教育ICTリサーチ ブログ

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書籍ご紹介:『私たちはどう学んでいるのか 創発から見る認知の変化』

 鈴木宏昭 先生の『私たちはどう学んでいるのか 創発から見る認知の変化』を読みました。授業をするうえで、子どもたちがいろいろなやり方で学んでいるのを見て、「どう学んでいるのか」は考えたいテーマなのです。

 この本は以下の6章から成っています。どの章もそれぞれに非常に興味深く、勉強になりました。認知的変化は、「学び」のことであり、「できなかったことができるようになる変容」です。学校での学習だけでなく、より広い認知的変化について書かれています。

第1章 能力という虚構
第2章 知識は構築される
第3章 上達する ― 練習による認知的変化
第4章 育つ ― 発達による認知的変化
第5章 ひらめく ― 洞察による認知的変化
第6章 教育をどう考えるか

 冒頭で、この本のキーワードとして「認知的変化」「無意識的なメカニズム」「創発」の3つが挙げられていました。それぞれのキーワードについてまとめてみました。

本書はこうした認知的変化に働く無意識的なメカニズムを創発という観点から検討する。ここでのキーワードは、認知的変化、無意識的なメカニズム、創発、この3つである。(p.9)

  • 認知的変化
    • 学校教育風の固定した、視野の狭い「学習」ではない。
    • 人を大きく変化させる「ひらめき」も含め、人の変化全般を意味する。
  • 無意識的なメカニズム
    • 認知的変化は、自覚できないことがほとんど。意識できないメカニズムが働いている。
  • 創発
    • 何か新しいものを作り出すこと。
    • 創発されたものは、それを作り出すための要素の性質からは説明できない(還元不能性)
    • 創発のプロセス、メカニズムをコントロールしているものはない。
    • 創発に大事な条件は、「そこに多くの要素が存在していること」「要素どうしの相互作用によって揺らぎが生じること」「相互作用の仕方が環境からの影響を受けること」

 キーワードのまとめだけではなかなかわかりにくいですが、1冊を通して、これらの要素について説明されていきます。「第3章 上達する ― 練習による認知的変化」「第4章 育つ ― 発達による認知的変化」「第5章 ひらめく ― 洞察による認知的変化」のそれぞれで、認知的変化(=「学び」のことであり、「できなかったことができるようになる変容」)について知った後で、「第6章 教育をどう考えるか」のなかで、認知的変化がどのように起こるのか、どういう環境が必要なのかが書かれていました。

これまで見てきたように、練習を通した学習、発達、ひらめき等の認知的変化は、

  • 複数のリソースが存在し、
  • それらが競合、協調を重ねながら揺らぎ、
  • 状況、環境と相互作用しながら、

進んでいく。(p.171)

 学びの場に「複数のリソースが存在」するようにするのは、これまでの図書室などの場に加えて、一人1台の情報端末を活用してより多くのリソースに触れることで可能になると思います。「それらが競合・協調を重ねながら揺ら」ぐようにすることは、教室内での子どもたち同士の考えを交流させるような授業設計で実現に近づけると思います。「状況、環境と相互作用」するように、先生は子どもたちと関係を築いていくことが必要だし、プロジェクトでテーマを設定していくなども可能だと思います。

 学校ですべての条件を満たすのはすぐには難しいかもしれないですが、「どう学んでいるのか」を意識して授業を設計することで、少しずつでも変えていくことはできると思います。

 認知的変化の例として、教育哲学者 生田久美子 先生の研究から、「徒弟制度、日本の伝統芸能の技の獲得」について書かれてもいます。学校教育にそのまま徒弟制度的な学びが導入できるわけではありませんが、「学びを支える」概念として、威光模倣(マルセル・モース)や感染動機(宮台真司)の概念が紹介されています。

目標の自己生成は決して簡単なことではない。大学で伝統芸能のそれと同じような模倣を共用し、それに不透明なフィードバックをすれば、学生は単に学びをやめる、あるいは投書するかもしれない。では何が伝統芸能の学習者の困難な学びを支えているのだろうか。
これについて生田はマルセル・モースの威光模倣の概念を導入する。威光とは「個々の模倣者に対して秩序だち、権威のある、証明された行為をなす者」(モース『社会学と人類学Ⅱ』128頁)が放つものである。模倣者=集団の新しいメンバーは、この所作、動作を観察することを通して、彼に対しての威光を感じ、それが動機となって模倣を行う。生田は、これは強制的な模倣ではなく、あくまで学習者が自ら行う価値判断、そして相手を「善いもの」とみなすことが基礎にあると述べている。
同様の指摘は、社会学者の宮台真司も行なっている。彼は学習の動機として、通常よく取り上げられる「競争(他の人に勝ちたい)」や「理解(わかりたい)」に加えて、感染動機というものを挙げている。これは、特定の人物を敬愛し、その人のようになりたい、その人と同じように考えたい、というタイプの動機である。なぜ感染という言葉を使うかと言えば、師匠はその道の発する菌に冒され、半分病気(?)みたいになっている。そして師匠を敬う弟子は自分もそうした菌を浴びたいと思うからだ。宮台は、感染動機に基づく学習は、それを学習すること自体が喜びになるという内発的な動機に基づく学習を生み出すと述べている。(p.208-210)

 宮台先生の「感染」は、学校で目指したい一つの形だと僕は思っています。学校に行って、「あいつ、すげーなー」とか「先生、おもしろいなー」とか、そこから学びの楽しさに目覚める、感染が起こればいいなと思っています。

 もうひとつ、ポランニーが指摘している「学習者の知的協力」についても、頷きながら読みました。

動機についてはもう一つ述べておくべきことがある。それはポランニーが指摘していることなのだが、学習者の知的協力である。教育はいうまでもなく、相互作用の場面である。だから教師側が一方的に努力しても教育は成立しない。それは単に情報伝達に過ぎない。学生が教師からの情報に対して自ら働きかける、そして掘り下げる=身体化する、拡げる=関連づける、それを使いながら考える、そうした構築のための努力なしには知識は生み出されない。またそうした協力によって、教師にも認知的変化が起こる。私にもそうした経験がある。無理だろう、こんなことできないだろうと思っていたことに、学生がチャレンジして、それによって自分の目が何度も見開かされてきた。教育とはそういうものだと思う。教育とは知っていることを整理して伝えることではないのだ。(p.211)

 鈴木先生は大学での授業の様子を書いていますが、小学校でも中学校でも、子どもたちのチャレンジを見て、子どもたちの認知的変化を見て、目が見開かされてこちらの認知的変化が起こることもたくさんあります。こうした考えを知ったうえで、子どもたちを信じて委ねることが大事だと思っています。こうした考えを知ったうえで、子どもたちと一緒に学ぶ場を作っていきたいと思いました。

(為田)