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『訂正する力』ひとり読書会

 東浩紀さんの『訂正する力』を読みました。学校に限らず、社会で仕事をしていたら、自分の誤りを認められず、建設的に次のことを考えられない人に多く会います。自分自身がそうなりたくないということも含めて、自分の誤りを認められることが大切な力だなと思って、この本を手に取りました。気になった部分の読書メモを共有します。

社会を変えるための「訂正する力」

 最初にある「はじめに」のなかで、「訂正する力」とはどういうものなのかが書かれています。社会を変えていく力として「訂正する力」が必要だと書かれています。

もう日本はだめなのでしょうか。ぼくはそうは思いません。ただ、そこで必要になるのは、トップダウンによる派手な改革ではなく、ひとりひとりがそれぞれの現場で現状を少しずつ変えていくような地道な努力だと思います。
そのような地道な努力にもやはり哲学が必要です。小さな変革を後押しするためには、いままでの蓄積を安易に否定するのではなく、むしろ過去を「再解釈」し、現在に生き返らせるような柔軟な思想が必要です。ぼくは本書でその思想について語っていきます。
ものごとをまえに進めるために、現在と過去をつなぎなおす力。それが本書が言う「訂正する力」です。(p.3-4)

 国会中継での質疑をニュースで見ていて、間違いを延々と責め続けるのも違うと思うし、間違えていないと居直り続けるのも違うと思うし、どうすればいいんだろう…と悩みますが、そういうときに「訂正する力」は有効に働くかもしれない、と思わされる例が「はじめに」でたくさん出てきました。

 政治の話だけでなく、キャンセルカルチャーの話なども、全部繋がっているのだな、と思います。

老いるとはなんでしょうか。それは、若いころの過ちを「訂正」し続けるということです。30歳、40歳になったら20歳のころと考えが違うのは当然だし、50歳、60歳になってもまた変わってくる。同じ自分を維持しながら、昔の過ちを少しずつ正していく。それが老いるということです。老いるとは変化することであり、訂正することなのです。

日本には、まさにこの変化=訂正を嫌う文化があります。政治家は謝りません。官僚もまちがいを認めません。いちど決めた計画は変更しません。(略)いまの日本人は、誤りを認めないので謝ることもしないわけです。(p.6)

政治的な議論も成立しません。政治とはそもそも絶対の正義を振りかざす論破のゲームではありません。あるべき政治は、右派と左派、保守派とリベラル派がたがいの立場を尊重し、議論を交わすことでおたがいの意見を少しずつ変えていく対話のプロセスのはずです。しかし、現状ではそんなことはできない。(p.7)

 何かをやってみて失敗したときに、全部やめて最初からやろうとする「リセットする」ことと、失敗を認めないで「ぶれない」ことと、そのどちらかしか選択肢がないように思ってしまっていることが多いような気がしています。
 そうではなくて、その間で失敗を認めて、すてるべきでないところを残して、建設的にやり直しができることが大事だと思っています。そこも、「訂正する力」で対応できそうだと書かれていました。

訂正する力は、「リセットする」ことと「ぶれない」ことのあいだでバランスを取る力でもあります。(p.8)

「訂正する力」でルールを変える

 「第1章 なぜ「訂正する力」は必要か」では、なぜ「訂正する力」が必要なのかということが書かれていました。ヨーロッパの強さは「訂正する力の強さ」だと書かれていました。

ヨーロッパの人々はルールを容赦なく変えてくる。政治でも同じです。
(略)
ただ、ここで大事なのは、そのときに彼らが自分たちの行動や方針が一貫して見えるように一定の理屈を立てていることです。それはある意味でごまかしですが、そういった「ごまかしをすることで持続しつつ訂正していく」というのが、ヨーロッパ的な知性のありかたなのです。
ヨーロッパの強さは、この訂正する力の強さにあります。それはきわめて保守的でありながら同時に改革的な力でもあります。ルールチェンジを頻繁にすることによって、たえず自分たちに有利な状況をつくり出す。それなのに伝統を守っているふりもする。それはヨーロッパのずるさであると同時に賢さであり、したたかさなのです。(p.20-21)

 ヨーロッパはしたたかにルールを変えていくわけですが、日本ではそうはなかなかできなさそうで、日本では「いつの間にか変わる」形(脱構築)しか有効ではないかもしれない、と書かれていました。学校でのDXとかも、この方法を頭に入れてやっていけばいいかもしれないと思いました。

日本では脱構築しか有効ではないと言うべきかもしれません。正面から既存のルールを批判しても力をもたない。ルールを訂正しながらも、その新しさを前面に押し出さず、「いや、むしろこっちこそ本当のルールだったんですよ」と主張し、現在の状況に対応しながら過去との一貫性も守る。そういった両面戦略が不可欠となります。(p.29)

 「第2章 「じつは……だった」のダイナミズム」でも、社会を改良するために「訂正する力」を使う方法が書かれていました。

訂正の発想が必要なのです。ぼくたちにできるのはリセットではなく改良しかない。しかも改良といっても、改良主義という言葉で想像されるような上から目線の合理性の押しつけではなく、「じつは……だった」という過去の再発見とセットになった漸進的な改良しかない。「じつはあなたたちは昔からこうだったんですよ」という言いかたをしながら、少しずつ内容を変えていくやりかたしかない。
逆説的な表現になりますが、前進のためには復古しかない。「じつは……だった」というクッションがないと、改良は社会のなかに根づかない。(p.110-111)

 この、「じつはあなたたちは昔からこうだったんですよ」と言いながら、先生方に授業観を「訂正」していってもらえたら、学校は速く変わっていくかもしれないな、と思いました。

子どもたちに身につけてほしい「訂正する力」

 社会を変えていくためだけでなく、子どもたちに個人として「訂正する力」を身につけてもらうために、学校でできそうなことも書かれていました。
 ディスカッションや話し合いの場で、お互いの言いたいことを言うだけで変わっていかなかったり、どちらかが論破で終わらせてしまったり、というのを見ることもありますが、子どもたちが「訂正する力」を身につけることで、よりよく対話ができるようになるかもしれないと思いました。

訂正できる土壌をつくることはとても大事です。「ひとの意見は変わるものだ。われわれも意見が変わるし、あなたがたも意見が変わる」という認識をみなで共有しなければなりません。これは教育にも関わります。小学校ぐらいから、話しあいの時間をつくり、「たしかにあなたの意見は正しいかも」と気づき自分の意見を変えていく、また他人の変化も認めあうという訓練を積み重ねるべきです。それは「論破」を目的としてディベートとは似て非なるものです。(p.33)

 いろんな意見をもつ人がいる学校でこそ、「訂正する力」を育むことができるのではないかと思いました。

多様性の肯定は軋轢の肯定でもあります。多様なひとたちが声を上げれば、当然軋轢も生まれる。そこからこそ訂正する力も生まれてきます。
みなが声を上げるのはいいですが、それがだれにでも拍手され歓迎されるようになってしまっては、むしろ訂正する力が機能しなくなります。本当に大事なのは、自分と異なった意見をもつ人間を、すぐに理解し包摂しようとするのではなく、理解できないまま「放置」するある種の距離感なのです。(p.41)

 また、オフラインでの対話とオンラインでの対話の違いについても書かれているところがありました。これもまた、授業を設計するときに考えたい観点だと思います。

対話においては、しゃべっているあいだに「あれ、さっき言ったことが伝わっていないな」と思って「いや、さっきのはそういう意味じゃない」とどんどん言葉を重ねていくことができる。それが活き活きとした対話です。
文字だけの空間ではそれができません。少なくとも、とてもやりにくい。
だからSNSは本質的に対話に向きません。訂正する力にも向きません。(p.64)

 どんどん言葉を重ねていき、常に訂正しながらコミュニケーションをとるのは、オンライン(SNSやチャット)などではちょっと難しいと思います(子どもでなくても、大人でも難しい)。こうしたところはオンラインコミュニケーションの特性と、子どもたちに身につけてもらいたいスキルの関係を自分のなかで整理しておきたいと思いました。

 さらに、メディアリテラシーとも関係しそうなところもあります。

人間は弱い生き物です。感情で動かされ、判断をまちがう。エビデンスを積み上げ、理性的に議論すれば「正しい」結論に到達できるというのは幻想にすぎません。人間は信じたいものを信じる。動画とSNSの時代にはその傾向がますます強くなります。ポストトゥルース陰謀論の問題です。
だからこそ訂正する力が必要なのです。人間は弱い。まちがえる。できるのはそのまちがいを正すことだけです。「あのひとはやっぱり外見だけだった、騙されていた」と反省することが大事であって、そこでうまく訂正できないと、どんどんポストトゥルースの深みに嵌っていきます。(p.67-68)

まとめ(と気づき)

 最初は個人として使えるようになったらいいなと思っていた「訂正する力」は、社会を変えていくときにもキーワードとして使えそうだと感じました。学校を先生方と一緒に変えていくときに、「訂正する力」を使いながらやっていけたらいいなと感じました。
 そしてもちろん、個人として子どもたちにも身につけてもらいたい力でもあるので、授業設計のなかで入れられそうなところを探していきたいと思います。

(為田)