緒方壽人さんの『コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ』をじっくり読んで、Twitterのハッシュタグ #コンヴィヴィアル・テクノロジー を使って、ひとり読書会を実施したのをまとめていこうと思います。
「第2章 人間と情報とモノ」
第2章のテーマは、「人間と情報とモノ」です。第1章では、コンヴィヴィアルな道具の例として、自転車などが紹介されてきたわけですが、コンピュータやインターネットなど情報テクノロジーが普及している現在はどうなのか、ということについて書かれていました。
「パーソナルコンピュータやインターネットは、個人の能力や創造性をエンパワーしてくれるコンヴィヴィアルなテクノロジーとなった。」(p.69) #コンヴィヴィアル・テクノロジー
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) August 22, 2021
道具としての情報テクノロジーにも、イリイチが指摘した「二つの分水嶺」はある。「個人の主体的な能力や創造性をエンパワーしてくれるに至る第一の分水嶺と、それが知らず知らずのうちに人間から能力や主体性を奪ってしまうに至る第二の分水嶺がある」(p.70) #コンヴィヴィアル・テクノロジー
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) August 22, 2021
当然、情報テクノロジーにも「二つの分水嶺」はあります。情報テクノロジーの進化は目覚ましいと思います。ハードウェアの進化、ソフトウェアの進化によって、社会はどんどん変わっています。
僕は学校での先生向けの研修をするときに、「Googleマップがなかった頃の待ち合わせとか、もう思い出せなくないですか?」と話をすることがあります。でも、Googleマップも二つの分水嶺を超えつつあるのかもしれません。最適経路とか、どうやって出しているのかもうブラックボックスになっていますし…。もともとはアナログだった地図をデジタルにするとどう変わるのか、というところにも、二つの分水嶺は関わってきます。
デジタルのテクノロジーの進化が進んできて、もう現実世界を超えつつある、ということも書かれていました。
デジタルな世界を現実世界のメタファーで表現することの方にも限界が来ている。もはやAmazonを本屋のメタファーで表現するのは不可能であり、むしろ見せかけのメタファーはテクノロジーをブラックボックス化し、見極めるべき本質を見失わせることにもつながりかねない。
(略)これからの時代には、単にデジタルな世界を現実世界に近づけタンジブルにするだけでなく、現実のメタファーに置き換えられない圧倒的な量の複雑な情報を人間が「掴む(理解する)」ためのグラスパブルなインターフェイスが求められているのである。(p.73)
また、いっそリアルの世界をデジタルのなかにそっくりそのまま作る、「デジタルツイン」の話も書かれていました。
「あらゆる物事がデジタル化され、リアル世界をそっくりそのまま再現した「デジタルツイン」ができれば、デジタルな世界の中で様々な実験や分析をしたり、シミュレーションを高速に繰り返すことで最適化が可能になる。」(p.74) #コンヴィヴィアル・テクノロジー
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) August 22, 2021
この「デジタルツイン」の話はすごくおもしろいと思ったものの、デジタルツインを使ったシミュレーションもまた、二つの分水嶺を持っていて、行き過ぎればテクノロジーはブラックボックス化するし、「フェイクニュースだ」「陰謀論だ」というのも出てきそうです。
ロボティクスにせよAIにせよライフサイエンスにせよ、いずれにしても今後ますます生命と情報とモノの境界は曖昧になっていく。そのなかで、テクノロジーは単に人間が使う道具から、人間と共に生きる自律的な他者のような存在になっていくだろう。(略)
人間は特別な存在であり、機械とは決定的に違うのだと高を括るのでもなく、かといって人間が機械に支配されるのをただ恐れるのでもなく、イリイチが示した二つの分水嶺の間で、自律と他律のバランスをとるためのテクノロジーが求められているのである。(p.90-91)
この最後の、「人間は特別な存在であり、機械とは決定的に違うのだと高を括るのでもなく、かといって人間が機械に支配されるのをただ恐れるのでもなく」というところが大事だと思います。二つの分水嶺の間で、バランス良くテクノロジーを使うということ、意識していかなくてはいけません。
No.4に続きます。
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(為田)