教育ICTリサーチ ブログ

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『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』ひとり読書会

 書評家の三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読みました。タイトルになっている「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問いに、「いや、僕はけっこう読んでるなー」と今は答えると思いますけど、若い頃は全然そうじゃなかったな、と思います。大学生の頃まではたくさん本を読んでいたけど、たぶんそこから10年くらいは全然読んでいなかったような気がします。単純に時間がなかったんですよね…。

 社会で多くの人が「読書」をするようになったのは明治時代からだそうです。この本では、読書史と労働史を明治時代からずっと追っていきます。全然知らない時代のことを知れるのもおもしろいけれど、やはり自分が生きてきた時代(1990年代あたりから)が僕にはおもしろかったです。あと、やはり学校で子どもたちを教えていると、「本を読む」とか情報にどう触れるかとか、そういうところはとても気になって考えてしまいました。読書メモを共有します。

第七章 行動と経済の時代への転換点 ――1990年代

 1990年代について書かれている章です。僕にとっての1990年代は高校に入学、大学へ入学。卒業後に学習塾の会社に就職して、いまの会社へ移ったのが1999年ですね。高校3年生で部活を引退してから、入試で使う小論文対策で本を急に読むようになった記憶があります。主に新書でいろいろなテーマを読み漁りました。
 無事に合格した大学時代は時間があったので、哲学系とかも手を出したな。全然読んでもわからないものもかっこつけて読んでいました。今に至るまで読み返す本にも出会えました。

 そんな自分の身の周りとはけっこう違って、この章では「自己啓発書」について書かれていました。いまも書店に行くとたくさんありますね、自己啓発書。この頃からだったんですね。書かれていた自己啓発書の特徴が、すごく腑に落ちる感じがします。

 社会学者の牧野智和は、自己啓発書の特徴を「「ノイズを除去する」姿勢にある」(p.177)と指摘しているそうです。さらに「牧野は、自己啓発書とは社会を遠ざけようとするジャンルであると語る」(p.179)とも書かれています。
 社会を遠ざけるって、どういうこと?というのが続けて書かれていました。

ここで言う「社会」とは、政治参加するような社会情勢という意味もあるだろうが、自分をとりまく労働環境という意味も含まれるだろう。社会は、変えられない。たとえば政治や戦争の悪いニュースは自分の手ではどうにもできず、搾取してこようとする他者はいなくならず、あるいは劣悪な労働環境を変えることもできない。だからこそ社会を「関連のない」「忌まわしい」ものだとして捨て置いて、帰宅後の部屋――つまり自己の私的空間のみを浄化しようとする。それこそが「片づけ本」のロジックなのである。
そしてそれは、自己啓発書というジャンル全体に言えることである。
自己啓発書の特徴は、自己のコントローラブルな行動の変革を促すことにある。つまり他人や社会といったアンコントローラブルなものは捨て置き、自分の行動というコントローラブルなものの変革に注力することによって、自分の人生を変革する。それが自己啓発書のロジックである。そのとき、アンコントローラブルな外部の社会は、ノイズとして除去される。自分にとって、コントローラブルな私的空間や行動こそが、変革の対象となる。
(略)
そこに社会は存在しない。なぜならアンコントローラブルな社会という存在は、個人にとって除去すべきノイズだからだ。
自己啓発書は「ノイズを除去する」姿勢を重視している。(p.180-181)

 「社会はアンコントローラブルだ」→「だからコントローラブルなところを何とかしよう」という考え方、よく教育業界で引用される、「自分たちで社会を変えられると思いますか?」へのYesの回答率がすごい低い、っていうデータと関連ありそう…。学校で何を教えるべきか、どんな体験をすればいいのか、という議論に繋げられそうなことだな、と思いながら読みました。
 ここに続いて書かれているのは以下の言葉です。

〈行動〉を促すことが自己啓発書の特徴だとしたら、自己啓発書が売れる社会とはつまり、ノイズを除去する行動を促す社会なのである。(p.181)

 今も大きな書店に行ったら、たくさんの自己啓発書が並んでいます。現在も、日本は「ノイズを除去する行動を促す社会」だということですよね。これはけっこうショックな言葉でした。

 会社に入って、自分があまりにポンコツで何もできなくて、そんなときに自己啓発書、手に取ってしまっていたな…と思い出します。自分も知らず知らず、ノイズを除去しようとしていたかもしれないし、いまもしているかもしれない、と思いました。

第八章 仕事がアイデンティティになる社会 ――2000年代

 続いて2000年代です。僕はバリバリ仕事をしていた時期です。いまの働き方と違いすぎて、もうあまり思い出せないです。人生の中でいちばんブラックに働いていた時代だと思います。オフィスで徹夜もしたし、土日もなかったし、別に休みがほしいとも思っていなかった時期。
 この頃、社会的には『13歳のハローワーク』がすごく売れて、僕も読んで、授業のカリキュラムにできないだろうかと考えていたのを思い出します。

『13歳のハローワーク』は、「好き」と「将来の仕事」を結びつけるというコンセプトだ。
このような思想は、2000年代におこなわれたゆとり教育にも反映されている。(略)1990年代から徐々に社会へ浸透していた新自由主義的な思想が、教育現場にも流れ込み、「個性を重視せよ」「個々人の発信力を伸ばそう」という思想に基づいた教育がなされるようになった。(p.188)

 これはたしかにそうだったかもしれません。渦中にいるとわからなかったことがたくさんあるなあ、と思いながら読みました。

 この後で、「情報」と「読書」の関係について書かれているところがすごくよかったです。僕も読書はまどろっこしくて、知りたいことに直接触れられるインターネット検索が好きな時期だったなと思いながら読みました。

2000年代、インターネットというテクノロジーによって生まれた「情報」の台頭と入れ替わるようにして、「読書」時間は減少していた。「情報」と「読書」のトレードオフがはじまっていたのだ。しかし「情報」の増量と「読書」の減少に相関があるかどうかは、もちろんこれだけで導き出せるものではない。
だが一方で、それでは情報とは何なのか? 読書で得られる知識と、インターネットで得られる情報に、違いはあるのか?という問いについて考えてみると、どうだろう。
「情報」と「読書」の最も大きな差異は、前章で指摘したような、知識のノイズ性である。
つまり読書して得る知識にはノイズ――偶然性が含まれる。教養と呼ばれる古典的な知識や、小説のようなフィクションには、読者が予想していなかった展開や知識が登場する。文脈や説明のなかで、読者が予期しなかった偶然出会う情報を、私たちは知識と呼ぶ。
しかし情報にはノイズがない。なぜなら情報とは、読者が知りたかったことそものを指すからである。コミュニケーション能力を上げたいからコミュニケーションに役立つライフハックを得る、お金が欲しいから投資のコツを知る――それが情報である。
情報とは、ノイズの除去された知識のことを指す。
だからこそ「情報」を求める人に、「知識」を渡そうとすると「その周辺の文脈はいらない、ノイズである、自分が欲しいのは情報そのものである」と言われるだろう。(p.205-206)

 当時のことを別に反省するほどいろいろ覚えているわけではないけれど、2024年のいまの「コスパ重視」とか「タイパ重視」って、もうこの頃からあったのかな、と思いました。

 「情報」と「読書」の最も大きな差異は、「知識のノイズ性」という話。学校で子どもたちに「どうやって情報に接するのか」を教えるときに考えたいことです。調べ学習にしても、何かを創作するのにしても、ノイズが少ないところでしかやっていないと「情報」しか扱えなくなってしまうのではないかと思います。

第九章 読書は人生の「ノイズ」なのか?――2010年代

 いよいよ2010年代です。ついこないだですね。ここで三宅さんは、「半身で関わる」という言葉を出してきます。これ、すごくいいなと思いました。

2023年(令和5年)1月に放送された『100分deフェミニズム』(NHK・Eテレ)において、社会学者の上野千鶴子は、「全身全霊で働く」男性の働き方と対比して、女性の働き方を「半身で関わる」という言葉で表現した。
身体の半分は家庭にあり、身体の半分は仕事にある。それが女性の働き方だった。
しかし高度経済成長期の男性たちは、全身仕事に浸かることを求めた。そして妻には、全身家庭に浸かることを求めた。それでうまくいっていた時代は良かったかもしれない。だが現代は違う。仕事は、男女ともに、半身で働くものになるべきだ。
半身で働けば、自分の文脈のうち、片方は仕事、片方はほかのものに使える。半身の文脈は仕事であっても、半身の文脈はほかのもの――育児や、介護や、副業や、趣味に使うことができるのだ。
読書とは、「文脈」のなかで紡ぐものだ。たとえば、書店に行くと、そのとき気になっていることによって、目につく本が変わる。仕事に熱中しているときは仕事に役立つ知識を求めるかもしれないし、家庭の問題に悩んでいるときは家庭の問題解決に役立つ本を読みたくなるかもしれない。読みたい本を選ぶことは、自分の気になる「文脈」を取り入れることでもある。(p.232-233)

 何かに全身全霊ではなくて、半身で取り組むということで、新しい文脈に触れることができる、ということ。みんなが全身全霊傾けないと生きていけない社会はちょっと息苦しいなと思いますし、あそびがなさすぎてしんどそうだし、失敗にも寛容になれなさそう。

自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである。
そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。
仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ。(p.234)

 ノイズも取り入れて、新しい自分を広げていくゆとりをもつことって大事な気がします。こういうことこそ、小学校から高校までの間に体験しておいてもらいたいなと思います。
 タイトルの「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」への三宅さんの応えは、「働いていても本が読める社会を作ろう、そのために半身で働く社会を作ろう」というものです。

しかしこの社会の働き方を、全身ではなく、「半身」に変えることができたら、どうだろうか。
半身で「仕事の文脈」を持ち、もう半身は、「別の文脈」を取り入れる余裕ができるはずだ。
そう、私が提案している「半身で働く社会」とは、働いていても本が読める社会なのである。(p.234)

 この姿勢、学校で子どもたちに伝えられないかな、と思いますね。半身でなにかに取り組んだからこそよかった、という体験を子どもたちにしてもらいたい。

だが新しい文脈という名のノイズを受け入れられないとき。
そういうときは、休もう。
と、私は心底思う。
疲れたときは、休もう。そして体とこころがしっくりくるまで、回復させよう。本なんか読まなくてもいい。趣味なんか離れていいのだ。しんどいときに無理に交友関係を広げなくていい、疲れているときに無理に新しいものを食べなくていいのと同じだ。
そして――回復して、新しい文脈を身体に取り入れたくなったとき、また、本を読めばいいのだ。
そんな余裕を持てるような、「半身で働く」ことが当たり前の社会に、なってほしい。
何度も言うが、それこそが「働いていても本が読める」社会だからだ。(p.235-236)

まとめと感想

 新しい文脈を身体に取り入れるためにノイズを進んで取り入れる、そのために読書をする。読書をする(=ノイズを取り入れる)時間をとるために、全身全霊でなく半身で働く。自分自身の読書(というか、カルチャー摂取全般)についても考えさせられます。

 「ノイズを除去する」というところは、学校で子どもたちに「大事なところはどこ?」「どこに書いてあるの?」と言っちゃっていることも多いな、と反省しました。もっとあそびをもって、知識を得る楽しさを子どもたちに伝えてあげたいなと感じました。

▼合わせて読み直したいなと思った本。

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(為田)