教育ICTリサーチ ブログ

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書籍ご紹介:『ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか』

 田野大輔『ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか』を読みました。最初のきっかけは、講談社 現代ビジネスで読んだ「私が大学で「ナチスを体験する」授業を続ける理由」で、田野先生が甲南大学でされている授業を知ったことでした。
 本を読んで、サイトで紹介されていた授業の裏側の意図、詳細な実施の方法などを読むことができました。

 本の最初で、ファシズムについての定義づけがされています。インターネットでのさまざまな炎上騒ぎや誹謗中傷などを見るにつけ、サブタイトルである「なぜ集団は暴走するのか」というテーマは、これからの子どもたちにどう伝えていけばいいのか考えなければならないと思っています。

ファシズムの本質とは何なのか。本書で詳しく説明するように、これを究明する鍵は何よりも、集団行動がもたらす独特の快楽、参加者がそこに見出す「魅力」に求められる。
大勢の人びとが強力な指導者に従って行動するとき、彼らは否応なく集団的熱狂の渦に飲み込まれ、敵や異端者への攻撃に駆り立てられる。ここで重要なのは、その熱狂が思想やイデオロギーにかかわりなく、集団的動物としての人間の本能に直接訴える力をもっていることだ。
全員で一緒の動作や発声をくり返すだけで、人間の感情はおのずと高揚し、集団への帰属感や連帯感、外部への敵意が強まる。この単純だが普遍的な感情の動員のメカニズム、それを通じた共同体統合の仕組みを、本書ではファシズムと呼びたい。(p.6)

 炎上や誹謗中傷の延長線上に、ファシズムにまで転がっていくことを僕は恐れています。ネットメディアの悪い面として、ファシズムに繋がる可能性はあると思っています。だからこそ、教育の問題として、この『ファシズムの教室』について考える価値があると思っています。

ファシズム的と呼びうる運動にはほぼ共通して、複雑化した現代社会のなかで生きる人びとの精神的な飢餓感に訴えるという本質的な特徴がある。それゆえ、そうした運動が人びとを動員しようとするやり方も、きわめて似通ったものとなる。すなわち、強力な指導者のもと集団行動を展開して人びとの抑圧された欲求を解放し、これを外部の敵への攻撃に誘導するという手法である。権威への服従を基盤としながら、敵の排除を通じて共同体を形成しようとすること、そこにファシズムの根本的な仕組みがある。(p.7)

 ネットでのコミュニケーションが普及することによって、こうしたファシズム的と呼びうる運動に絡め取られる恐れは大きくなっていると思っています。絡め取られないためのコミュニケーションのやり方、リテラシーが必要になると思っています。このあたり、宇野常寛さんの『遅いインターネット』を読んでの問題意識と、僕にとっては重なってきます。

blog.ict-in-education.jp

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 実験としての有効性について疑問視されていますが、映画『es [エス]』の監獄実験についても書かれています。

映画『es[エス]』には、暴力がエスカレートする最初のきっかけとして、何人かの看守が騒ぎ出した囚人たちを鎮めようと、消火器を噴射するシーンが出てくる。看守らは囚人たちの暴動を鎮圧した後、彼らの服をすべて脱がして裸にし、手錠をかけて監獄の柵にくくりつけた。
このように屈辱を与えた後で、看守たちが控室に戻ってきたときに発した言葉が重要である。ある看守が「少しやりすぎじゃないか」と言ったのに対し、別の看守が「まずかったら上の連中がやめろと言うはずだ」と答えるのである。
この言葉に、権威に服従する人間の心理が如実にあらわれている。権威に服従している人は、いわば「道具的状態」に陥っている。自分の意思で行動しているのではなく、上の命令車の意思の道具になっているのである。(p.22)

 ここで書かれている、人が「道具的状態」に陥っているという表現は、自分が関わる子どもたちに、「こうなってほしくない」と思うひとつの状態です。


 最初に読んだオンラインでのコンテンツ「私が大学で「ナチスを体験する」授業を続ける理由」で読んだ授業の様子が、より詳細に書かれていました。
gendai.ismedia.jp

一連の実習を通じて、受講生は教師に指示されるまま集団に合わせて行動しているうちに、本来なら良心がとがめるような悪行に加担することになるわけだが、その過程で自分を含む集団の意識がどう変化するかを観察し、ファシズムの危険性がどこにあるかを認識するようになる。それがこの授業のねらいである。
同じ制服を着て指導者に忠誠を誓い、命令に従って敵を攻撃するだけで、人はたやすく解放感や高揚感を味わうことができる。そこではどんなに暴力的な行動に出ようとも、上からの命令なので自分の責任が問われることはない。この「責任からの解放」という単純な仕組みにこそ、ファシズムの危険な感化力があると言ってよい。
そのような感情を体験することで、ファシズムが参加者にとって胸躍る経験でもありうること、それだけに危険な感化力を発揮しうることが理解できるようになるだろう。(p.65-66)

 こうしたファシズムを体感させるという授業の方法がいいことなのか?という問題はありますが、田野先生がそこに非常に注意をして行われてきた様子も書かれています。

もちろん、ナチスを模倣したロールプレイをおこなうことには倫理上の問題があり、充分な配慮が必要である。ドイツでナチス式敬礼が刑事罰の対象になっていることからも、そうした実践が大きな問題をはらんでいることは明らかである(ただしドイツでも、ナチス批判の目的でおこなわれる場合や、芸術・研究・教育などに用いられる場合は罰則の対象外となっており、本授業はこれに該当する)。(p.139-140)

授業の後にはそうした行動が許されないものであることに注意を喚起し、事後的に反省を促す必要があることは言うまでもない。(p.140)

 このファシズムを体験する授業は、現在は行われていません。その決定にいたるまでの過程も書かれています。

2019年4月、そろそろ新年度の「体験学習」の準備に入ろうかという時期になって、私はあらたえて非公式に関係当局に問い合わせをおこなった。それに対する回答は、「人目につくグラウンドではなく、体育館など屋内の見えない場所で実施してほしい」「ツイッターでの告知や、マスコミの取材への対応も控えてほしい」という内容であった。
こうした要請を受けて、私は熟慮の結果、体育館での実施や情報発信への規制は受け入れるものの、今回を最後に「体験学習」の実施をひとまず打ち切ることにした。授業を取り巻く環境が厳しくなり、充分な教育効果が望めなくなったことが最大の理由だが、10年にわたって授業を実施し、一定の成果は得られたという思いもあった。(p.194-195)

 問題は日本だけではなく、アメリカでも「青い目、茶色い目」という実験授業が行われています。これについても、田野先生は言及されています。

1960年代末にアメリカの小学校で人種差別を体験させる有名な実験授業「青い目、茶色い目」をおこなったジェーン・エリオットは、メディアの注目を集めたことで学校当局や地域社会の反発を招き、最終的に教壇を去ることになった。私には職を賭するほどの覚悟はないが、それでもエリオットの無念が多少は理解できるような気がしている。(p.195)

www.huffingtonpost.jp

 こうしたことを教えるのはとても大切なことだと思うけれども、「どういう成果が出るか分からなくて怖い」のは新しい教育実践をするときには必ず出てくることだと思いますが、こうした実践の上に、どんどん時代にあった教育が作られていくのだと思います。田野先生の教えている大学と、初等中等教育ではまた違うとは思いますが、参考になる部分は多いと思います。
 「ファシズムを体験する」授業の記録ということだけではなく、非常に多くのことを考えさせてもらった本でした。

(為田)