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『教育「変革」の時代の羅針盤 「教育DX×個別最適な学び」の光と影』ひとり読書会 No.4 「第3章 コンピテンシー・ベースの改革を「日本型学校教育」の再構築へとつなぐ」

 石井英真 先生の『教育「変革」の時代の羅針盤 「教育DX×個別最適な学び」の光と影』のひとり読書会をしています。今回は、「第3章 コンピテンシー・ベースの改革を「日本型学校教育」の再構築へとつなぐ」の読書メモを公開します。

 第3章、ものすごくたくさん線を引きながら読みました。「僕が長年、モヤモヤしていたことに答えてくれてるんじゃないか?」と思う場所もたくさんありました。「コンピテンシー・ベース」という考え方は好きですし、その方向での改革が日本で成功してほしいなと思っていますが、それでも「そんなにコンピテンシー・ベースで全部は解決しないんじゃないか?」とも思っていたので、そうしたところを中心にメモしていきました。まずはこの章の導入のところに書かれていた文章から。

供給主体の多様化を含む教育「変革」政策は、カリキュラムの内容や履修システムの再編を要請するものです。それが公教育としての学びの質の充実に真に寄与するものとなるか、「日本型学校教育」を真に再構築するものになるかどうかを考える上で、カリキュラムや学びの中身に関わる、近年の資質・能力ベースの改革の展開とその特徴を確認しておきたいと思います。その際、「日本型学校教育」の社会・文化的背景なども明確にしながら、世界的に展開するコンピテンシー・ベースの改革が日本においてどのようなものとして展開しているのかを確認することで、「日本型教育改革論議」の癖や落とし穴も明らかにしたいと思います。(p.58)

 「日本型教育改革論議」の癖や落とし穴を明らかにする、という批判的な検討はとても重要だと思っています。批判的な検討のロジックを知ることで、学校の先生方と実践的な話ができるようになると思います。

コンピテンシー・ベースの教育改革の国際的展開

 「コンピテンシー・ベースの教育改革」は、日本だけで始まったものではなく、国際的に起こっているものです。まずは国際展開を概観していきます。

2000年代以降、OECDはDeSeCo(Definition and Selection of Competencies)プロジェクトを展開し、「キー・コンピテンシー(key competency)」の枠組みを提起しました。(略)
さらに、OECDは、OECD Future of Education and Skills 2030 プロジェクト(Education 2030 プロジェクト)で、新しい枠組みを提示しています(白井 2020)。そこでは個人と集団のウェルビーイングを実現する活動主体である「エージェンシー(agency)」という価値的な人間像を掲げた上で、非認知的能力も含めた包括的な能力が強調されています。(p.59)

 OECDのEducation 2030プロジェクトも、ちゃんとしっかり勉強していないので、こうして解説されるとありがたいです。OECD「学びの羅針盤 OECD Learning Compass 2030」についても書かれていました。

個人のみならず社会のウェルビーイングを目指して学んでいくとされています。自分のためだけでなく、よりよい社会に向けて、社会に働きかけそれを創り変えていく、そのような、必ずしもビジネス的な関心に閉じていない、社会派な活動主体が想定されている点は重要です。(p.60)

コンピテンシー・ベースの改革の危うさへの自覚

 続いて、こうして国際的に展開しているコンピテンシー・ベースの改革の危うさについて書かれていた部分です。

コンピテンシー・ベースという発想は、カリキュラムの内容面において、学問性・文化性と知識内容以上に、実用性・有能性と行為能力(スキル)を重視するものです。(p.62)

  • 良い面:
    各教科の内容や形式を、社会の要請から、すなわち、現代社会をよりよく生きていく上で何を学ぶ必要があるのか(社会的自立へのレディネスや市民的教養)という観点から問い直していく機会とも捉えられます。
  • 危惧する点:
    企業社会の論理に適応する職業訓練やキャリア教育へと教育の営みを矮小化することが危惧されます。

 キー・コンピテンシーが「社会と繋がる」ということの方に引っ張られすぎてはいけないな、と思います。

経済至上主義を是正すべく、経済界の人材育成要求を市民形成という観点で相対化しようとする議論は、OECDのキー・コンピテンシーの策定段階にも見られました。知識経済を勝ち抜く「グローバル人材」を目指すのか、経済成長がもたらす社会問題や環境問題などに自分事として取り組む「地球市民」を目指すのかによって、資質・能力やコンピテンシーの中身が大きく異なってくるわけです。コンピテンシー・ベースのカリキュラムを構想する際には、こうした矛盾する社会像や人間像の間で、どのような方向性を目指すのか、そうした価値的な問いと向き合うことが重要です。(p.62-63)

 ここ、めちゃくちゃ大事だと思いました。コンピテンシーが大事であることを否定するつもりは全然ないけれど、それですべてを語れないと思うし、縛られすぎてもいけない。結局、「盾する社会像や人間像の間で、どのような方向性を目指すのか、そうした価値的な問いと向き合うことが重要」ということにつきるな、と思いました。

 「社会と繋ぐ」というところでは、ICTの活用についても書かれていました。「こんなにデジタル社会になっているのだから、学校でもデジタルを活用した学びを!」と先生方に伝えることが多い僕には、耳が痛い部分でもありました。

大人社会でたとえばICTの活用や異質な他者との対話による創造等が求められるからといって、学校教育のすべての場面すべての段階でそれらを強調するという短絡的な思考に陥らないことも必要です。大人社会の「実力」要求がそのまま学校教育で育むべき「学力」像となるわけではないのです。
安定した関係性の下で、継続的に系統的に認識(文化との内的対話)を深め、自分らしさ(認識枠組みや思想の根っこ)をゆっくりと構築していく、そうした静かな学びの意味(深い思考がもたらす沈黙や間)にも目を向けねばなりません。(p.63)

 プレゼンテーションやグループワークについても言及されています。

発達段階をふまえず、大人社会でボーダレスな思考や流動的な関係性が求められるからといって、それをそのまま学校に持ち込んで、幼稚園、小学校からデジタル機器を無批判に与えたり、グループワークやプレゼンの仕方のうまさにこだわりすぎたりすることで、小さなビジネスマンのような表面的なスキルの形成に終始するなどして、概念形成や自己意識の形成を阻害することにならないよう注意が必要です。(p.63)

 僕は、先生方や子どもたちにビジネススキルみたいなことを伝えすぎてしまっていないだろうか、とも考えさせられます。「何を学んでほしいのか」「どんな授業をしたいのか」ということはやはり大事だと感じます。

いまの時代に役に立つ(逆に言えば、すぐに役立たなくなる)スキルよりも、人間性の基盤となる言葉の力や認識の力や情緒面の発達などにこそ注目し、それを体験的に、ときには静かに手間をかけながら育てていくことをまずは大切にすべきです。諸外国においては、現在の実用性・専門性志向のコンピテンシー・ベースの改革への対抗軸として、知識や文化・教養(調和の取れた全面発達や鳥瞰的視野や知の普遍性)の意味を再評価する動向も見られます。
経済界や市民社会の要求を意識しつつも、そうしたライフスタイルに早くから馴らしていく(個人を社会化する)というよりも、将来出会う社会の荒波の中で消費されつくされないための人間性の核、いわば「人間らしさを守るための鎧」を形成していく(社会をよりよく生きる個人を育てる)。こうして、社会への参加につながる学びと、人間としての個を育てる文化的な学びの両面が統合的に保障されることで、社会に適応し生き抜くだけでなく、その中で自分らしさを守り、生き方の幅を広げ、社会をより善く生きていく力が育まれていくのです。(p.64)

 「将来出会う社会の荒波の中で消費されつくされないための人間性の核」を形成していく、というのはとてもいい表現だと思います。

コンピテンシー・ベースの改革の日本における展開

 日本の学校教育において、教育行政において、コンピテンシー・ベースの改革がどう進んでいるのか、それが学校現場をどのように変化させていっているのか、ということについて書かれていました。

学ぶ内容(結果)よりも学ぶ力や主体性(プロセス)、教師主導よりも学習者主体といった進歩主義教育の語りは、知識を主体によって構成されるものと捉え、学習者の能動性を強調する、構成主義の学習観に基づく心理学の進展によって、科学的根拠を与えられて補強されました。そして、教育の語りにおいて、協働学習、知識構築、概念的知識、思考スキル、メタ認知、自己調整学習、非認知的能力など、心理学や認知・学習科学の言葉が拡大しました。他方で、「資質・能力」という中性的な用語が用いられたこともあり、コンピテンシー概念に内在していた、社会や個人にとっての意味や切実性(レリバンス)の観点から、教科内容を問い直す志向性は弱まりました。さらに、学習評価において「主体的に学習に取り組む態度」の観点で自己調整学習が強調されたり、コロナ禍を契機とした1人1台端末の全国的な整備を背景に「個別最適な学び」の重要性が提起されたりする中で、「資質・能力」ベースの改革は「主体性」重視という論調に回収され、具体的な社会・世界(外界)に向かう方向性よりも、対象性を欠いた抽象的な力や態度(内面)に向かう方向性が強まっています。(p.67)

 最後にある、「資質・能力」ベースの改革は「主体性」重視という論調に回収され、具体的な社会・世界(外界)に向かう方向性よりも、対象性を欠いた抽象的な力や態度(内面)に向かう方向性が強まっています、という部分は強烈に響くなあと思いながら読みました。

 コンピテンシーよりも学校現場で見る機会が多い、STEM教育・STEAM教育についても書かれていました。

米国においてSTEM教育が生まれてきた背景には、1990年代の産業構造の変化と国際競争力の強化という文脈があり、それはコンピテンシー・ベースの改革と通底するものです。
(略)
日本においてSTEM・STEAM教育は、学際的・横断的な学びや普通教育における教育内容刷新運動(「何を知るべきか」の議論の基盤である社会・世界認識の更新)としての側面が弱まり、コンテンツ・フリーで探究モードの学び(内面的態度の育成)として抽象化され、マインドセットや心構えの問題に収斂されていく傾向が見られます。(p.68-69)

 僕は、STEAM教育の一環であるプログラミング教育を授業でするときには、どちらかというとマインドセットや心構えのことを言いがちだな…と思いました。

OECD等の欧米の議論と日本の議論との違いは、STEM・STEAM教育の日本的展開にも見られるように、変化が激しいとされる社会や世界(世の中)そのものを具体的に客観的に認識しつかんだ上で、社会のシステムをどう創りかえていくのか、そのために何を学ぶ必要があるのかという、社会像の具体的な中身や風景をふまえたものであるかどうかという点にあります。(p.69)

欧米においては、カリキュラムの究極的なゴールとして、抽象的な学習者像というより、具体的な市民像(成熟した人間像)が見据えられている点も重要です。(p.70)

 このあたりは連続して、いいこと書いてあるなと思いました。具体的な市民像を見据えて、僕は授業をしているか。具体的な市民像を見据えて、子どもたちにデジタルを使いこなしてほしいと思っているか。

 この後、日本の学校での学習評価に関わることが書かれていました。僕はいまもこのあたりモヤモヤしながら、知識不足で何も考えられていない感じなのですが、ひとつの答えなのかもしれないなと思って読んでいきました。

目に見える学力よりも見えにくい学力のほうが重要で、さらには、思考・判断・表現よりも、その土台にある関心・意欲・態度を重視する。関心・意欲・態度、特に主体性や自己教育力があれば、知識・技能は共通に身に付けなくてもいいという論理です。不透明な社会の中でどんな社会にも対応できるような主体性や力を個人の内面に育てようというわけです。
「新しい学力観」は、現在の観点別評価の原型を作ったものでもあり、学力観における主体性重視を反映して、関心・意欲・態度の観点がトップに位置づけられていました。しかし、内容を伴わない主体性重視は、考える力も育ち切らないし、それで学力や学習意欲が向上したわけでもなく、その後もずっと「学びからの逃走」状態は問題視され、2000年前後の学力低下論争やPISAショックをきっかけに問い直されたわけです。(p.70-71)

 そして改めて、大事なのは「知識をわかって使いこなしていく」力であるということが書かれています。

PISAで問われたのは、知識を習得するだけではなく、知識をわかって使いこなしていく、習得の先に学びを生かす力であり、さらに、「当事者意識」という訳語も想定されるエージェンシー概念は、自己承認や自己肯定感や学び方のような学びの基盤となる、学びに向かう力や意欲に解消されるものではなく、むしろ学んだ先、思考する先に生まれてくる、社会・世界に向かう力や意欲であり、社会を創り変えていく力として捉えることができます。(p.71)

 まったくそのとおりだと思っていますが、では自分がこうした方向性に寄与する授業を作れているか?学校でそうした授業をするお手伝いができているか?と考えさせられます。

「日本型学校教育」の特質

 「日本型学校教育」の特質について、特にネガティブな面がまとめられていました。

資質・能力ベースをうたう2017年版学習指導要領が、共同体的性格や全人教育といった「日本型学校教育」の光の側面や可能性を評価する傾向が強かったのに対して、「令和の日本型学校教育」以降の展開は、同調圧力や学校丸抱え状態の克服といった具合に、むしろその影の部分や問題点に注目する傾向が強いと言えます。(p.74-75)

「タテ社会」「間柄」「安心社会」「心でっかち」といった日本社会の特徴は、共同体として全人教育を志向する「日本の学校」の特徴と符合するものですし、まさに「イエモト・システム」は、職人芸的に「授業道」として展開してきた「授業研究」に通じるものです。(p.81)

 日本社会の特徴は、日本の学校の特徴と符合します。コロナ禍を経て、学校は急速に変わりつつあります。社会も学校もどんどん変わってきている感じはします。

人と人との距離(ソーシャルディスタンス)を主題化したコロナ禍、そして、さまざまな人、モノ、コトのネットワーク化やボーダレス化を進めるDXは、「日本の学校」の共同体的性格を、そして、日本のタテ社会的構造の根本を問い直すラディカルさを持っています。(p.81)

 学校現場で先生たちからよく聞く「主体性」についても書かれていました。校内研究のテーマにもよく出てくる言葉なので、こうした観点を入れておくのは大事だと思いました。

真に自律した「主体」とは、何事にも積極的(「主体性」がある)ということ以上に、その人なりの物事の捉え方や一貫した行動指針があるものです。それは非認知というよりもむしろ知性に関わります。子どもたちも、さらに言えば教師たちも、互いに「あなたは何をしたいのか」「あなたはどう考えるのか」と問いかけ合い、“I”を主語として自らのやりたいことや自分の考えを語り、自分を出すことで変に思われないかと気にし合うのではなく、むしろ異質な他者の意見や存在を承認・尊重し面白がり、理性的に対話していく。そうした「共生」の共同体づくりこそが重要です。(p.82)

真に「日本型学校教育」の再構築へとつなげるための指針

 この章の最後に、「日本型学校教育」の再構築へとつなげるための指針が書かれているのですが、あまり疑問なく使っていた言葉について立ち止まって考えさせられる箇所が多かったです。

日本の教育改革論議の特徴であり、「主体性」重視言説へと収斂しがちな教育の心理主義化の傾向は、日本以外でも見られ、それは「教育の学習化(learnification)」の問題として概念化されています。G.J.J.ビースタが指摘しているように、近年、教育の言語は学習の言語(個人主義的でプロセスに関わる言語)で置き換えられ、教育という営みの関係的な性格、および方向性や価値に関わる問いが消失してしまったかのように見えます。教育の学習化は、エビデンス・ベースの教育や「行為遂行性(performativity)」の文化(手段が目的になり、質の達成目標とその尺度が質それ自体と取り違えられる文化)を下支えし、よい教育への規範的な問いを空洞化させています。すなわち、「いかなる社会につながる、いかなる人間を育てたいのか」といった価値観・規範論を欠いて、目的や内容を問わないままに、「○○な学び」という学び方自体が目的であるかのように捉えられがちです。(p.83)

 「目的や内容を問わないままに、「○○な学び」という学び方自体が目的であるかのように捉えられがち」は、本当に耳が痛いです。

日本では「何を教え学ぶのか」という教育目標・内容論レベルが学習指導要領で規定されていることもあり、教育改革論議は、内容論を欠いたところで、「どう教えるか」や「どう学ぶか」といった方法論的なものに傾斜しがちで、その傾向は近年強まっているように思います。(p.83-84)

 コンピテンシー・ベースへの学びの転換についての危惧も書かれています。

内容ベースからコンピテンシー・ベースへの転換をコンテンツ・フリーのように捉えてしまうことで、たとえば、教科学習で、内容の学び深めとは必ずしも関連しなくても、子どもが自分たちでめあてを立てる課題設定風の形式(プロセス)があれば、課題設定力を育てる授業として価値づけられるといった具合に、何らかの活動をしてそこにそれらしいプロセスを形式として見いだせれば、○○力という言葉で実践を合理化・正当化できる状況も生まれているように思います。(p.84)

 「子どもが自分たちでめあてを立てる課題設定風の形式(プロセス)があれば、課題設定力を育てる授業として価値づけられる」というところ、身に覚えがあります。
 自学自習や個別最適な学びについての危惧も書かれています。

学級の閉鎖性や息苦しさに対して、自学自習を理想化するなど、学びの自由化や主体化が対置されがちですが、そうした自学自習の文化は、物事の原因をシステムや構造ではなく心構えに還元する、日本的精神主義や非合理的努力主義とつながりがちで、「心でっかち」な日本の同調主義とも根っこの部分で関連しています。すなわち、「一斉一律な教育」と、それに代わる新しい選択肢として語られる「一人ひとりに応じる教育」とはコインの表と裏かもしれないのです。それゆえに、ICTも活用しながら一人ひとりに応じた教育を行うことが、教師によるリモート管理や学びの孤立化を進めないよう注意が必要です。(p.87-88)

 学校の役割についても書かれています。そもそも学校の役割とは何なのか、ということを考えないといけません。

人材育成に解消されない、「人間形成」や「人間教育」のしごとを学校が手放さないのであれば、学校や学習の「中断性」や「協働性」を手放すべきではありません。結果を急ぎ、走り続けることを一度中断して、回り道したり、立ち止まって考えたりすること。そして、より自由に自立するために多様なつながりや依存先をつくっていくこと。これらは、子どもが人間的に学び成長する権利を実質化する上での基本要件なのです。(p.89)

 非認知的能力についても書かれています。

「資質」概念による水平的画一化を是正し、徳育の個性化に向かう上で、「非認知的能力」や「社会情動的スキル」を強調する論調には注意が必要です。近年、「非認知的能力」の大切さをさまざまな場面で耳にするようになりました。しかし、非認知的能力の定義、およびそれをどのような構成要素で捉えるかは必ずしも自明ではありません。(p.90)

 このあたり、小塩真司 先生の『非認知能力 概念・測定と教育の可能性』を思い出しながら読みました。

そもそも日本の学校は、協働や自律に関わる非認知的能力の育成について、教科外活動での実践の蓄積があります。すでに十分「心でっかち」な学校の役割に新たに「非認知的能力」を付け加える前に、既存の学校カリキュラム全体のキャパシティを再評価することと、学校の組織や共同体のあり方を、いかなる企業組織や社会集団との接続において考えるのかという点から自覚的に再検討することが重要です。(p.91)

 最後に、社会の変化とそれに合わせた教育政策の変化についてのところをメモしました。

変化が激しく予測不可能な社会と言われたりしますが、変化のベクトルを把握し、ある程度の見通しを持つことはできます。変化の激しい社会だからこそ必要なのは、社会への関心であり、その社会との関係で自分のあり方を考えていく経験なのです。(p.93)

 学校教育の目指す方向としてとても参考になることが書かれていました。

学校外の子どもの生活環境や発達環境全体を、より人間的で真に学びを促すものにしていく努力を進める一方で、学校教育については、あらためて学校の強みを確認していく作業が必要です。人材育成重視のコンピテンシーという発想や、学び方重視の汎用的スキルやアクティブ・ラーニングといった目新しいトレンドの追求は、教育の市場化や経済効率や便利さを追求する流れの中に置かれるとき、人材育成という当初の目的すら達せられないでしょう。日常生活の延長線上に学校があるなら学校はいらないし、いまの社会に適応する実用的な学びのみでは、即戦力やただ生き延びる力にはなっても、伸び代のある真に実践的な力や、変化する社会をしたたかに生き抜きながら、人間らしく自分らしく豊かに生きていく力、社会を創り変えていく可能性にはつながりません。実用や便利さや効率性の外部にある、手間や回り道の意味に注目してこそ、社会や世間に踊らされない、人間としての軸が形成されるのです。(p.94)

まとめ(というか、気づき)

 すごい量の読書メモを作ってしまいました…。誰が読むんだ、こんなの…と思いますが、自分自身にとって後でふりかえって読むこともあるだろうと思って公開します。この第3章を読むだけでも、この本を読む価値があるのではないかなというくらいに刺さる箇所が多かった章でした。

 「コンピテンシー」という言葉、「非認知的能力」という言葉、そのほか、いろいろと意識せずに聴いたり使ったりしている言葉について、もっと敏感でいないといけないなと思いました。学校での授業実践を「何を目的として」変えるのか、というディスカッションにきちんと貢献したいなと思いました。


 No.5に続きます。
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(為田)