渡邉康太郎さんの『生きるための表現手引き』を読みました。僕は「表現」ができる人はすごいな、とずっと思って生きています。この本の「まえがき」には、「表現したいと感じている人は、表現に意欲や憧れを抱いている一方で、上手ではないし才能も自信もないし、ほかにうまい人がいるから、と遠慮して行動に移せない」という人のことが書かれていますが、僕はまさにこれだな、と思っています。
でも、学校教育を現場でサポートすることを仕事していて、子どもたちにはめいっぱい自分らしい表現をしてほしいし、できればその自分らしい表現をずーっと楽しんで続けてほしいな、と思っているのです。そんな僕にとって、タイトルの「生きるための表現手引き」がとても魅力的でした。読書メモを共有します。
この本の章立ては、「手放す」→「つくる」→「続ける」となっていました。たしかに、この順番が大事かも、と思いました。
手放す
誰の役にも立たなくても、他者と比べて上手じゃなくても、それは表現をしない理由にはならない、ということが最初に書かれています。「自分なんか…」という足かせを手放しましょう、というのが最初に書かれていました。
誰かの役に立たないからといって、それは表現をしない理由にはならない、やめる理由にはならない、ということです。いや、役に立たないからこそ、自らの心を解放し、自分なりに表現そのものを追求し、つかの間の自由を得ることができる。ひいては誰かの心を動かすことになるかもしれない(もちろん動かさなくてもいい)。だから、わたしもあなたも、表現に携わっていい、手を動かしていい、ということです。(p.45-46)
幼い子どもの頃は、僕も手を動かして何かを作ったり絵を描いたりするのが好きだったのかなあ…と思います。
そもそもつくることは、あくまで個人的なもので、一人称の体験であるという特性が、唯一といっていいほど大事なものです。いままで自身をつくり手と思えていなかった人が、見えない足かせを自覚し、それを解く術に触れる。またはそれと付き合っていく術を知る。「個人的な一人称の体験」とは、ただただ自分がやってみるということです。(p.55)
表現は個人的なもの、自分だけのもの、ということを、子どもたちに教えてあげたいな、と思います。
つくる
「つくる」のところは、模倣することから始まる、と書かれているのですが、ここで「創造」と「模倣」について書かれていたのがよかったと思いました。
わたしたちは無意識的に、模倣は創造よりも程度が低いものだととらえてしまっていますが、本来ふたつは密接に関わり合っており、どちらが欠けても成立しないものです。模倣を軽視するからそれを隠したり偽ろうとしたりしてしまう。模倣を創造だと偽ると、つまり典拠を示したりせずに自らの創作だと偽るなどすると、それは盗作となる。
模倣をこそ大事にしたい。模倣の価値をあらためて見つめ直し、その重要性に向き合うことは、ひいては盗作をなくすことにもつながります。(p.72)
「模倣を軽視するからそれを隠したり偽ろうとしたりしてしまう」というのは、考えたことがなかったです。
一緒に「つくる」仲間がいることの大事さについて書かれていたところもすごくよかったです。
あたらしいコンセプトをつくり出すうえで重要なのはツールやプロセスではなく、人である――。ストックホルム商科大学でアート&イノベーションの分野における教授ロベルト・ベルガンティはこのように述べています。最初は一人から始め、次に信頼できる他者、そして少人数のグループへと、輪を少しずつ広げていきます。
ボクシングにおけるスパーリングパートナー、つまり試合に近い形で技術を磨くトレーニングの相手を想像すると良い。スパーリングパートナーは、あなたを信頼して、旅路を共にする人だ。そして「あなたと戦う」人でもある。でも戦うのは、あなたを倒すためではなく、あくまであなたを強くするためなのだ。重要なことは、「アイデアを探す」のではない。「人を探す」べきだ。
これはある講演でのベルガンティの発言です。イノベーション創出のためのベルガンティなりのプロセスを語るものであり、もとは創作や表現活動のための考え方ではないことは留意すべき点ですが、あらたなコンセプトをもとにものづくりの品質を上げていくという点では参考になります。
ベルガンティはこのように説きます。まず自らの仮説から始め、それをよき理解者であるパートナーとスパーリングするように磨く。このような相互作用によって、曖昧だったビジョンがより明確になります。次に「ラディカルサークル」と呼ぶ少人数のグループとの対話によって、批判的な意見を衝突させながら、よりよい考えへと融合させていこう、というものです。(p.213-214)
学校の教室で、「隣の人と話し合ってみて」「近くの人と話し合ってみて」「グループで話し合ってみて」という場面はたくさん見かけますが、あれをスパーリングパートナーのような関係性にする、というのは学校でないとできないことかもしれないな、と思います。
考慮すべきは、スパーリングパートナーやラディカルサークルは、あくまで信頼できる仲間とだからこそ機能するという点です。心理的安全性が担保されているからこそ、批判的な意見を交わしても、不用意に傷つくことなく、建設的な展開を望むことができる。(p.215)
心理的安全性が大事だし急にできることではないから、長い月日をかけてやらないとできないことだな、と思います。こういう関係性を教室で作っていくのって、時間がかかるけど大事なことだ、と思います。
続ける
最後に「続ける」です。「成長が唯一の正しいナラティブ(物語)であるかのように押し付け」てはいけない、ということが書かれています。これ、自分自身も子どもたちを前に押し付けているかもしれないな、と思いました。
表現を始め、続けるにあたって、一人ひとりの表現は、つたなくていい――いや、つたないからこそいい――わたしはそのように考えています。
わたしたちは社会生活のなかで、日々成長を求められます。そもそも子供は大人になり、その後も成熟していきます。仕事をしていれば、組織で月や年度の目標を与えられたり自ら設定したりすることもありますし、研修によってあたらしい能力を身につけることが期待されるものです。成長そのものはある種喜ばしいものであり、それ自体は否定されるべきものではありあせん。でも、人間や組織は生き物であり、いろいろな不慮の事態にも左右されます。必ずしも今年が昨年よりよいとは限りません。成長が唯一の正しいナラティブ(物語)であるかのように押し付けられてしまうと、窮屈に感じてしまうものです。(p.230)
学校は、できなかったことをできるようにしてあげる場でもあると思うのですが、あまりにそっちに正しさが寄りすぎていて、成長を押し付けてもいけないなと感じます。
成長ではなく変化に目を向け、できないことも含めてたのしむこと。つたなさを受け容れながら、つたないからこそ、そのプロセスを記録し、いま・ここをたのしむこと。するときっと続けることができ、そのなかに喜びを見出すことができるはずです。
でも、ふとした瞬間に一歩引いてみると、やはり少し不安になり、自問自答したくなることがあります。世の中はすでに多くの表現で溢れている。あえて自ら手を動かさなくても、もっと経験や実力が豊富な人がすでに取り組んでいるし、AIが時間をかけずに生成してくれるのに、そもそもなぜこんなことをやっているのだろう、と。要領がよい人であれば、「わざわざ自分が表現をしなくても」と考えたくなる気持ちもあるでしょう。(p.248-249)
「表現は生成AIでやったらいいじゃん」という足かせもこれからは増えてくるかな、と思っています。自分ができないところを生成AIに手伝ってもらうイメージならばいいですが、完全に代替されてしまうともう誰の表現かわからなくなってしまうので、そういうところも学校で伝えたいなと思います。
自ら手を動かすこと、労を執ることは一見して要領も、効率も悪い。でもだからといって、そもそも表現をやめてしまうほうがよいのか。そもそも自分が表現をしたいのではなかったか。ならば、多少の面倒や難儀を感じつつも、続けていけないだろうか。そのプロセスのなかで、結果以外のなにかを見出せないだろうか。
たとえば足早にAIで生成するのも一興で、それならではの効果やよさがありますが、自ら手を動かすことにも別様で独特の意味がある。その過程で得られるものはおそらく別種のものです(もちろんふたつを区別しすぎず、組み合わせることもできるでしょう)。(p.250-251)
おわりに:「最終章」から
「最終章」でも、表現をするその人自身が尊いのだという、康太郎さんの愛を感じる言葉が書かれています。こういう、「表現、楽しいよね」「あなたの表現は、あなただけのものだよ」ということを子どもたちに伝えていきたいな、と思います。
たとえばいま、あなたが絵が好きで絵を描くとします。絵でなくとも、ご自身の表現の、短歌やダンスなどでも。おそらく、それによって世界が衝撃を受けることは確率的にとても低い。でも、自分が社会から求められていないからといって、表現をやめてしまっては元も子もありません。世界を変えられないことに嘆く必要はない。変えられなくてとうぜんです。でも、あなたが自らの興味を持つこと、それをたのしむこと、その積み重ねは、誰にも奪えない体験であるはずです。だから、いくら弱くとも、変わらなくていい。あなたが変えられずにそのまま続けることに価値があります。
その弱さこそが、あなたらしさの源泉であったことを思い返してください。(p.266)
僕の書いているこのブログも、表現のひとつ。いろいろな足かせを感じたり壁を感じたりしながらも、手放して、つくって(=書いて)、続けている。自分自身もずっと表現していこう、と思いました。
(為田)
