一般社団法人みつかる+わかる代表理事の市川力 先生と慶應義塾大学総合政策学部教授の井庭崇 先生の共著『ジェネレーター 学びと活動の生成』を読みました。市川先生も井庭先生も、学びの現場でたくさんの子どもたち・学生たちとともに学び、何かを作り出す(=ジェネレートする)ことをし続けている方々なので、実践的なノウハウをたくさん知ることができました。また、その背景にある「考え方」についても知ることができ、「子どもたちと一緒に何かをジェネレートしたい!」と思ってしまう本でした。
興味深かった部分をメモとして公開したいと思います。まずは、本のタイトルにもなっている「ジェネレーター」に関わるところから。井庭先生は、ここ100年の社会の変化を、消費社会(中心となるのはConsumption)→情報社会(中心となるのはCommunication)→創造社会(中心となるのはCreation)と言っています。このなかで、ジェネレーターが創造社会において重要になるというのが最初に書かれていました。
ジェネレーターは、まさに、この創造社会において重要な役割を担う。社会の変化に連動して、学びのかたち、教育のかたちが変わるため、教師の役割の重点も変わっていく。創造的な時代における学び・教育には、ジェネレーターが欠かせないのである。(p.42)
実際に、「創造社会」の時代がどんなものなのかということがさまざまな形で書かれているのですが、個人的には、問題にどう取り組んでいくのかというところに関して井庭先生が書かれていた部分が印象的でした。少し長いですが、引用します。
これからの創造社会は、(略)声を届けて誰かに変えてもらうのではなく、自分たちで変えていくのである。これが、ジェネレートだ。アイデアをジェネレート、つまり、アイデアをどんどん生成・連鎖させていくのである。「頼む、変えてくれ!」ではなく、「こうしたらよいのではないか?」「なるほど、それならこういうやり方もあるね」「いいね、さらにこれもできそう」とどんどんアイデアを出してつなげていく。これが、ジェネレートだ。このようなジェネレートは、リアルに対面して行われるコラボレーションだけでなく、インターネットで遠く離れた多数の人たちと非同期に行われるコラボレーションも活発に行われるようになるだろう。
そして、現状においてイグジットが起きにくいのは、どこも似たようなもので、イグジットしてもたかが知れているからである。また、グローバルな社会問題として、地球が温暖化で住みにくくなったからといって、地球からイグジットするなんてこともできない。イグジットがうまく機能しないのである。
それであれば、いまあるものの別のものに移るのではなく、新しいやり方や新しいあり方をつくって、そこに移行すればいい。これは、現状からのイグジットではあるが、ハーシュマンが想定したような、横移動のイグジットではなく、現状にもう一レイヤー加えた上で、そこに移動するのである。その場の意味を捉え直すことによって、まったく新しい場として再定義してしまう。そういうことが、イグジットに変わるリフレームだ。
このようなジェネレートとリフレームをどんどん巻き起こしていくために重要となるのが、ジェネレーターなのだ。例えば、学校にジェネレーター的教師が集まることで、いろいろなアイデアをみんなで出しあい、その中に入り込み、同じプロジェクトの参加者として一緒にアイデアを出して盛り上がり、発見の連鎖をジェネレート=生成し続ける。すると、ただの学校ではなくなってしまい、なんだかすごくワクワクする実験場のような場にリフレームされる。そういうことが、ジェネレートとリフレームによる変革だ。(p.99-100)
「学校にジェネレーター的教師が集まる」ことで、学校を変えていく、みんなで社会を変えていくための学びの場になる、というのは素敵だと感じました。先生の役割が、ティーチャーから、ファシリテーターに変わっていく、というのはよく言われることですが、さらにその先にジェネレーターになっていく、というのは非常におもしろいと思いました。実際に「子どもたちと一緒に何かをジェネレートしていく」授業の形は素敵だと感じます。
子どもたちと「一緒に何かをジェネレートする」ことについて、市川先生もご自身のワークショップの様子を紹介しながら書いていました。ジェネレーターという存在がどんな感じなのかがわかります。
ジェネレーターという存在は、子ども「を」つかんで元気づけているわけではない。子ども「と」一緒に「見えないなりゆき」を「つかもう(GRASP)」としているのだ。どこに向かうかあらかじめ読めないなりゆきを追いかけるのはなかなか大変だ。そのときに率先して「発電」して面白がり、必死に手を伸ばして「GRASP」しようとする姿を見せている。すると、子どもにも「電気」が伝わって、みんなで「GRASP」し始めるのだ。(p.117)
また、井庭先生の大学の研究会(ゼミ)での活動で、ロゴを学生たちと一緒に作った様子が書かれていました。大学での事例ですが、小学校・中学校・高校でも活用できる部分はあるのではないかと思います。
教員である僕も「よりよいものをつくり出すチーム」のメンバーの1人として、ロゴをつくるということに真摯に向き合い、自分の案も出し惜しみせず投入するように全力を尽くす。学生がやっているから学生が出すアイデアよりよいものを出してはいけないとか、アドバイスすることだけに徹して学生自身が発想できるように促すというようなホールドはしない。アイデアが生まれなければメンバー(学生)と一緒に何日でも苦しみ抜く。「一緒に悩む」ということもジェネレーターとしての教員の大事な役割だと言えるだろう。
こういう話をすると、決まって、「これでは学生がやったのではなく、先生がやってしまったことになりませんか」という質問をする人がいる。気持ちはわかるが、ともにつくるコラボレーションでは「誰が」は重要ではない。アイデア・発見が生成・連鎖することで、何かがつくられる。そこに貢献する人が、メンバーだったりジェネレーターだったりする。それだけだ。
つまり、あるアイデアが取り入れられるのは、「そのアイデアがよかったから」なのだ。アイデアの良し悪しに、それを考えた人の立場や肩書きは関係ない。良いものはよいし、悪いものは悪いのだ。あるアイデアを学生が出したのか先生が出したのかを気にしている人は、そういう立場・肩書きを意識しすぎていると言えるだろう。そういう社会的(ソーシャル)な次元ではなく、創造的(クリエイティブ)な次元で捉えるべきなのだ。
次に出てくるのは、「先生がアイデアを出してしまったら、どう学生を評価するのですか?」という質問だ。これも、評価ということを軸に考えすぎている。「つくる」ことそのものではなく、「評価のためにつくらせる」になってしまっている。そうではなく、ここでいま取り組んでいることは、「適した良いロゴをつくること」なのだ。個別にあるいはグループのパフォーマンスを評価し、成績をつけることが中心ではない。(p.146-147)
小学校でも中学校でも高校でも、先生も一緒になってジェネレートしていく場を作るのは、PBLの授業やプログラミングの授業など、いろいろな場面でできるのではないかと思います。ICTをツールとして使うことで、ジェネレートできることはより幅広くなると思います。
一緒にジェネレートすることになると、「おお、そんなこと考えてるんだね!?」とか、「そのアイデア、すごくいいね!」と思うことはたくさんあると思います。ジェネレーター的な先生のそうした言葉や、アイデアで判断をするマインドは、子どもたちの学びを加速させる力があると思います。
子どもたちと一緒に何かをジェネレートする授業、自分でも作ってやってみようと思います。
(為田)