文学研究者であり、元高校教員であり、教科書編纂者でもある五味渕典嗣 先生の著書『「国語の時間」と対話する 教室から考える』を読みました。本を読んでいくと、「新しい国語科」という表現が出てくるのですが、これは2018年3月に告示された高等学校新学習指導要領、2018年7月に公表された学習指導要領『解説』で提起された高校国語科の新しいカリキュラムのことです。
僕は国語の授業で、というか学校でもっと「書く」時間が増えたらいいな、と思っているのですが、そんな無邪気な話でもないよな、と気づくことが多かったです。読書メモを共有したいと思います。
高校の国語の授業で「書くこと」について
新しい科目「文学国語」が背負わされた課題について書かれた部分です。「新しい国語科」のなかで、「書くこと」に重点を置くことの大変さが書かれています。
この科目が「論理国語」と並び立つ関係に置かれたことで、「文学国語」はひどく重たい課題を背負わされてしまった。「文学国語」でも、授業時間数の20~30%を「書くこと」に充てることが求められている。
だが、よく考えてほしい。学校の授業で「独創的な文学的文章を創作する」ことがいかに困難か。大学でたっぷり時間をかけて取り組むならまだしも、高校の50分の授業で、である。しかも、高校の授業として行われる以上、大学のような段階(ABCD)評価というわけにはいかないだろう。その「作品」は評価され、点数が付けられ、成績として記録されていくことになる。(p.47)
これに続けて、国語科での「書くこと」が「個人の内面に触れる可能性」が大きい、と書かれています。
ただでさえ国語科は、他教科に比べ、個人の内面に触れる可能性の大きい教科である。(略)「国語の時間」が嫌いになった理由として、教室で自分なりに考えた意見を否定された、教員の求める答えと合わずにやり過ごされてしまった経験を挙げるひとは少なくない。自分の中から懸命に紡ぎ出したことばが教室で否定され、尊重されなかったと感じられるとき、生徒たちの中には、自分の人間性が傷つけられたと感受する者も出てくるはずだ。(p.47-48)
たしかに、僕も「個人の内面に触れる」ような文章を書けるようになってほしいな、と生徒たちを見て思っていますが、これもなかなか難しいのかもしれません。(自分も、中学校・高校の作文は全然好きじゃなかったしな…)
「ことばを学ぶ」ことについて
次に、国語科のカリキュラムについてです。「新しい国語科」では、学年が上がるごとにだんだんできるようになっていくことが増えていって、ことばの力を身につけられる、というふうに書かれていて、これが「要素還元主義的な志向性のもたらす危うさ」(p.65)だと指摘します。
ことばを学ぶこと、ことばから学ぶこととは、工業製品としての機械の部品を一つずつ組み立てていくような営みだったのか。国語科の教員なら誰もが知る通り、ことばの力/ことばにかかわる力は決して順を追って段階的に身に付くようなものではない。ことばはそのひとの経験や個性、環境や思想信条、時々の心と身体の状態にも深く結びついているものだから、どれか特定の「書くこと」「話すこと」といった抽象化された能力だけを鍛えられるようなものでもない。
人間の身体にかかるスキルを考えてみればよい。クロールの息継ぎも、鉄棒の逆上がりも、補助輪なしでの自転車の乗り方も、試行錯誤と練習を重ねてあるとき「できる」ようになるけれど、どこをどう動かせば「できる」ようになるか、どんな身体技法を身につけたことで「できる」ようになったかは、必ずしも自覚されない。さまざまな「コツ」は、あくまで事後的に意識されたものでしかないし、それが必ずしも習得時の経験を反映しているわけでもない。(p.66)
たしかに、「ことばを学ぶこと」「ことばから学ぶこと」はそうかもしれないな、と思いました。だから、もっと「読む」と「書く」の機会が増えたらいいな、と僕は単純に思ってしまいますが…。そうもいかないのだろうかな…。
「省察性」や「振りかえり」や「メタ認知」について
一部だけ抜き出すと全体から文脈が離れてしまいますが、「新しい国語科」における「省察性」の位置づけという話がとても響きました。「新しい国語科」で盛んに強調される、「振りかえり」と「メタ認知」ですが、これ小学校と中学校でもまったく同じだと思っていて、僕がモヤモヤしていた部分をけっこう言語化してくれています。
何のために学ぶのか。どこに向かう・何のための学習なのか――。第三の論点は、「新しい国語科」における「省察性」の位置づけである。「主体的・対話的で深い学び」の実現を目指すという「新しい国語科」では、盛んに「振りかえり」と「メタ認知」が強調される。しかし、この手の文書に出てくる独特の言いまわしには注意したほうがよい。例えば、次のように問うてみよう。なぜ「自意識」ではなく「振りかえり」なのか。どうして「反省」ではなく「メタ認知」なのか。確かにいずれも、「自分を見る自分」を指示する概念ではある。しかし、「振りかえり」も「メタ認知」も、「なぜ」という根拠に向かう問いの契機を欠いている。自己自身のいま・ここを対象化し、別の可能性、別の枠組みはなかったかと立ち止まって考え直す批判と相対化の契機を欠いている。そこで問われるのは、あくまではじめに立てた「見通し」「目当て」に対して適切に行為できたかという確認であり、そのとき自分が何を・どのように行為したかというチェックとモニタリングでしかない。だから、「新しい国語科」のプログラムでは、教員の立場は揺るがない。この時間に何の意味があるのか、このタスクがどこにつながっているのかを本当の意味で問われることがないからだ。言いかえれば教員は、ただ呪文のように「実社会」ではそうした力が求められる、と口にしていればよいからだ。しかしそれは、「国語の時間」の意義を表象として持ち出された「実社会」の側の論理に譲り渡すことと同義である。(p.68-69)
なかなか切っ先が鋭くて痛いのですが、僕のモヤモヤはけっこうスッキリした感じがします。先生方、いかがでしょうか?
中央大学附属高校での表現指導
五味渕先生が勤務されていた中央大学附属高等学校では、「精読・多読・表現」を実践の基本コンセプトにしていて、通常の授業時間で「精読」をし、3年間で100冊を読む課題図書制度で「多読」をし、「表現」指導では卒論を書いていたそうです。
当時、文系コースは毎年10~12クラス作られていたが、原則として、各クラスを一人の教員が担当する。生徒は自然科学以外の分野から任意のテーマを決め、12月までに4000~8000字を目安としたレポート提出を義務づけられる(校内では、大学に倣って「卒論」と読んでいる)。熱心な生徒の中には、原稿用紙換算で50枚を超える大作を書く者もいる。だが、教員側としては(少なくとも、中附教員時代のわたしは)積極的に内容に立ち入った指導はあまりしなかった。むしろ、引用の作法・注の付け方・参考文献リストの作成といった形式の徹底を求めていた。様々な進路に開かれた段階の生徒たちにとって必要なのは、今後いくらでも身に付けられる専門的な知識の多寡よりも、他者の言葉に耳を傾け、他者と共に考える知的な誠実さと、そのための方法を習慣化することだと考えるからである。(p.93-94)
これはこれで、すごくおもしろそうだと思いました。特に「多読」を行う課題図書制度は生徒たちの「精読」と「表現」にどう影響を与えるのか興味があります。現在の中央大学附属高等学校でも伝統としてやっているようで、サイトにも書かれていました。中央大学附属高等学校での実践、参観させていただきたいです。
気づきと感想
「新しい国語科」、いまどうやっているのか、これからどうなっているのか、を考える読書となりました。
僕は高校の国語の授業を参観する機会はあまりないので、高校の国語の授業で「読む」ことや「書く」ことがどれくらいされているのかのイメージが圧倒的に弱いなと感じました。1回の授業で終わるくらいの文量ではなくて、継続的に時間をかけて書いていく営みをやっているところを見たいな、と思いました。
(為田)