教育ICTリサーチ ブログ

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『スマートな悪 技術と暴力について』ひとり読書会

 戸谷洋志 先生の『スマートな悪 技術と暴力について』を読みました。タイトルにある「スマート」は、「スマートフォン」や「超スマート社会」で使われている「スマート」。学校現場で、「デジタルを活用して子どもたちの学びをアップデートしましょう」と言っている僕は、「スマート」化を推し進めている側だと自分で認識しているし、先生方からもそう思われていると思うけれど、単純に「スマート」化すればいいという話でもないんだよな、とは思っている。そんな微妙な感じを、言語化してくれている本だったなと思いいます。とてもおもしろかったです。興味深かったところを読書メモとして共有します。

はじめに

 「はじめに」のところで、日本政府が掲げている「Society 5.0」という理念について言及がされています。

スマートさの内在的な価値を証言する根拠の一つは、日本政府が第5期科学技術基本計画で掲げた「Society 5.0」という理念である。これは、今後の日本社会が目指すべき未来を指し示す社会像であるが、その内実は「超スマート社会」と表現されている。つまり、私たちの社会は超スマートになるべきだと考えられているのであり、そこには明らかな倫理的規範が織り込まれているのである。実際、政府は超スマート社会を実現するための様々な技術開発に巨額の資金を投じている。
もちろん、社会がスマート化することによって私たちの生活が便利になるのは事実だろう。それによって、これまで放置されてきた社会課題が解決され、人々の豊かな暮らしが実現されるのなら、それは歓迎されるべきことだ。まずこの点を強調しておこう。
あえて疑問を口にしてみよう。スマートさがそれ自体で望ましいものであるとは限らないのではないか。むしろ、スマートさによってもたらされる不都合な事態、回避されるべき事態、一言で表現するなら、「悪」もまた存在しうるのではないか。そうした悪を覆い隠し、社会全体をスマート化することは、実際にはとても危険なことなのではないか。超スマート社会は本当に人間にとって望ましい世界なのか。その世界は、本当に、人間に対して牙を剝かないのだろうか。
そうした、スマートさが抱えうるネガティブな側面について、つまり「スマートな悪」について分析することが、本書のテーマだ。(p.7-8)

 この、「スマートさがそれ自体で望ましいものであるとは限らないのではないか」と考えることは大事だと思っています。

第1章 超スマート社会の倫理 & 第2章 「スマートさ」の定義

 「第1章 超スマート社会の倫理」では、「はじめに」でも紹介されていた「第5期科学技術基本計画」本文で、超スマート社会がどのように定義されているかを紹介しています。


第5期科学技術基本計画では、超スマート社会は次のように定義されている。

必要なもの・サービスを、必要な人に、必要な時に、必要な時だけ提供し、社会の様々なニーズにきめ細かに対応でき、あらゆる人が質の高いサービスを受けられ、年齢、性別、地域、言語といった様々な違いを乗り越え、活き活きと快適に暮らすことのできる社会

ここで畳みかけるように用いられている「必要」という言葉が、「超スマート社会」を支える根本的な価値観である。すなわちそれは言い換えるなら、無駄なこと、不要なこと、余分なことが、一切存在しないような社会に他ならない。具体的には、手続きのために待たされる時間、必要以上に煩雑な書類のやり取り、イライラする交通渋滞の解消といった、本質とは無関係な事柄に浪費される労力を最小化する社会が、その内実であるといえる。(p.17)

 こうした超スマート社会を実現するための中心的な手段となるのが、ICTだと言います。

これまでは個別の課題として取り組まれていた各分野が、ICTによって「システム化」され、統合的な「サイバー空間」のもとで処理されることで、社会はより「自律化・自動化」していくのである。
これまで、人間が頭をひねって解決していた問題が、サイバー空間によって自動的に処理され、必要なものが、必要なときに、必要な分だけ、自然に享受できる社会。それが超スマート社会に他ならない。そしてそれが意味しているのは、私たちが社会において現実に経験する事柄が、システム化されたサイバー空間によって条件づけられ、制御されていくことになる、ということである。ただし、それはもちろん、サイバー空間があたかも神のように現実を構成することができる、ということではない。なぜなら、サイバー空間を構成するデータは、現実の世界からしか取得できないからである。この意味において、超スマート社会はサイバー空間と現実世界の密接な相互連関のもとで成立する、と考えられる。(p.18-19)

 ICTによって「システム化」されて、「必要なものが、必要なときに、必要な分だけ、自然に享受できる社会」と書かれている部分については、この後で「最適化」という用語に繋がっていきます。
 学校でデジタルを活用しての「個別最適化」とも繋がる気がします。「システム化」されて、「必要なものが、必要なときに、必要な分だけ、自然に」学べる学校、と言い換えると、それで学校はいいんだっけ、と考えさせられます。

 「第2章 スマートさの定義」では、スマートという言葉の語源まで遡って意味を解説してくれています。そこでは、スマートさの本質には少なくとも2つの側面がある、と書かれていました。

検討の結果明らかになったことは、スマートさの本質には少なくとも次の二つの側面がある、ということだ。すなわち第一に、それが余計なものを排除するという性格を表すものであるということ、そして第二に、それによって人間が受動的になるということだ。この二つの特徴はいずれもその語源である「痛み」の意味を反響させている。
スマートさがもつ「賢さ」とは、この二つの特徴を有するような、ある特殊な賢さとして理解されなければならない。本書ではそれを用語として「最適化」と名づける。なぜなら、何かが最適化されるとき、そこには余計なものが存在しなくなり、またそれが「最」適を目指すものである以上、到達するべき答えは一つであって、そこに人間の選択の余地はなく、人間には能動性を発揮できなくなるからである。
スマートさとは最適化されているということである。したがって超スマート社会とは、すべてが最適化された社会である、と考えることができる。(p.43-44)

 「最適化」され、そこには人間の選択の余地がなく、受動的になる(能動性を発揮できなくなる)、という「超スマート社会」の性質が、小学校・中学校の授業で子どもたちにインストールされてしまうのは嫌だな、と思います。

第9章 「ガジェット」としての生

 いちばん好きだったのは、この第9章でした。超スマート社会で生きていくことは、システムの中に組み込まれてしまうこと、歯車になってしまうこと。

人間には、いかなるシステムにも属さないで生きることはできない。しかし、システムに属すことが、そのシステムの歯車になることを意味するのなら、スマートな悪への加担に抵抗することはできなくなる。
システムの一部になることを拒否せよ、と言うのは簡単だ。しかし、あるシステムの歯車であることを免れたとしても、別のシステムの歯車になることからも免れられるとは限らない。それに対して、いかなるシステムにも帰属してはならない、と考えることは、人間にとってあまりにも厳しい要求であるように思える。
(略)
では、私たちはどうしたらよいのだろうか。スマートな悪に対する処方箋があるとしたら、それはいったいどのように語られるのだろうか。
考えられうる路線があるとしたら、その一つの可能性は、システムに帰属しながらも悪に抵抗しうる存在として、私たち自身を理解する、ということである。しかし、そのように考えることは可能なのだろうか。そのとき人間はシステムに対してどのような関係にあるのだろうか。(p.158-159)

 「システムに帰属しながらも悪に抵抗しうる存在として、私たち自身を理解する」という可能性が書かれて、そこから20世紀の哲学者イヴァン・イリイチの思想へと話が繋がっていきます。

イリイチは、現代社会におけるテクノロジーの脅威を分析しながら、これに抵抗しうる人間と技術の関係を探究している。イリイチの主張はシンプルである。すなわちそれは、テクノロジーの開発には一定の限界が設けられるべきであり、その限界が踏み越えられると、テクノロジーの進歩は世界に対して破滅的な帰結をもたらす、ということだ。(p.159-160)

 イリイチの思想として紹介されている「テクノロジーの開発には一定の限界が設けられるべきであり、その限界が踏み越えられると、テクノロジーの進歩は世界に対して破滅的な帰結をもたらす」というのは、「道具にある2つの分水嶺」の話を思い出します。参考文献に『コンヴィヴィアリティのための道具』が紹介されていました。このブログでも紹介したことがあるのでリンクを置いておきます。

blog.ict-in-education.jp

 システムに組み込まれて、「歯車」として生きていくのではなく、「ガジェット」として生きられるようにする、ということがこの章の最後に書かれていました。「ガジェット」は、いまはキーボードやマウスなどのPCの周辺機器を呼ぶときに使う言葉ですが、もともとは「名前を忘れられた道具」を指す言葉だったらしいです。名前を忘れられているけど、いま役立つ道具。もともとの用途だけでなくて、他の用途にも役立つこともある。きっちり正しい場所に収まってひとつの役割を果たし続ける「歯車」とは違う、いろんな用途で使われる可能性がある道具としての「ガジェット」。「歯車」と「ガジェット」が対比としてとてもいい用語だなと思いました。

ガジェットとして自分を理解する、などというと、まるで自分をロボットであるかのように思い込む、という事態を想像されるかも知れない。もちろんそうしたことを意図しているのではない。これはあくまでも、アイヒマンが自らを組織の「歯車」と呼んだことと並行する、一つの比喩でしかない。私たちは、「歯車」に対して「ガジェット」を擁護しようとしているのだ。
答えは一つではない。いま目の前にある世界がすべてではない。私たちにとって、「これしかない」、「これ以外にはありえない」と思える、すべてのことが、別でもありえる。ガジェットという比喩はそうした自己理解を表現しようとするものだ。また、そうした自己理解を促すための、一つのヒントたろうとするものだ。
すべてが一様に最適化されたスマートな世界。そのなかを闊歩する、ガチャガチャとした、それぞれ違った形をしたガジェットたち。その一つ一つが、閉鎖的なシステムのなかに異空間を出現させ、それらを結び、新しい風を吹き込んでいく。刺激的な発明をもたらし、ワクワクする共創を作り出し、既存の価値を何度でも刷新していく。
私たちはそうした光景のうちに、「超スマート社会」とは異なる、もう一つの、より豊かな、テクノロジーの未来を見つけることができるのではないだろうか。(p.175)

おわりに

 「おわりに」でも、「ガジェット」について書かれていました。こちらのほうがより読みやすいと思います。

「歯車」とは異なる技術的産物の存在意義として「ガジェット」を理解するとき、私たちはそこに、超スマート社会とは異なる人間とテクノロジーの関係を想像することができる。超スマート社会において、あらゆるテクノロジーはスマートさを基準にデザインされる。スマートなシステムはガジェットを駆逐する。あるシステムの内部において、別のシステムにも転用可能な機能は無駄なのであり、存在するべきではないからだ。それに対して、ガジェット性――このような表現が可能だとして――を基準としてテクノロジーがデザインされるなら、それは、別の用途にも使うことができる、という点に主要な価値を置いた技術のあり方が擁護されることになる。「これがあれば色々なことに活用することができる」、「使う人のアイデア次第でまったく違った可能性が開かれる」ということが、ガジェット性に照らし合わせたときに優れた技術の価値になるのだ。
この意味において、ガジェットは複数のシステムを結ぶかのように機能するプロダクトであるということができる。スマートなテクノロジーが最適化するためにあるのだとしたら、ガジェットは結ぶためにあるのだ。ガジェット性の価値を尊重する社会において、人間はテクノロジーを結ぶ技術として活用することになるのである。(p.182-183)

 学校は、「超スマート社会」でシステムに取り込まれて「歯車」として生きていく子どもたちを育てるのではありません。でも、システムのなかでは生きなくてはいけない。だから、「歯車」としてでなく、「ガジェット」として、いろんなシステムの間を行き来して生きられる、ということが大事なのではないかな、と感じました。

まとめ(というか、感想)

 学校現場や教育行政の場でよく見かける「超スマート社会」という言葉と、そのなかでシステムに取り込まれないで自分らしく生きるためのひとつの方向性としての「ガジェット」(「歯車」と対比して)という言葉と、とても関心を惹かれました。すぐに役立つものではないし、すぐに先生方に伝えたり子どもたちに伝えたりすることではないと思いますが、中長期的に自分のなかで温めていきたい言葉に出会えてよかったと思っています。

(為田)