井庭崇『クリエイティブ・ラーニング 創造社会の学びと教育』をじっくり読んで、Twitterのハッシュタグ「 #クリエイティブ・ラーニング 」を使って、ひとり読書会を実施したのをまとめておこうと思います。
今回は、「序章 構成主義の学びと創造―クリエイティブ・ラーニング入門」をまとめておきたいと思います。序章では、ピアジェ、パパート、レズニック、ヴィゴツキー、デューイ、コルブらの理論について紹介されていました。専門的に教育を学んだことがない僕にとって、こうしてまとめられたものを一気に読むことができて、新しいことをたくさん知ることができました。
すべてではないですが、自分で気になったところ、ICTやプログラミングなどと関連するところをまとめてみました。
ピアジェ
最初はピアジェについてです。外から知識をあてがうように伝えていく方法ではなく、「子どもが自分自身で発見する機会」を重視することは昔からされていたことがわかります。子どもがどんな状況なのかに関わらず、知識を伝達してもしかたがない、ということになりますが、教科学習があまりにカリキュラム的に整理されているので、そのぶんこのあたりは弱いところなような気もしました。
ピアジェの構成主義について。「すべての知識は、各自の構造による同化と調節によってその主体自身によって構成されなければならない。教師や親が、自らの構造に同化させて構成した認識・知識を、子ども自身の同化・構成を介さずに、手渡すことはできない」(p.41) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月3日
子どもは子どもなりの構造を持って知識を構成している。だから「知識を外から当てがっても意味がないのである。そればかりか、それは、子どもが自分自身で発見する機会を奪うことにもなる。」(p.42) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月3日
パパート
パパートの「コンストラクショニズム」についてまとめます。何かを「つくる」ことによって学んでいくコンストラクショニズムは、プログラミング教育と組み合わせて考えるとおもしろい部分が多いかと思います。また、企画や仕組みを作っていくという意味では、PBLと組み合わせて考えることもできそうです。
亀を動かして図形を描くLOGO言語。「これは、「コンピュータにどうものを考えるかを教えることによって、自分はどのようにものを考えるかについての探究に取り組む」という手段となる。そのなかで、子どもたちは思考し、物事の理解を深めていく。」(p.56) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月4日
「何かを「つくる」ことによって学んでゆくコンストラクショニズムの学びにおいては、実際に「つくる」ことが可能になるために、つくるための知識や技芸を学ぶことも重要になる。(略)何かをつくるために学ぶことは、能動的な学びの機会となる。」(p.56) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月4日
「つくったものをよりよく修正し、つくり直していくという姿勢・態度も重要となる。パパートがプログラミングにおける重要なスキルとして挙げている「デバッグ」(debug)の話は、クリエイティブ・ラーニングを語るうえできわめて重要」(p.56-57) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月4日
プログラムについて問題にすべきは「正しいか間違っているかではなくて、修正が可能かどうか(略)知的な産物に対するこのような見方が、より大きな文化全体の知識や知識の獲得に対する考え方にまで及ぶなら、我々が誤りを恐れて畏縮することも少なくなるだろう」(p.57) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月4日
プログラミング教育の実践者の方々が、「デバッグこそ大事」と言うのをよく聞きます。コンストラクショニズムの「デバッグのとき、一発で正解を導かなくてもいい」という考え方は、探究と相性がよさそうです。
学校の教科学習では、先生と一緒に真剣に解くということはあまりないのですが、以前見学させていただいた筑波大附属駒場高校の澤田英輔先生の授業で、「先生が書いた作文をみんなでレビューする」というのがあり、それは近いかもしれないと思いました。
blog.ict-in-education.jp
ヴィゴツキー
次にヴィゴツキーです。ヴィゴツキーは「文化的-歴史的な社会的環境を発達の源泉と捉え」ているそうです。僕は、“公教育が文化的・歴史的な資産を次の世代に引き渡す場としての役割を果たしている”と思っているので、そういう観点が近そうだと思いながら読み進めていきました。
「ヴィゴツキーは、他者との言語的コミュニケーションのなかで、これまで人類が築き上げてきた文化的な遺産を引き継ぐことで、各人の精神は発達し、高次のレベルに到達できると考えた。文化的-歴史的な社会的環境を発達の源泉と捉える」(p.67)→文化的-歴史的発達理論 #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月5日
コミュニケーションのメディアとして使われている言語が、内面化されてやがた「思考の手段」となるというのも、非常に興味深い考え方でした。
「ヴィゴツキーは、発生的観点に立つならば、言語は、最初は「コミュニケーションの手段」として用いられ、それが内面化された後に初めて「思考の手段」となることを見出した。コミュニケーションの言語の内面化、これが彼の着想の最も基本的で最も重要な点」(p.67) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月5日
また、ヴィゴツキーと言えば、「発達の最近接領域」(ZPD:Zone of Proximal Development)です。これは、いままさに成熟しつつある発達領域に注目する概念です。すでに成熟した能力だけでなく、いま成熟しつつある能力にも目を向けるべきであるといいます。
「なぜなら、そのいま成熟しつつある領域こそが、教授-学習が可能で、効果を発揮する領域だからである。教育において重要なのは、その人がすでに知っている・できることだけでなく、何を学ぶことができるのかを知ることだというわけである」(p.85) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月5日
また、成熟しつつある領域こそが、「何を学ぶことができるか」というところになる。そこから、「模倣」について話が進んでいきます。
「ヴィゴツキーは、「模倣は、誰にでもできることだと考えられている。…だが、この見解は、徹底的にまちがっている」とはっきり言う。人はどんなことでも模倣できるわけではなく、その人の発達水準によって模倣できることには範囲がある」(p.88) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月5日
「ヴィゴツキーは「自分よりも知的な仲間と協同」や「まわりの人たちとの相互関係、友だちとの協同」も、発達の最近接領域での教授-学習に含まれると述べており、そこからコラボレーションのなかでの学びやピア(peer)に学び合うことへのつながりも見えてくる」(p.92) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月5日
ここはすごくおもしろいところだと思いました。スクールタクトやロイロノート・スクールなど、授業支援ソフトを使っている学校の授業を研修などで紹介すると、他の「児童生徒の答えが見えてしまうことは、公開カンニングであり、真似をするようになってしまうのでは?」と言われることがあるのですが、単純に模倣を誰でもできるということではなく、模倣できることには範囲があるのであれば、どんな場面で他の児童生徒の回答も見せるようにするのかなど、先生の見取りで授業に取り込んでいく必要があるということだと思いました。
デューイ
続いて、デューイです。ハッシュタグを振り返ると、デューイについてのメモがいちばん多かったのですが、ここでは、自分自身の関心が高かったものに絞ってまとめておきます。
「デューイの思想の特徴は、何といってもプラグマティズムの経験主義であるが、構成主義的な側面をもつ学者としても位置づけられている。(略)デューイは、「経験」を重視し、特に「道具」、「探究」、「社会・共同体」という面から経験について考察した」(p.108-109) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
経験の連続性の原理:「経験は孤立した事象ではなく、これまでの経験が今の経験の質に影響を及ぼし、今の経験が今後の経験の質に影響を及ぼすという連続性がある」(略)経験は「その後のより深くより広い質をもつ経験を準備する点でなんらかの寄与をする」(p.112) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
「経験に根ざした教育においては、「継続して起こる経験のなかで、実り豊かに創造的に生きるような種類の現在の経験を提供する」ことが重要になる。そのため、「教育過程それぞれの段階において、未来というものが考慮されなければならない」のである」(p.113) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
「こうして、教師は、「経験の連続性」の原理を踏まえるならば、将来にどのような経験をするのか(することになるのか/するのがよいのか)を見据えて、現在の経験を位置づけるという役割を担うことになる」(p.113) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
この、「経験の連続性」の原理は、特にこれからの授業設計、カリキュラム・マネジメントには重要な観点だと思います。経済産業省による「未来の教室」実証事業に関しても、「これから児童生徒がどんな経験をするのか=どんな社会に生きるのか」というところから、教育は変わるべきだと言われているように思います。
デューイは「教育者は他のどのような職業人よりも、遠い将来を見定めることにかかわっているのである」と言う。「ここで、デューイが将来のための知識の蓄積ではなく、未来の経験につながる経験を重視していることを、あらためて意識したい」(p.114) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
デューイが「将来のための知識の蓄積ではなく、未来の経験につながる経験を重視している」という表現は、非常に重要な言葉だと思います。一方で、学校とはどうだろうか?という方向に進んでいきます。
デューイ「将来のある時期に役立つだろうということだけで、教えられ学ばされる算数、地理、歴史などの一定量の教科内容をたんに習得するだけで、そのような経験の準備的な効果があがると仮定するならば、それは誤りというものである」(p.114) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
現在の学校では、「子どもは、これらの事柄(一定の知識を与えられたり、一定の課業を学習したり、一定の習慣を形成させられる)を、他にすべきものを持ちながらそれに代えてなさねばならない。これでは単なる準備である」(p.115) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
デューイは「「単なる準備」ではなく、学校で過ごすことが「それ自体で生きるだけの価値のある」場にすべきである」と言う。「教育は生活の過程であって、将来の生活に対する準備」ではなく、学校は子どもにとって「現実的で生き生きとした生活」の場であるべき(p.115) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
デューイは、「世界は変化し、未来はまだ不確定であるからこそ、学び続けることが重要」だと考えていた。「それゆえ、最も重要なのは、学び続けようとする態度の形成であると言った」(p.115) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
デューイ「とりわけこれから起こるであろう未来の経験から意味を引き出す能力を失うならば、地理や歴史について規定されている知識量を獲得したところで、また読み書きの能力を獲得したところで、それが何の役に立つというのであろうか」(p.116) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
デューイのこのあたりの言説を読んでいて、いまの学校教育/自分の仕事で、実現できているだろうかと反省させられました…。学校での学びが「単なる準備」にならないように、「学習を継続していこうと願う態度」(p.116)をどう形成していくか、考えるべきテーマだと思います。
「経験の相互作用性」と「経験の連続性」の二つの原理が「共同体としての学校」というデューイの学校観へ。「デューイは、学校が一つの小さな社会・共同体(community)であることを重視した(略)つまり、学校は共同体としての社会を経験できる場所であるべき」(p.118) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
「ヴィゴツキーが、子どもが一人でできることのみをテストする従来の評価の仕方を批判し、発達の最近接領域における援助・共同作業を重視したように、デューイも学校が根本的に個人主義に陥っていることを問題視し、援助することや共同で取り組むことを重視する」(p120) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
続いて、「内省的思考」「熟慮」について書かれています。このあたりも、教科学習ではなかなか取り入れにくかったところかもしれません。
「人は、経験から学び、それを次の経験に活かそうとするのであれば、その経験における行為と結果をより詳しく把握しなければならない。デューイは、このように経験を振り返る思考を「内省的思考」(reflective thinking)や「熟慮」(deliberation)と呼んだ」(p.126) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
「内省的思考とは、「われわれがなすことと、生ずる結果との間の、特定の関連を発見して、両者が連続的になるようにする意図的な努力」である。この内省的思考で、一定の行動の仕方と一定の結果がどのように関連しているのかを知ることができる」(p.126) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
そして、探究から知識をどう得るのかというところに話が繋がります。このあたり、教室での実践と紐づくところがないか、考えてみたいと思います。
「内省的思考で行われていることを、より一般化して捉えると、それは「探究」(inquiry)ということになる。探究とは、疑念(doubt)から始まり、推論(reasoning)を進め、信念(belief)へと向かう活動のことである。」(p.127) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
「探究は、新たな事象でであったりして、これまでにもっていた信念が揺らいだときに始まる。それは矛盾を孕むような不確定な状態、混沌とした状態である。そこからそれらが落ち着くような信念に向かい、到達したら、安定する」(p.127) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
「そして、探究の結果得られる「信念」を、別の言い方で言うと、それは「知識」と呼びうるものである。思考・探究の結果、人は何らかの「知識」を得るのである。ただし、「知識」は絶対的なものではなく」(p.128)、新たな疑念→探究の結果変化する可能性もある。 #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
「探究には、一つの終わりが、次の探究の始まりになるという「探究の継続の連続性」がある。「一つの探究のなかで達した結論は、資料的、手続き的にさらなる探究にもたらされる手段になる」のである」(p.128) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月11日
コルブ
最後に、コルブの「経験学習」と「ラーニング・サイクル」についてのメモです。
「学びとは経験の変容を通して、知識が構成される過程である、とコルブは定義した。知識は、経験の把握と変容の組み合わせの結果生じる。そして、経験から学ぶことの基本的なモデルとして、「ラーニング・サイクル」(ラーニング・スパイラル」を提示した。」(p.132) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月13日
「ラーニング・サイクルは、「具体的経験」、「内省的観察」、「抽象的概念化」、「積極的実験」の四つの要素で構成されている。この四つは、平たく言うならば、「経験する」、「振り返る」、「考える」、「行為する」ということである」(p.132) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月13日
「コルブは、経験の把握する二つの様式である「具体的経験」と「抽象的概念化」の弁証法的解消と、経験を変容させる二つの様式である「内省的観察」と「積極的実験」という相反するものが弁証法的に解消するときに、学びが生じるというのである。」(p.134) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月13日
「クリエイティブ・ラーニングにおいても、創造活動のなかでこのラーニング・サイクルが回ることで学びが生じていく。創造の経験のなかで学ぶのである。ただし、実際には、このなかの内省的観察(振り返る)と抽象的概念化(考える)を行うことは難し」い(p.135) #クリエイティブ・ラーニング
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年3月13日
まとめ
序章部分で気になるところをまとめただけで、こんな長さになってしまいました。さまざまな観点から「つくること」「創造的であること」「クリエイティブ・ラーニング」へと繋がっていきました。このあとの章では、対談が収録されていて、対談相手の皆さんの専門領域、実践がこの序章と重なるように読んでいけました。
No.3に続きます。
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(為田)