教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

『学力喪失 認知科学による回復への道筋』ひとり読書会 No.2 「第7章 学校で育てなければならない力」

 今井むつみ 先生の『学力喪失 認知科学による回復への道筋』を読みました。今回は、「第7章 学校で育てなければならない力」の読書メモを共有します。興味をもっていただけたら、ぜひ原典にあたっていただきたいです。

記号接地ができていない問題

 「第7章 学校で育てなければならない力」は、「第Ⅰ部 算数ができない、読解ができないという現状から」と「第Ⅱ部 学力困難の原因を解明する」に続く「第Ⅲ部 学ぶ力と意欲の回復への道筋」の最初の章です。
 第Ⅰ部と第Ⅱ部までで、算数での子どもの躓きの事例や言語習得の事例をたくさん読んできたが、第7章の最初で今井先生は次のように書いています。

躓きを生み出す複数の要因を一つひとつ個別に潰していっても問題が解決しないこと、もっと根本からするべきことがあることを意味しているのではないだろうか?(p.195)

 根本的な問題として最初に出てくるのは、「記号接地」ができていない、ということです。

子どもたちは分数という概念について「記号接地」ができていない。子どもたちの解答を見た瞬間に思ったことだ。数のことばもまた記号である。数字の意味がわかっていない。つまり「記号接地」ができていないのだ。子どもたちは1/2の意味がわかっていない。分数の意味がわかっていない。そもそも「1」という数のことばの意味もわかっていないのである。(p.195)

 ここ、すごく耳が痛いです。僕の算数・数学がまさにこんな感じだと思っています。僕は中学校までは数学の点数も良かったのですが、高校で一気にわからなくなりました。それは結局、中学校で学んだ数学が記号接地できていなかったんだと思います。そこを、問題パターンの認識と、その解法の記憶で乗り切っちゃったんだと思っています。本質的に、全然意味がわかっていなかった。どうしてそうするのかはわかっていないけど、書かれている通り解法に当てはめたら丸がもらえていた。
 先生は、ちゃんと背景も説明してくれていたかもしれませんが、表面上のテストの丸の数、点数、評点の方が大事だったので、「どうしてそうなるのか」ということ=意味がわかってなかったんです。

 それでもどうにかなってしまう学校(というか受験制度)が本当は良くない、と今では思いますけど、当時はそんなことを思うはずもなかったし、周りにそういうことを言ってくれる人もいなかったし、何よりそれなりに成績が良かったので、「問題もなかった」んですよね。

 高校入学まで「実はわかっていない」というのが発現しなかったのは、僕のタイミングだっただけで、小学校・中学校のところですでにわからなくなっている子たちもたくさんいました。そういう場面で何も疑問をもたずに来てしまったな、と思います。

 いま、学校で授業をお手伝いする立場の仕事をしていて、それなりに授業を見てきて、「じゃあ、どういう授業をすればいいのだろう」ということが僕には浮かびません。それなりの速度で授業を進めていかなければいけない状態で、ちゃんと記号接地できるようになる教え方とは、どういうものになるのだろう。
 教える内容がもっと少なくなって、「問題を解けること」よりも「問題の意味がわかること」に重点を置いた授業ができるようになれば違うでしょうか。

ブートストラッピング

 そんなことを思いながら読み進めていくと、子どもが言語を習得していく道筋で、具体→抽象へと自分の力で学んでいく、という過程が書かれていました。ここで登場するキーワードが「ブートストラッピング」です。

子どもは言語の発達の道筋で、このように、身体で感じてすぐわかる類似性を使って、見てもわからない、抽象的で本質的な類似性に注目して一般化ができるようになる。自分で気づくことができる手がかりを使って具体から抽象へ自分の力で登っていく。これがブートストラッピングである。この変化は一度だけでなく、発達の過程で何度も繰り返して起こるし、実は、ことばの学習だけでなく、すべての学習で起こることである。
学校のすべての教科、すべての単元の学習も例外ではない。すべての知識の学びにとって、子ども自身で点を面に拡張することは、必要不可欠な過程なのである。ここで大事なのは、子どもが自分で抽象化をすることである。しかし、大人の役割がないわけではない。子どもが自らブートストラッピングができるように足場をかけてあげること。それが大人のもっとも重要な役割である。(p.226)

 「自分で気づくことができる手がかりを使って具体から抽象へ自分の力で登っていく」というのを読んで、僕の数学が「解法の丸暗記」(=具体)から「どうしてそう解くのかの理解」(=抽象)へと登れなかった、ということだな、と思いました。先生はいろいろと足場をかけてくれていたのかもしれないけど、僕はその足場を使えなかった、ということなんだな。(先生方、ごめんなさい)

 もちろん、算数とか数学だけの話ではないし、そもそも学校の教科教育という小さい範囲の話でもありません。算数と同じように「これ、意味あるの?」と悪口を言われることが多い歴史でも具体→抽象という思考の流れを大事にしている人は増えている気がします。
 ここ数年、好きでSpotifyで聴いている歴史キュレーションプログラム「COTEN RADIO」を展開している、株式会社COTENさんがまさに同じことを言っていると思います。歴史はただ起こったことを覚えるだけでなくて、歴史上に起こったこと(=具体)を一般化・抽象化して、これからの社会に活かす、ということを目指しています。そして、それを応援している人がすごくたくさんいる。こういう流れを学校の歴史の授業でもできたらいいのに、と思いますね。先生の足場架け。COTENは日本社会に歴史を知る足場架けをしてくれていますね。

 ブートストラッピングのサイクルを繰り返して、どんどん自分で具体→抽象のサイクルを回していけるようになれば、学びがどんどん広がり、深まり、大きな知識の体系ができるのだと思います。今井先生は、「それが教師の役割であり、親の、あるいはすべての大人の役割」と書いています。

様々な分野でブートストラッピングのサイクルを繰り返し、異なる分野の知識が関連づけられていく。それによって、大きな知識の体系ができる。それが必要なときにすぐに使うことができる「生きた知識」を生む。生きた知識が新しい知識を生み、広くて深い知識の体系をつくっていくのである。同時に学び手は学び方を学んでいき、精度の高いアブダクションができるようになる。言い換えれば、将来自走できる学び手に成長していく。このスパイラルをつくれるように子どもを支援し、足場架けをしてあげること。それが教師の役割であり、親の、あるいはすべての大人の役割なのである。(p.226-227)

 さて、こうした役割を、いまの学校は果たせているか。いまの自分は果たせているか。そういうことを考えなければ、と思いながら読みました。

記号接地が「生きた知識」を生む

 章末にあった「第7章のまとめ」のところで、記号接地についてもう一度まとめられていました。

人間の記号接地とは、記号を外界の対象に紐づけすることだけではなく、そこから抽象的で本質的な概念に自分で到達していく過程なのである。その過程を経験することが「生きた知識」を生む。
(略)人類は、様々な現象を説明するもっとも理に適った説明を求めるために仮説を立て、検討し、理論をつくり、実験によって検証を行い、その理論を吟味し、修正してきた。
この過程は私たち一人ひとりが学び、熟達し、達人になっていく過程に重ねることができる。その基礎をつくるために学校教育がある。子どもたちが学校で習得するべき基本的な概念について、この状態までもっていきたい。(p.232)

 具体から抽象に自分で到達していくことの大事さ、それによって人類が「生きた知識」を生み、育ててきたことが書かれています。そうした過程を歩めるようになる基礎をつくるために学校教育がある、というのは大賛成です。

まとめ(というか、気づき)

 第7章は、「記号接地」と「ブートストラッピング」というキーワードについて学べました。学校で育てなければいけない力って、こういうことでしょう?と今井先生に言われているような章でした。じゃあ自分のいまの仕事で何をどうやっていけばいいのか、と課題を突きつけられている感じがします。

 No.3に続きます。
blog.ict-in-education.jp


(為田)