最近、学校での探究に関わることが多いのですが、「なかなか全員が探究したい!と思うようなトピックに出会えるわけではないなあ…」と思うこともあります。もちろん、なるべく多くの児童生徒が「これを探究したい!」ということに出会えるといいなと思うのですが、それが行き過ぎて、探究したいなと思うことを見つけられない児童生徒が息苦しくなってしまうのは嫌だな、とも思います。
僕が小学校・中学校・高校に通っていたころには、いまのような探究活動は学校にはありませんでしたが、もしあったら、たぶん僕は「何を探究したらいいかわかんないっす…」っていう子だったと思うんですよね。
そんなことを思っていたら、桜林直子さんが「この世には、やりたいことがある人たち=夢組とやりたいことがない人たち=叶え組がいる」と言っていたのを思い出して、著書『世界は夢組と叶え組でできている』を読んでみました。
桜林さんは、「やりたいことがある人」「やりたいことがない人」、「夢組」「叶え組」を説明してくれているのですが、僕にとってすごく救いになる言葉でした。
「やりたいことがない人」も、やりがいは欲しくて、やることに意味が欲しい。あなたがいたからたすかる、あなたがいないと困る、いてくれてよかったと言われたい。
なんとなく「やりたいことがある人」や、夢に向かってすすむことが良しとされる風潮があるけれど、やりたいことがないからといって嘆くことはない。それに、「やりたいことがある/ない」の傾向は、自分の意思で突然変わったりはしないのではないか。
夢中になる能力があるやりたいことがある人を「夢組」だとしたら、やりたいことがない人は「叶え組」だ。
このふたつは組み合わせてチームになるといい。仕事でも夫婦でもなんでも、自分にない能力をもっている相手を大事にできると、お互いに力になれる。自分が「夢組」なのか「叶え組」なのかがわかっていれば、無理して自分とはちがう何者かになろうとしなくてすむ。(p.14-15)
僕は、自分のことを「やりたいことがあってバリバリ努力して成果を出していく側の人間じゃないなあ…」と思っていて、それをちょっと残念だなと思っていたんですよね…。(周りに優秀な、「夢組」の人たちが多すぎて、比べちゃうんですよ!w)
自分を「叶え組だ」と言う桜林さんは、続けて書いています。
わたしは「叶え組」なので、やりたいことがある人のたすけになれる。気持ちはつよいけどやり方がわからない人に、手段や優先順位を一緒に考えたり見せてあげることができる。それがわかってから、自分のその能力は単なるおせっかいではなく、「叶え組」のつよみだと堂々と言えるようになった。「やりたいことがない」わたしがいると、きっといいことがあるよと。(p.15)
学校での探究テーマを見つけられる児童生徒は、「夢組」の側なのかな、と思っています。でも、「夢組」でなくても、「叶え組」として探究に関わることができる、というのがあってもいいかな、と思っています。
例えば、探究したいテーマがある児童生徒がリーダーになってプロジェクトチームを作って、そのテーマを実現したいと思う人たちが「叶え組」としてチームに参加してくる、というような探究の仕方もあってもいいのかなと思います。(評価が大変だから難しいかな…)
自分ひとりでは未来を見ることができなくても、誰かに頼りにされることで、自分の代わりにその人が自分の未来に期待をしてくれる。そんなかたちで、未来を見ることができる。
誰か(未来を見てすすむタイプの人)の見ている未来を一緒に見ることで、はじめは他人の未来だったものが、すすみ始めると自分の未来になっていく。これは、わたしが「やりたいことがある夢組と、やりたいことがない叶え組は組んでチームになるといい」と言う理由そのものだ。(p.91)
「夢組と叶え組は組んでチームになるといい」というのは、すごくいいなと思っています。学校で行われる探究の時間を少し変えられる考え方ではないかなと思います。
(為田)
