医学書院で〈ケアをひらく〉シリーズを創刊した編集者、白石正明さんの『ケアと編集』を読みました。最近、「ケア」という言葉をすごくよく聞くようになったし、〈ケアをひらく〉シリーズも気になっていたし、それが「編集」とどういう関係があるのだろう、と思って読みました。結果として、「ケア」と「編集」の視点で学校を見ることができたように思います。好きなところを読書メモとして共有します。
「ケア」の視点で学んだ「変える」とか「良くする」ということについてのヒント
北海道浦河町にある精神障害等をかかえた当事者の生活拠点「浦河べてるの家」で、診察室では一言もしゃべらない患者さんが、イキイキと幻覚妄想について話している姿を見た医師について書かれていた部分は、「ケア」ということのひとつの面を考えさせてくれます。
人が変わるのは面と向かって説教されたときじゃなくて、人が楽しそうにしているところを外から見たときなんだなと思う。
正面じゃなくて側面、嫌なことじゃなくて楽なこと。これはべてるの家全体に流れている基本トーンのような気がする。(p.18)
学校で子どもたちに何かを伝えるときに、僕はこういうトーンを作れているだろうか。学校で「私はデジタルが苦手です」と前向きになれない先生方に、ICTの研修をするときにこういうトーンを作れているだろうか。自分の仕事に引き付けて考えたいと思います。「楽しそうにしているところを外から見たとき」に、人が変わる。そういう場面を作りたいな、と思いました。
浦河べてるの家をつくったソーシャルワーカーの向谷地生良さんは、当事者のことを「否定も肯定もしない」。向谷地さんのスタンスについては、こんなふうに書かれている。
「いいも悪いもなく、そんな貴重な経験をして、自分の身体で実験をしながらオリジナル技術を開発しているあなたのことについて教えてほしい」というのが彼のいつものスタンスである。(p.33)
僕は「学校が変わっていくのを手伝う」仕事をしています。でもそのときに、「ここができていないから、変わらなくてはいけない」と言ってしまったり、言わなくても言外にプッシュしていたりすることもあるような気がしてきました。僕には「ケア」の視点が全然足りていないかもしれないと思えてきました。
では向谷地さんがやっていることは、そうした「あるがまま」を承認することだけかといえば、そんなことはない。もっとダイナミックで積極的な活動がある。その人自身を変えないこととセットで、その人の背景を積極的に変える。〈図(=形)〉と〈地(=背景)〉の比喩でいえば、〈図〉は変えないけれど〈地〉を変える。(p.33)
あるがままを承認するということだけでなく、その人がいる環境を変える、という観点はとてもいいと思いました。
さっきも書いたけど、つい思ってしまう「ここができていないから、変わらなくてはいけない」というのを一度留保することも必要なのかな、と思います。「変える」ことがいけないわけでは全然ないけれど、必ず「変える」がいいわけでもない。
「病気の場合」で書かれている部分をメモしました。
特に精神にかかわる病気の場合、ベッドに寝ていれば病巣は摘出されて手術は終わり、あとは回復を待つばかりといった局面は少ない。というよりも、「それは本当に取り出すべき病巣なのか?」という問いが渦巻いて終わらないところに精神科関連のむずかしさがあると思う。
この「取り出すべき病巣なのか?」という問いには二つの意味がある。
一つは「病巣」について。それは身体科でイメージされるような、確固とした形のあるものなのか、そこだけを切り取って取り出せるようなものなのか?
もう一つは「取り出すべきなのか」について。それは環境とのセットによってたまたまあなたを苦しめただけであって、本来それはあなたの長所にもなりうるようなものなのではないか、という問いにつながってくる。
つまりこういうことだ。「その“病巣”こそがあなたを成り立たせているのではないか?」と。すると結論はこうなる。「あなたと環境の噛み合わせを変えればいい」。(p.34)
ここから「ケア」から、白石さんの仕事である「編集」へと話が展開していきます。
治療という名で「改変」するのが医学である。一方、モノ自体には手を付けずに周囲との関係を改変するのが、向谷地さんのやっているソーシャルワークだ。
この流れでいうと、編集にも「医学的編集」と「ソーシャルワーク的編集」があるような気がする。医学的編集は想像しやすいだろう。著者の書いてきた原稿をどんどん治して(直して)いく。”てにをは”の微調整や、漢字とひらがなの使い分けといったレベルから、著者を降臨させて乗り移ったようにキーボードをばんばん叩いて書き直しまくるレベルまでさまざまある。降臨系は「仕事をしている!」感があって、正直言ってわたしは大好きだ。
でもそれは、「こんな文章では読者に理解されない」という建て前のもとに、自分で理解できる範囲に著者の思想を縮減しているに過ぎないのではないか。なぜそう思うかといえば、今まで自分の担当してきた本で、バリバリと苦労して直した本が売れたためしがないからだ。もちろん直さなければいけないような文章だったから売れなかったのだと言い張ることはできるが、「未知」というノイズを削り取ってしまった結果、「既知」のことしか書かれていないから、直した本人としてはすっきりわかりやすいけれど、読者にはなんのメリットもなかったのではないかと思えてくるのである。(p.37-38)
ここの部分、すごく好きです。そして、ここを「学校の先生」の仕事として置き換えながら僕は読みました。
「自分で理解できる範囲に著者の思想を縮減しているに過ぎないのではないか」というところ、こどもたちの可能性を縮減してしまう可能性の怖さを感じながら読みました。
「自立とは依存先を増やすこと」のエピソード
読んでいるうちに、熊谷晋一郎さんの「自立とは依存先を増やすこと」に付いてのエピソードが出てきました。この言葉、ある先生のプレゼンテーションのなかで紹介されていて、「大事な観点だな」と思っていたのですが、詳しくエピソードとして紹介されていました。
弱いロボットはその弱さゆえに、自己完結できずに他者に開かれている。が、まさにそれゆえに多くのことを為すことができる。
これで思い出すのが、『リハビリの夜』の熊谷晋一郎さんが言った「多くの人や物に依存できることが自立の条件である」という言葉だ。依存しないことが自立、という一般通念とは真逆だ。なぜ熊谷さんはそんなふしぎな言葉を思いついたのだろうか。
電動車いすに乗っている熊谷さんは、東日本大震災のときに東大の研究室にいた。揺れが来てすぐに避難しようとしたが、エレベーターが動かず研究室にとどまらざるをえなかった。歩ける人は階段で地面に下りることができたが、熊谷さんはエレベーターなしには避難できない。このときエレベーターだけに依存している自分と、階段でも下りられるし、いざとなれば避難ハシゴだって使えるという健常者とを比較して、「依存先が一つしかない」ことのデメリットを身をもって知った。
ここから熊谷さんは、「自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない」と言う。
(略)
あなたはたしかに自立している。しかしそれは、自分では気づかないかもしれないけれど、多くのものに依存できる環境があってはじめて成就できることなのだと。(p.59-61)
「あとがき」を読んで、まとめ
最後の「あとがき」で白石さんはあらためて、ケアとは何かを書いています。
今、ケアとは何か、と聞かれたらこう答えるだろう。
「それ自身には改変を加えず、その人の持って生まれた〈傾き〉のままで生きられるように、背景(言葉、人間関係、環境)を変えること」と。
編集もおそらく似たような行為なのだろう。文章に改変を加えるより先に、その人や文章の〈傾き〉が輝きに変わるような背景(文脈、構成)をつくっていく作業が編集の本態ではないか。そうしたやり方を、わたしはケアする人たちから学んできた。そして、それ以外の編集のやり方をわたしは知らない。(p.240)
最後の「その人や文章の〈傾き〉が輝きに変わるような背景(文脈、構成)をつくっていく作業が編集の本態ではないか」という部分を読んでいて、ここをまるっと「教育」という文脈で書き換えてみたいと思いました。「その子の〈傾き〉が輝きに変わるような背景(文脈、構成)をつくっていく作業が教育の本態ではないか」。すっきり収まっている感じがします。こんな観点で僕は仕事をできているか、もっと考えないといけない、と反省しながら本を読み終えました。
(為田)