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『コンヴィヴィアル・テクノロジー』 ひとり読書会 No.5「第4章 人間と自然」

 緒方壽人さんの『コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ』をじっくり読んで、Twitterハッシュタグ #コンヴィヴィアル・テクノロジー を使って、ひとり読書会を実施したのをまとめていこうと思います。

「第4章 人間と自然」

 第4章のテーマは、「人間と自然」です。「環境保護」や「自然との関わり」「災害」などは、学校の授業でもテーマとして取り上げられることがしばしばありますので、興味深く読みました。

 まずは、ここまでの復習として、「二つの分水嶺」のことをあらためてまとめます。

 哲学者の篠原雅武さんが著書『人新世の哲学』の終章で、環境哲学者ティモシー・モートンの言葉を引用しながら述べている部分が紹介されています。

人間世界の外にあり、背景でしかないと思われていたものが、現実に人間世界に影響してしまう。自然はもはや暴力を振るわれる客体ではなく、人間に反撃する主体でもある。(p.124)

 「人と自然はどのような関係にあるのか」。東洋では自然と共存し、西洋では自然を克服する、というようなことを読んだ記憶もありますが、こうして「自然が人間に反撃する」という捉え方は、あらためて突きつけられると響く表現だと思います。

 自然とテクノロジーの関係から、原子力エネルギーについても触れられていました。


テクノロジーが人間の目的のために行う手段であるとするならば、テクノロジーは善でも悪でもない中立な道具であり、道具はすべて使い方次第だということになる。これを突き詰めていくと、どんな重大事故が起ころうがそれは道具の使い方が悪かったということになり、テクノロジーをより制御可能にしようとする追求とリスクの管理がどこまでも際限なく行われることになる。(p.128)


  1. 「気候変動危機に代表される「人新世」における人間と自然の関係において、行き過ぎた人間中心主義を見直すべきときに来ているという視点である。(略)このままの人間中心では地球がもたない」(p.138)
  2. 「人間はそもそも世界の中心ではないこと、言ってみれば「脱神中心」と表裏一体の「脱人間中心」である。(略)科学技術が「人間は世界の中心でもなければ、他の生き物と違う神に選ばれた特別な存在でもない」ことも知らしめてきたとも言える」(p.138)

 ドーナツ経済学というのが紹介されていて、初めて知りましたが、これもまた、「二つの分水嶺」の話と重なります。


このモデル(上図)では、ドーナツの内側に足りていない部分、ドーナツの外側に行き過ぎた部分が示されている。イリイチの言葉を借りるならば、SOCIAL FOUNDATIONと書かれたドーナツ内側の輪郭が「第一の分水嶺」、ECOLOGICAL CEILINGと書かれたドーナツ外側の輪郭が「第二の分水嶺」と言えそうだ。(p.141)

 「人間と自然」にフォーカスをあててきた第4章の最後では、苫野一徳先生の「自由の相互承認」の考え方が紹介されていました。


人種や出生や能力にかかわらず、あらゆる人間が生きたいように生きる権利を認めようとするところまで辿り着いた近代の人間社会の根本原理が「自由の相互承認」であるなら、脱人間中心主義は「自由の相互承認」の種を超えた拡張であり、サステナビリティは「自由の相互承認」の時間軸を超えた拡張である。人間中心主義を改めることや、地球のために、と考えることは、倫理的には理解できてもなかなか日々の行動原理とするのはハードルが高い。それよりも、あくまで「すべての人間」という枠の中に「未来の人間」も含めようという考え方のほうが、まずは現実的で受け入れやすいのではないだろうか。(p.145)

 自然をどう捉えるかという話が、気候変動やパンデミックへどう向き合うかということと繋がっていき、最後には苫野一徳先生の「自由の相互承認」と絡めて考えていく、じっくり考えたいことをたくさん提示される章だったと思います。

 No.6に続きます。
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(為田)