第2章は、「教育「変革」政策を公教育のバージョンアップにつなぐための論点整理」と題されています。

教育「変革」政策が目指す学校像は論争的であり、複数の展開可能性を見いだすことができます。そしてそれを、公教育の解体ではなく公教育の再構築の方向に導いていく上では、社会実験的な性格を持ったコロナ禍での経験をどう捉え、変化へとつなげるかが問われています。(p.22)

 最後に書かれている「公教育の解体ではなく公教育の再構築の方向に導いていく」というのはまさに僕自身が課題意識としてもっていることだなと思いながら読み進めました。
 教育「変革」政策やコロナ禍での経験を公教育のバージョンアップとして展開していくための論点が検討されていきます。

公教育を機能主義的に個人主義的に再編していくことについては、教育の商業主義的市場化や私事化を進める新自由主義改革だと批判することもできますが、それ以上に、それは良心的な変革者や改革者たちが目指しているような、学びの質の追究や個性の尊重や開かれた学校づくりにもつながらない可能性が考えられます。(p.23)

 こういった懸念をきちんとフォローしておくことは本当に大事だと思います。どんなことが論点となるのかを読んでいきたいと思います。

段階論的学習観の危うさ

 「未来の教室」プロジェクトのときに学校で先生方とよくディスカッションをした、「学習を効率化してぎゅっと短期間で基礎を習得して、できた時間でプロジェクトなどをしてアクティブ・ラーニングに」という問題について、「段階論的学習観の危うさ」としてたくさん紹介されていましたので、メモしていきます。 

アクティブ・ラーニングをするにも、基礎的な知識・技能が必要だから、まずそれを講義形式で手際よく教えて、グループワークなどで思考力・判断力・表現力等を育てればよいといった、いわば「習得」してから「活用」に向かう段階論はいまだ根強く、オンライン授業で注目を集める反転授業はそうした段階論と親和性が高いと言えます。(p.24)

 こうした段階論的学習観は、デジタルドリルを活用する授業をしたり、個別最適な学びの話をするときによく出てきます。

「未来の教室」構想にも顕著にみられる、段階論的な学習観は、実践的にも認知についての科学的研究の面でも問い直されてきたものです。(略)知識を習得することは、コンピュータのように、断片化された情報をただ入力しておけばよいというものではありません。学習者自身が、自らの生活経験や背景知識と新しく学ぶ内容とを関連づけ、意味を構成し、情動をも伴いながら納得(理解)してこそ、忘れない(記憶の保持:retention)し、応用もきく(転移:transfer)とされます。
また、人が力を発揮できるかどうかは、文脈(context)に大きく規定されています。学校での学習の文脈はあまりに生活の文脈とかけ離れすぎていて、学校の外では生きて働かない学校知学力を形成することになっている点が問題視されており、知識・技能やスキルを学ぶにしても、それらを生かす必然性や学びの有意味性を重視する必要があります。(p.25)

 これは、それはそうだろうと思うものの、そしたら学校ってどうしたらいいんだ…とも思うところですね。

 デジタルドリルやAI型ドリルを活用する習得的な学びについても、抑えておくべき論点が書かれていました。

習得的な学びといっても、機械的な習得と理解を伴う習得とは異なります。計算技能のような要素的で比較的単純な技能ならドリル学習で学べますが、それは、数の量感や概念の意味理解を保障するものではありません。特に、計算が苦手な子どもの背後には、操作のイメージや量感や位取りの原理などに関わる意味理解のつまずきが隠れていることが多いのです。その点への配慮もなく、基礎はAI型ドリルでもよいとしてしまえば、学習に困難を抱える子どもたちを切り捨ててしまうことになりかねません。(p.26)

 デジタルドリル・AI型ドリルで、いかに個々人の習熟に合わせて問題をアダプティブに出し分けられるようになっても、それですべて任せられるかというとそんなことはなく、上手に運用をされている先生は、デジタルドリル・AI型ドリルでの子どもたちの学習の進捗をチェックして見とりながら、その都度対応をその場で考えているので、むしろ先生の教える力はより問われる時代になっていますね。

分業論的学校観の落とし穴と教師の役割

 学校での学びを「段階論的学習観」で見るのであれば、デジタルドリルを活用したり、外部との連携を強めたりすることで、学校に関わるプレイヤーを増やして分業していくことができます。それを「分業論的学校観」と呼び、その落とし穴について書かれていました。少し長いですが、該当部分をメモしました。

「未来の教室」において顕著な、オールインワンであった学校の諸機能の分業論は、上述の段階論的な学習観によって支えられています。すなわち、知識を情報化することでICTや教育アプリや塾による代替を、そして、思考力や探究プロセスや社会性をスキル化することで民間等が提供する教育プログラムによる代替を促すわけです。そして最終的に、個人主義の行き過ぎを警戒し集団生活を経験することの意味を再確認する保守的な問題意識も相まって、社会的活動の支援(社会化)が、そして、情報化やスキル化という形で合理化が難しい福祉的労働(保護とケア)が、学校や教師の仕事として残され、そこにおいて教育専門職としての教職の専門性が拡散し空洞化することが危惧されます。
こうした傾向は「令和の日本型学校教育」、そして「政策パッケージ」にも見られます。たとえば、「政策パッケージ」においても、前掲の図2のように、「学習」(個別最適な学び/協働的な学び)、「活動」(学校行事・生徒会等)、「福祉的・メンタル面のケア」、「部活動」というカテゴリーで現状の学校の機能を捉え、それぞれについて学校内外での協力体制を構築することが示されています。そこでは、社会化に関わる「活動」は学校内で担うものとされ、コロナ禍を経ることでその重要性が自覚された学校の福祉的機能も明確に位置付けられています。他方、「学習」については、個別最適な学びと協働的な学びに切り分けられ、前者については、学校内よりも学校外の民間・社会寄りで担うものと捉えられています。(p.29-30)

 ここで言及されている「図2」は内容的に「図3」ではないかと思いますが、CSTI「Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」の資料にある「子供の特性を重視した学びの「時間」と「空間」の多様化<目指すイメージ②>」ではないかと思います。

 学習は個別最適な学びと共同的な学びに切り分けられ、特に個別最適な学びについては学校外の民間・社会寄りで担うもの、と書かれていますが、では学校外では教育をサービスとして捉えられる風潮になってきているのだ、ということが続けて書かれます。

学校外で肥大化した、競争主義的で受験準備に特化した学力観や授業観、教育をサービスとして捉える消費者的なまなざしが、学校に流れ込んできて、子どもたちの学びの環境を貧しくしてはいないでしょうか。先述の「学校化された社会」という考え方をふまえるなら、学校のスリム化は、学校の外側において子どもたちの前に広がる、むき出しの消費社会や学校化された学びを脱構築する試みとセットで追求される必要があります。(p.30-31)

学習権保障の意味の再確認

 公教育・学校教育・教育政策においては、「学力」概念について考えるとき、僕は「学力向上」という文脈よりも「学力保障」という文脈の方が気になります。横に広く、できるだけたくさんの子どもたちに基礎学力をつけてほしい、学び方を学んでほしい、と思っています。そういった学習権保障についても書かれていました。このあたり、あまり僕自身が詳しくないので、とても勉強になりました。

コロナ禍においても「学びの保障」というとき、文脈の違いによって、テスト学力(進路実現)、資質・能力(人材養成)、ケア(居場所の保障)のいずれかの意味で使われる一方で、学習権保障の理念は、学問や文化の伝承という内実を空洞化させています。(p.33)

 たしかに。学校で先生方と話をするときには、「学びの保障」という言葉をどの意味で使っているのかをしっかりディスカッションして合意して使いたいな、と思いました。

学校と社会との連携・分業体制の構築が重要であるにしても、学校の機能を機械的に切り分けることには注意が必要です。いわゆる「民間」で提供されるコンテンツやプログラムやサービスは、それぞれに特化した問題意識と強みを持っているのであって、それらをうまく組み合わせても、そこからこぼれてしまうものが出てきます。(p.33-34)

 「学校と社会との連携・分業体制の構築」は重要だが、「学校の機能を機械的に切り分けることには注意が必要」というのは酸性です。連携・分業する/しないを0か100かで分けるのではなく、グラデーションのなかで各学校・各地域の実情に合った形で体制を作っていけるのがいいんだろうなと思います。

 それと、学校という場があるからこその良さについても、きちんと考えておくことが大事だと思います。個別最適化アプリも学習内容について習熟できる以外にもいいことはたくさんあります。

たとえば、個別最適化アプリも、タブレットの中の「AI先生」が子どもたちの学びを救っているという側面以上に、一斉授業という形態の中で集団の中に埋没してきた個々人を切り出し、切り出された個々人が自ずとつながるところに、ゆるやかに学び合いと個性化・協働化された学びが生じる点が重要です。そうして生まれた子ども同士の支え合い、学び合いに補われながら、ゆるやかな教室の空気感と教育効果が生み出されうるのです。(p.34)

学校という場で子どもたちと暮らしをともにするからこそ可能になる、学校と教師が担ってきた、あるいは担いうる仕事の意味を再確認する必要があります。(p.35)

個性尊重に向けた実践と制度の論争点

 最後に、進んでいく「個別最適化された学び」が、公教育のみんなで学ぶことによる良さを壊してしまって、「個々で学べばいいじゃないか」という風潮になってしまわないようにも注意が必要です。

コロナ禍を経て高まる公教育の個人主義的再編は、個別化・個性化教育、および、履修主義と修得主義の問題に議論が集約されています。しかし、これらの主題について、歴史的経緯や概念規定をあいまいにしたまま議論がなされているようにも思います。そこで、議論の基盤として、順に論点を整理しておきたいと思います。そこで、議論の基盤として、順に論点を整理しておきたいと思います。
まず、教育の個別化・個性化については、個か集団かの単純な二項対立に陥らないために、以下のような論点を念頭において考えていく必要があります。(p.39-40)

  • 個別化・個性化と協働性との関係(個別化すれば個性化したことになるのか?逆に協働の中でこそ個性が生きるのではないか?)
  • 集団での学ぶことの多様な形(画一的な一斉授業? 学びをみんなで練り上げる創造的な一斉授業? プロジェクトやグループでの協働的な学び? 場を共有しながらの個別作業の協同化?)
  • 個に応じた指導の多様な形(能力や興味・関心に応じて個別に分けること? 同じ場でともに学べるようインクルーシブな場や足場を作ること?)
  • 制度レベルと実践レベルとの区別(進級原理としては既存の年齢主義をベースに、履修原理として修得主義を強めることに止めるのか? 無学年制や飛び級等の進級基準にまで踏み込むのか?)

 どの論点も大事なポイントがたくさん含まれています。僕が仕事で接するところで言うと、授業が関わるところが多いので、最初の3つの論点は先生方ともよくお話をするところですね。

 ここから、「個別化」と「個性化」についてさまざまなポイントが続けてまとめられていました。ページのほとんどに赤線を引くことになりました…。考えるべき点をたくさん提示されて、本当にありがたいです。

個別化・個性化というと、自由進度学習が想起されますが、それが際限なき目標の個別化・個性化に向かうなら、格差の拡大が懸念されるところです。しかし、目標は共通にして、そこにいたる方法を一人ひとりの子どもに合わせたものにすることも考えられます(方法の個別化・個性化)。(p.40)

 「目標」の個別化・個性化と、「方法」の個別化・個性化があるのだ、という指摘は、言葉を使うときの解像度を上げてくれると思いました。

 さらに、「個別化」と「個性化」についても志向性の違いが指摘されます。

「個別化」と「個性化」という概念についても、志向性の違いを指摘できます。すなわち、早い・遅いという一元的で垂直的な量的差異に着目する「個別化(individualization)」と、それぞれの子どもの興味・関心や持ち味を尊重するという多元的で水平的な質的差異に注目する「個性化(personalization)」では、実践の方向性は異なってきます。(p.41)

 ここで、個別化と個性化について文章に書かれていたものをまとめて整理してみました。

教育の個別化と個性化の整理(p.41)

  • 教育の「個別化」
    • 教育内容や学習進度や進級水準の能力に応じた多様化を指す。
    • 学習にかかる時間の差(量的差異)で個人差を捉える。
    • 能力別学級編制(同質性)や自由進度学習(複線性)等と結びつきがち。
    • 知能や学業成績等の一元的尺度に基づいて量的に学習を進める、直線的なプログラム学習として具体化される。
    • 発展的学習は、先取り学習としての「早修(acceleration)」として実施されがち。
  • 教育の「個性化」
    • 統一体としての個人の内的なニーズや自発性に応じた多様化を指す。
    • 興味・関心や学習スタイルなどの差(質的差異)として個人差を捉える。
    • 異年齢集団等も含む多様な集団編成(異質性)や自由テーマ学習(複数性)等と結びつきがち。
    • 「多重知能(multiple intelligence)」等の多元的尺度に基づいて質的に深める、多面的・総合的なプロジェクト学習として具体化される。
    • 発展的学習は、習得した内容をより深く広く学び直す「拡充(enrichment)」として実施されがち。

 この後、苅谷剛彦 先生の『教育改革の幻想』なども踏まえて、個別化・個性化教育についての要注意なポイントが紹介されていました。苅谷先生の本、ひさしぶりに読み返したいなと思いました。

個別化・個性化教育に対しては、個人差(差異)の尊重が、結果として、個性の伸長ではなく、格差の拡大につながりがちな点が、教育社会学の研究において繰り返し指摘されてきました(苅谷 2002)。特に、日本においては、偏差値や学問はもちろん、所属する企業や出身校の名前や肩書などで序列化されてきた社会状況(タテ社会とメンバーシップ社会が生み出す組織内の階層性と序列の固定化)をセットで問題にしない限り、子どもの個性や学校の特色は、結局のところある序列の中での位置取りに回収され、教育の多様化は、ソフトな社会的な振り分けと序列化に容易につながります。
そうした危惧をふまえるなら、昨今の垂直的序列化と水平的画一化の過剰に対して、水平的多様化が対抗軸になるとしても(本田 2020)、共通の目標の保障は容易に緩めないで、他方で、そこに至る方法は子ども一人ひとりに応じて個別化・個性化されることが重視されるべきでしょう。(p.45)

 ここで書かれていることは僕もけっこう賛成です。いきなり大きく社会を変えることはできないと思っています。ゴールを変えることが簡単でないのであれば、せめてゴールまでのルートを多様化できればいいと思っています。

 参考文献にあがっていた本田由紀 先生の『教育は何を評価してきたのか』については、ブログを書いていました。
blog.ict-in-education.jp

 履修主義から習得主義への転換について、僕は基本的に賛成ですが、その際に考えておくべきことが書かれていました。

コロナ禍での長期臨時休校等の経験を経て、(略)履修主義から修得主義への転換論に注目が集まっています。しかし、履修主義が担ってきた教育的意味を顧みることなく、修得主義という言葉に込められた学力保障論的含意を欠落させながら、もともと能力主義と親和性の高い課程主義を、自由化という一点において理想化する傾向には注意が必要です。(p.55)

日本の学校の集団性はしばしば抑圧的であるにしても、スタンプラリーのように単位をゲットするだけの割り切った学校生活ではなく、探究的な学びや特別活動等での社会的な経験を通して、生活の場としての学校の意味を生かすことや、人間的成長につながる学びの機会が必要ではないか。(p.57)

 たしかに、学びがスタンプラリーのようになってしまうのは嫌だな、と思います。だからこそ、「個別最適な学び」と「協働的な学び」が一体的になる必要があるのだろうけれど、実際に学校でやってみるとそう上手いことバランスをとるのは難しいよな、とも思うのでした。

まとめ(というか、気づき)

 たくさんの論点が提示されて、いままで学習の「個別化」「個性化」と簡単に使ってきた言葉を、簡単に口に出せなくなったと言うか、その周囲にあるいろいろな論点も考えられるようになったような気がしています。
 ずっと議論も積み重ねられてきている部分でもあり、もっともっと勉強して学校の先生方の授業づくりをサポートしたいなと感じました。

 しかし、いろんな学校の研究授業を見ていくときに、この章に書かれていた論点は常に気にしながら参観しようと思いました。何度も読書メモを見返すために、このエントリーに何度もアクセスすることになりそうだなと思っています。


 No.4に続きます。
blog.ict-in-education.jp


(為田)