宇田川元一 先生の著書『企業変革のジレンマ 「構造的無能化」はなぜ起きるのか』を読みました。「教育ICTリサーチブログなのに、ビジネス書、しかも経営論?」という感じがするかもしれません(まあ、このブログは教育と関係ない本もけっこう取り上げてるので慣れている人も多いかも)。企業の話にとどまらず、社会全体の話に読み替えられるし、企業組織から学校という組織に読み替えることもできると思ったので、先生方にも参考になるところは多いのではないかと思いながら読書メモをまとめました。
思考の幅と質が制約されていく「構造的無能化」
まず最初に、タイトルにある「構造的無能化」という、ちょっと刺激的なキーワードから見ていきましょう。序章で「構造的無能化」とは何かが書かれています。
本書ではまず、今日の日本企業でよく見られる状況について考察を行う。
そこから浮かび上がってくるのは、組織の断片化が進む中で思考の幅と質が制約され、それぞれの部門や部署で目先の問題解決を繰り返し、徐々に疲弊していく企業の姿である。現在の事業をより効率的に、合理的に実行しようとするために分業化が進み、ルーティンが定まってくることが、結果的に組織内の視点の硬直化をもたらす。
本書では、そうした組織劣化の問題を「構造的無能化」と呼ぶ。構造的無能化とは、組織が考えたり実行したりする能力を喪失し、環境変化への適応力を喪失していくことである。(p.21)
「構造的無能化」とは、「組織が考えたり実行したりする能力を喪失し、環境変化への適応力を喪失していくこと」であり、その背景は「組織の断片化が進む中で思考の幅と質が制約され、それぞれの部門や部署で目先の問題解決を繰り返し、徐々に疲弊していく」こと、と書かれています。
後半の「組織の断片化が進む中で思考の幅と質が制約され」というところが刺さります。企業だと理由は「組織の断片化」ですけど、「専門化」によっても「思考の幅と質が制約」されることはあると思いますし、最近の学校でよく言われている「個別最適」を取り違えても「思考の幅と質が制約」されることはあるのかもしれないなと感じました。
思考の幅と質を制約しんたいための「経営」
「思考の幅と質が制約」されないようにするために、「経営」というキーワードが続けて出てきます。経営は、会社を経営するという意味だけでなく、より広い意味で紹介されます。
数々の問題はあれども、おしなべて日本は豊かな社会になったと言えよう。
しかし、今、多くの働く人々が、企業あるいは社会の中で、新たな価値創造の一端を担っているという実感を持ちにくくなっている。社会をよりよいものに変えていく担い手としての自負を持つことができている人は、一体どれだけいるだろうか。
経営とは、社会において顧客を創造することであり、それを可能にすることである。このように考えたとき、私たちが働く企業は、経営をしていると言えるだろうか。
「経営する」とは、社会を建設し、人々を豊かにし、何よりも人々の社会参加を叶えるものである。この働きが滞ったとき、社会は確実に衰退していくだろう。(p.18-19)
人々の社会参加を叶える「経営」をするために、何をすればいいのか、ということが続けて書かれています。
人々の社会参加を実現する経営は、いかにして可能だろうか。
本書はその1つの鍵を「対話(dialogue)」に求める。
本書で述べる「対話」とは、「他者を通して己を見て、応答すること」である。対話と聞いて多くの人が連想するように、それは単に「皆が一堂に会して話をすること」だけを意味しない。経営における対話とは、他者との関係性の上でこそ成り立つ、1つの思考の運動の形式である。
ドラッカーは「顧客の創造」と述べるとき、「顧客という他者」を媒介にして、企業が果たすべき役割を見出そうとした。そう考えるならば、顧客の創造とは、対話そのものと言ってよいかもしれない。
顧客に対して事業を構築する際に、実行する組織を作り、機能させることもまた対話である。なぜなら、組織とは「異なる階層間」あるいは「同じ階層の異なる部門間」、「同じ部署内の異なる人々」というように、異なるバックグラウンドを持つ他者の集合体であるからだ。(p.20)
「異なるバックグラウンドを持つ他者の集合体」としての学校教育の良さ、というのを出せないといけないな、と読みながら感じました。読んでいないですけど『混ぜる教育』とか、「シーニアス」の考え方とかが頭に浮かびます。
企業変革の取り組みとして、どうやって構造的無能化から抜け出すのかということも書かれていました。3つの問題を乗り越える必要がある、と書かれています。
構造的無能化から抜け出していくための企業変革の取り組みとして、乗り越える必要がある3つの問題(p.115-126):
- 多義性:「わからない」という壁を乗り越える
- ある状況について、複数の解釈が存在する状態が、「多義性」
- 将来の予測も、多様な解釈が可能=多義性が高い状況といえる。
- 「多義性」は「不確実性」とは違う。問題や論点の解釈が複数存在している状況。そのため、どのような問題・論点を立てるかを明確にする必要がある。
- 組織において「多義性が認知される」とは、これまでとは異なる新たな状況解釈が組織に取り込まれることを意味する。
- 組織には認知的な慣性力が働くため、多義性を認知することは難しい。
- 複雑性:「進まない」壁を乗り越える
- 「複雑性」とは、ある事象に対して、複数の現象が絡み合っていることで状況が明確に把握されず、どのような解決策があるのかがわかりにくい状態。
- 社内の部門間でのコンフリクトなども。
- 自発性:「変わらない」壁を乗り越える
- 戦略を構築したり新たな変革上の施策を打ち出したりしても、それが実行部門で積極的に実行されないという問題。
- 推進部門と実行部門とのコンフリクトも。このような場合に、意味の押しつけをせず、実行部門の人々の世界を知ろうと努め、彼らの言語(ナラティヴ)で、自分たちが進めようとしている施策を捉え直す必要がある。
- 「考える私と実行するあなた」という関係から、「ともに課題に取り組む者」という関係性を構築していけるか。
「変わらない」壁を乗り越えるために
第7章 「変わらない」壁を乗り越えるでは、どうして組織が変わらないのかということが詳しく書かれていました。事例は企業のものが多いのですが、これも教育行政や学校組織の話だと読み替えてみると、腑に落ちるところも多くあります(見たことある気がするんですよね、こういう場面…)。
日々の仕事で得られる実感とは相容れない言葉でどんなに危機感をあおられても、「自分には関係のないことだ」「自分にできることなどない」という姿勢を強めるだけで、メンバーの自発性が導かれることはないだろう。これを「危機感が足りない」と繰り返したところで、メンバーとの溝が余計に深まるだけである。
また、こうした「危機感」をあおることで、語り手が言外に語っていることがある。それは、「問題をわかっている私と、わかっていないメンバー」という構図である。
こうした言外のフィードバックが聞き手に伝わることで、自ずと反発心が芽生える。そうなると、さらなる対立の構図が生まれ、メンバーも施策に対する問題点を指摘したり面従腹背が起きたりするという悪循環が生まれやすい。
権力を持つ立場の人間が危機感をあおり、やるべきことを示せば、従うメンバーもいるかもしれない。あるいは、語り手が、「今の組織には問題があるが、私がその解決策を持っているのでついてきてほしい」などと言えば、聞き手は安心するかもしれない。
だが、こうした関係は同時に依存性を生み、当事者が物事を自発的に考えられなくなるリスクもある。なぜなら、「あの人が状況を理解して考えてくれるから、自分たちはかんがえなくてもよい」というリーダーへの依存が生まれるからだ。ここに「正しい私に従うことが、あなたにとって正しいことだ」という支配の構図を持ち込むこと自体、自発性を削いでしまっていることに注意してほしい。
聞き手であるメンバーの実感を伴いながら、いかに取り組むべき問題への参加を促すか。それが、組織の自発性を生み出すために必要な視点である。(p.234-235)
何かを変えようと頑張っている先生方をサポートするために、参考になりそうだと思いましたし、こうした構造を知ったうえでサポートしたいなと思いました。
感想
読み進めていくとどんどん引き込まれていく本で、とても勉強になりました。ビジネス書から教育の場に持ち帰れるものだってたくさんあります。僕は、こういう越境をもっとたくさんしなければいけない、と思いました。
最後に、ドラッカーの言葉もメモしておきたいと思います。
ドラッカーの言葉(『「経済人」の終わり』ドラッカー名著集9):
われわれは大胆でなければならない。しかし大胆さのための大胆さであってはならない。われわれは、分析においては革新的、理念においては理想的、方法においては保守的、行動においては現実的でなければならない。(p.168)
最高すぎます。本当に、こういう気持ちで仕事をしよう、頑張ろう、と思わされます。(ドラッカー、やっぱりすごいですね⋯) 僕は、特に「方法においては保守的、行動においては現実的でなければならない」が刺さるのです。
自分のできることを、引き続き頑張っていこうと思います。
(為田)


