教育ICTリサーチ ブログ

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書籍ご紹介:『差し出し方の教室』

 ブックディレクターの幅允孝さんの著書『差し出し方の教室』を読みました。幅さんのことは、NHKで放送されていた「理想的本箱 君だけのブックガイド」のなかで選書をされていたのを見ていたのですが、今回この本を読んで、公共図書館だけでなく、病院図書館、企業図書館、動物園や美術館、空港など、本当にいろいろなところにライブラリーや書店を作ってきているということを知りました。

 タイトルにもある「差し出し方」という言葉がとても素敵だなと思ったのと、学校でも先生方は「差し出し方」をたくさん考えているのではないかな、と思って、選書というよりもっと拡大解釈しながら読みました。自分用の読書メモを共有したいと思います。

 まずは「プロローグ」から。ブックディレクターの仕事について書かれているところですが、本の話だけでないな、と思いながら読みました。

そんな僕が、近頃気づいたことがあります。それは、

何を選ぶのかも重要ですが、
選んだ「それ」をどう差し出すのか?が、
より大切な時代になってきている。
また、同じ「もの」や「こと」でも
差し出し方によって
相手への伝わり方が異なる
ということです。(p.v-vi)

 本をどう届けるかということについても続けて書いてあります。

誤解のないように伝えておきますが、昨今増えてきた洒落た本の空間をつくりましょうという話ではありません。1冊の本に興味を持ち、手に取り、読み始めてもらうのに、今まで考えもしなかった細やかなことまで熟慮しないと本は届かなくなってしまっているというのが正直な気持ちです。もっと言うなら、僕が本を届けるときに最良だと思える状況は、「読め、読め」と圧力や切迫を感じさせて読んでもらうのではなく、「気がついたら読んでいた」という状況をつくることです。
そういった無意識下にある何かに訴える仕掛けを含む、届きにくい「もの」や「こと」の伝達(と周辺環境の整備)について考えることを、この本では「差し出し方」の探究と定義してみました。そして、本書の意図はその「差し出し方」について、ブックディレクターとして実践してきたことを開示し記録することと、世の中に数多存在する「差し出し手」から学び、自身のそれを深めようとする試みにあります。(p.vii-viii)

 「本」を「知識・技能」、「読め」を「学べ」に置き換えたら、これって学校の話だな、と感じました。学校の先生方も「差し出し手」だな、と。

 幅さんは、続けていろいろな仕事をしている人たちが「差し出し手」だと書いています。

そう、本の業界のみならず、そうした「差し出し方」について悩み考え、更新し続けているプロフェッショナルが世の中には沢山いました。誰かがつくった音楽をダンスフロアの空気感や聴衆の反応に応じて選曲するDJも、茶会の亭主も、様々な作り手のワインを飲み手の気分に応じてサーヴするソムリエも、アート作品の構成と配置を考え、文脈によって提案するキュレーターも、旬の野菜を人通りの多い正面平台に置く商店街の八百屋さんも、同じ「差し出し手」の仲間だと思っています。(p.viii-ix)

 この本のなかでは、東京国立博物館の展示デザイナー 木下史青さん、上野動物園の元園長 土居利光さん、デジタルとリアルの世界で表現活動をしているアブストラクトエンジンの齋藤精一さん、紹介制バーのワインソムリエ 永島農さん、城崎温泉で幅さんと一緒に仕事をした大将伸介さん・片岡大介さん、通院型のクリニックを営む亀谷真智子さん、静岡県沼津市にある丘の上保育園の理事長 河野義文さん・園長 大川敦子さんとの対話を読むことができます。いろいろな「差し出し方」の工夫を知ることができました。

◆ ◆ ◆

 学校の図書室の在り方にも関わりそうなところもありました。僕は、本を読むことは子どもたちにとって大きく世界を広げてくれることなんじゃないかと思っています。学校の図書室で、いろいろな本に接してほしいな、と思います。

一冊の本を読み切ることは当然重要です。一方で、直感に導かれるまま、興味本位に手にとって、まずは1ページ目を開いてみる機会もこの場所には必要な気がしました。子どもたち自身も自分が何が好きで、何が嫌いなのか、まだ気がついていないような段階ですから、「図書室=本を読む場所」というよりは、いろいろな刺激のある空間として使ってもらえたらすごく嬉しいです。
個人的に感じていることですが、読書は好きになるものというよりも、慣れと技術による部分が大きいのではないかと思います。ある程度、習慣化すればテキストを読んで、字面を通じて頭のなかにイメージが広がるおもしろさを味わえる。ひょっとしたら、テレビや映画よりも、よっぽど視覚的な喜びがあるメディアかもしれません。(p.287)

 「教育の現場で教えられることがあるとしたら」ということも書かれていました。このあたり、探究や調べ学習、インターネット検索にも繋がりそうなことが書かれています。

僕は本の読み方の自由を支持しています。人はあるときは集中して、あるときはぼんやりしながら、またあるときは眠い目をこすりながら、教室で、電車で、ベッドで、お気に入りのソファで、公園で本を読むのでしょう。その色とりどりの読書時間に対して、誰かが何かを指摘しジャッジするなんて、ずいぶん野暮なことのように思えます。
それよりも、教育の現場で教えられることがあるとしたら、それは「どんな目的のときにどういうメディア(本)を手に取るべきか」という使い分けの方法なのではないでしょうか?
何かを調べたいときにどの範囲までをインターネットで調べ、一方そこには浮遊していない情報をどう紙の本から得るのか?よく推敲がなされ、情報の精度も強度も高い本から、人は何を得ることができるのか?ストレスオフの休む読書もあれば、文体の精巧さや物語世界を堪能する味わう読書もあるはずです。それら、本の読み方の多用さと使い分けを小さな子どもの頃から意識できれば、情報に溺れす自分という主体を大切にし続けることができると思います。(p.307-308)

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 幅さんのことを調べていたら、とても素敵なインタビュー記事もあったので、こちらも合わせて紹介したいです。『差し出し方の教室』のなかで出てきた、城崎温泉でのお仕事も紹介されています。このライブラリーを見るために、城崎温泉へ行きたいです…。

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(為田)