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『学力喪失 認知科学による回復への道筋』ひとり読書会 No.3 「第8章 記号接地を助けるプレイフル・ラーニング」

 今井むつみ 先生の『学力喪失 認知科学による回復への道筋』を読みました。今回は、「第8章 記号接地を助けるプレイフル・ラーニング」の読書メモを共有します。興味をもっていただけたら、ぜひ原典にあたっていただきたいです。

プレイフル・ラーニング

 「第8章 記号接地を助けるプレイフル・ラーニング」では、最初に生きた知識をつくるための学びを可能にする理論として「プレイフル・ラーニング」が登場します。プレイフル・ラーニングは、「遊びを通じて学ぶこと」です。これ、本当に大事だと思います。
 遊びながらだったら、知らないことでもどんどん勉強していこうとしている子どもたちの様子を学校ではたくさん見ます。自分の好きなことならすごく難しい語彙をもっている子もいるし、プログラミングが好きな小学生が負の数とかを軽々使っていたりする場面もあります。ああいうのが「遊びを通じて学ぶこと」なんだと思います。
 ただ、それを大人が「これで遊びながら学んだらいいよ」という感じに用意してレールを引いたらダメなんだろうな、と思いながら読み進めていたら、まさにそれも書かれていました。

大人が子どもの遊びをガイドし、子どもが学ぶことができるように手助けする。これを「大人がガイドする学び」(Guided Play)という。大人が主導権を取って子どもを遊ばせる形にならないように気をつけることがポイントだ。遊びの主役はあくまで子どもでなければならない。大人は状況を設定し、適切に助言をしたりすることで、サポート役に徹することが大事なのだ。(p.239)

 プレイフル・ラーニングの研究者ユニット、カシー・ハーシュ=パセックさんとロバータ・ミシュニック・グリンコフさんのことも紹介されていました。チェックしたいと思います。

cogpsy.sfc.keio.ac.jp

学校の授業とプレイフル・ラーニング

 今井先生は、算数の授業での実践を紹介して、プレイフル・ラーニングによって記号接地を助けることができることを示しています。マインドセットを少し変えないと学校の授業ではちょっと難しいかもしれないな、ということも書かれていました。

教科の単元で習っていないことでも遊びの中で少し先取りをして経験させる。詳しい説明はしない。感覚的に少しでも覚えて記憶できれば、後で単元で学ぶときの接地に役立つかもしれない。
そもそも日本では、子どもに「まだこれは習っていないからこの概念を授業で使ってはいけない」が多すぎる。先生たちが気を使いすぎるのだ。しかし、教科単元で習っていないことでも遊びや生活の中で経験があれば、単元の中で言葉で説明されたときに、抽象的な概念が具体的な経験と結びつけやすくなる。つまり記号接地がしやすくなる。まだ単元では習っていない概念については、特には教えず、説明もせず、しかし遊びや生活の中で必要なら使って経験させる。子どもが質問したら、完全でなくても、子どもがわかる範囲で説明することは別に悪いことではまったくない。ただし子どもが「理解して覚える」ことは期待しない。そういうスタンスこそが、記号接地を助けるのである。(p.250-251)

 「教科の単元で習っていないことでも遊びの中で少し先取りをして経験させる。詳しい説明はしない」っていうのは、MAZDA Incredible Labの松田孝 先生が小学校でのプログラミング教育の実践を紹介するときに「プログラミングやっていて、マイナスの数字が必要になったら、学校の算数では全然習っていないけど、やらせればいい。正負の数の概念も、プログラミングをやるなかで子どもたちは勝手に理解していく」とよく言っていたのを思い出します。
 そうして、自分たちでどんどん学んでいくと、失敗や勘違いもたくさんするけど、それも認知心理学的にとても意味があることだ、と今井先生は書きます。

抽象的な概念はすぐには接地できない。接地しかけても必要なときにすぐに取り出せて問題解決に使える「生きた知識」にまで育てるには、その知識を使うたくさんの練習が必要だ。たくさん間違えることも必要だ。
失敗は学びにとても大事だ。これはきれいごとではない。認知心理学的にとても意味があることなのだ。学習科学で今とてもホットな話題は「プロダクティヴ・フェイラー」という理論だ。日本語に訳すとしたら「創造を生み出す失敗」だろうか。難しい概念でも、子どもに自分の限られた知識を使って考えさせる。つまりアブダクション推論をさせる。自分で考えて、仮説を立てたり予想をしたりする。実験などで実際に試してみて誤りだとわかる。すると、その経験は通常よりも深く記憶に刻まれ、失敗しなかったときよりも高い学習効果が得られる。一言でいえばそれが「創造を生み出す失敗」だ。(p.251)

 プロダクティヴ・フェイラー(productive failure)って、とても良い言葉だと思います。いろいろ調べていたら、そのものズバリなタイトルの本も出てきました。

知識を身体化できるのは学び手のみ

 今井先生は、「生きた知識」を身につけることが大事、ということをよくおっしゃっています。身につけた知識をちゃんと使えるようにならないといけない。その過程ではたくさんの失敗をしながら、記号接地していくことが大事だ、ということなのだと思います。
 僕が入学した高校の数学の授業でつまずいたのは、問題の解法をただ暗記していて、全然「生きた知識」として数学を身につけられていなかったからだと思います。ちゃんと立ち戻って学び直さないとダメだったのでしょうね(僕は、数学を使わずに大学入試に挑む選択をしました…)。

中学の数学はたしかに抽象的で難しい。先ほどのaやb、xやyのように、特定の数から一般化した記号の操作が、できるようになってほしい。しかし、授業の中で、ことばで説明するだけで、つまり演繹推論だけで、ある抽象的な概念をいきなり接地することは、子どもはとても苦手だ(大人だって苦手だ)。記号接地をするためには演繹推論ではなく、アブダクション推論が必要なのだ。とりあえず、自分がしたい文脈の中で使ってみる。最初からうまくいくことは、ほとんどない。なぜうまくいかないのか振り返り、修正する。抽象的で記号接地が困難な概念は、実践―失敗―修正のらせん状のブートストラッピングの過程を経て、徐々に接地し、コツをつかみ、最終的に直観的にすぐに取り出して使えるところまでもっていく。それが「身体化」された、「生きた知識」になるということである。難しい抽象的な概念を「生きた知識」にするにはそれ以外の方法はないのである(p.272)

 では、学校で子どもたちが「生きた知識」を身につけるためには、どんな学校教育であればいいのだろうか、ということも書かれていました。

日本の15歳が「数学的リテラシーがない」というのは、概念を抽象的に説明するだけで式や定理を教え、そこからの演繹だけで生徒に「理解させよう」としているからである。分数、割合、比などの基本概念は、概念を言語で教えられただけで、そこから演繹推論しただけでは、記号接地をできるはずもない。中学・高校で学習する代数、関数などはなおさらだ。だからこそ、抽象的な概念を生活で経験できる具体的な事例に結びつけ、そこから学習者が自分で抽象化をしていく必要がある。数学の授業時間だけではもちろん無理だ。しかし、先ほど述べたように、数学以外の教科、特に社会、音楽、美術、技術・家庭科、体育などで、数学に関係づけられ、記号接地を助ける機会は、創り出すことが可能である。(p.273-274)

 書いてあることは賛成だし、よくわかりますが、これは探究的な活動とか、合科のカリキュラムとか、そういうのでできるものなのだろうか…。どういう活動があればいいのか、どういう環境を作ればいいのか、考えてしまいます。

記号接地は簡単には起こらない。子どもは「わかった」と言っても、またすぐ「わからない」に戻るかもしれない。それでも抽象的で記号接地が困難な概念に対して、「意味」を問い続けることが重要だ。「問題が解けた!」「答えが合っていた!」ではなく、「意味がわかった!」という瞬間、「学びは遊び」が実現するのである。(p.281)

 最後の、「問題が解けた!」「答えが合っていた!」ではなく、「意味がわかった!」という瞬間に「学びは遊び」が実現する、というのはそのとおりだと思いながらも、なかなかできていないかもしれない、と反省しました。

まとめ(というか、気づき)

 記号接地を助けるための方法として、プレイフル・ラーニングがすすめられていた第8章。自分が担当している授業のなかでどんなふうに活かせるかな、と考えながら読みました。プログラミングとか、文章を書いたりのクリエイティブな活動とかと組み合わせていく、というのが自分ができるところとしては近いかな。
 プロダクティヴ・フェイラーをどんどん子どもたちにしてもらえるような活動も入れ込んでいきたいなと思います。どんどん失敗して、どんどん「実践→失敗→修正」のらせん状のブートストラッピングのプロセスを回ってほしいです。
 僕自身も、どんどんプロダクティヴ・フェイラーをしていこうと思います(子どもたちに迷惑をかけない範囲でw)。

 No.4に続きます。
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(為田)