教育ICTリサーチ ブログ

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ひとり読書会:『書くことのメディア史 AIは人間の言語能力に何をもたらすのか』

 言語学者のナオミ・S・バロン先生の著書『書くことのメディア史 AIは人間の言語能力に何をもたらすのか』を読みました。原題は「Who Wrote This? How AI and the Lure of Efficiency Threaten Human Writing(誰がこれを書いた?AIと効率の誘惑が人間の書くことをどう脅かすのか)」です。

 中学校や高校で、AIに手伝ってもらって「文章を書く」活動をしている授業を見ることも多いのですが、「こういう使い方でいいのかな?このまま進んでいいのかな?」と思うこともあり、考えるヒントがほしくて読みました。
 序章で「本書は、私たちに代わって文字を書くAIにますます頼っていった先にはどんなことが待っているのか、ということについて書かれている」(p.44)と書かれていて、まさにそれを知りたい、と思いました。

 AIに手伝ってもらって「文章を書く」ことが学校でもし増えてくるかもしれません。そのときのことを考えるために、タイトルにある「AIは人間の言語能力に何をもたらすのか」ということについて、興味深かったところをテーマごとに読書メモとして共有したいと思います。

AIが書くことでこう変わる?

 デジタルでいろんなことを管理することは、便利だけれども、人の認知を変えていってしまうのだ、ということが書かれていました。

ウェアラブル・スマート・デバイスがあなたの代わりに健康管理をおこなうようになれば、自分自身で管理しなくてもよくなってしまう。私たちは血の通った肉体ではなく、一式の数値になる。書くことも同じだ。編集プロセスをAIに譲り、コンピューターツールが文章をピカピカに磨き上げると、もう一度読み直し、考え直し、書き直すための意欲が阻害されてしまうのだ。(p.101)

 記録されて数値で見られるようになるところで満足してしまって、「そのデータを見てどうするのか」という意欲が阻害されてしまう、というのはあるかもしれないなと思いました。「形成的評価」としてデータを見られるか、というのは課題として残るな、と思います。学習ログでも同じでしょうか。

 もうひとつ、哲学者のエヴァン・セリンジャーが言っている「自動化は私たちの思考をとめてしまいかねない」という話も興味深かったです。

哲学者のエヴァン・セリンジャーは、自動修正プログラムのせいでユーザーが「パーソナライズされたクリシェ」に陥りつつあるのではないかと危惧している。アルゴリズムは私たちの過去のメールやメッセージの文体を分析し、それと同じような文章を作成しようとするからだ。

予測変換技術があると、私たちは言葉について深く考えなくなり、お互いとやりとりする方法が少しずつ変わり始めるかもしれない。言葉での交流が意図的な行為ではなくなっていくと、私たちは自分自身ではなくアルゴリズムを相手に差し出すようになる。(中略)自動化は(中略)私たちの思考をとめてしまいかねない。

予測変換にまつわる調査がセリンジャーの懸念を裏付けている。ハーバード大学の研究では、予測変換を使うときは自分で言葉を考えつく場合と比較して、語彙が限定的になる(より簡潔で面白くなくなる)ことが明らかになった。私が十代後半の若者を対象におこなった研究では、21%の回答者が、予測変換を使うとメッセージがかなり短くなる、あるいは簡潔になると答えている。(p.325-326)

 このセリンジャーの懸念については、脚注で引用元が示されていました。後で読みたいと思います。

www.bbc.com

AIは「間に入る」もの

 もうひとつ、「AIを介した」という言葉がいろいろあることを知りました。これはちょっとキーワードとしていろいろ知っておきたいと思いました。

AIは、人間がすでに書き上げたものを修正することもあれば、文章を一から作成することもある。コミュニケーション研究者のジェフ・ハンコックは、AIを使用して修正や下書きをおこなうことを「人工知能を介したコミュニケーション(AI-MC、artificial intelligence-mediated communication)」と呼ぶ。コンピューターを介した人間同士のやりとり、つまりメールやインスタントメッセージを意味する「コンピューターを介したコミュニケーション(CMC、computer-mediated communication)」をもじったのだ(最近では、スマートフォンやスマートウォッチもCMCに含まれる)。AI-MCとして注目を集めているのが、AIエージェント(大規模言語モデルをもとに開発された自律型のシステムのこと)だ。AIが引き受けるタスクは、人間が書いた文章の修正または補強から、誰かの代わりに新しい文章を作成することまで多岐にわたる。(p.320-321)

 「AI-M*」というキーワードはいいなと思いました。この本のテーマで「書くこと」で言えば、 「AI-Mediated Writing」ということになると思います。検索してみたら、いくつか英語文献がヒットしました。これもまた後で読みたいと思います。

決めるのは自分であるべき

 「AI-M*」と近い言葉として、「ヒューマンズ・イン・ザ・ループ」と「AI・イン・ザ・ループ」というキーワードもメモしておきたいと思います。

最近のAI業界では「ヒューマンズ・イン・ザ・ループ」という言葉を聞くことが多くなっている。つまり、AIにすべてを任せてしまうのではなく、連携していくということだ。AIに携わる企業のなかには、誰が主で誰が副次的な役割を果たすのかを再考すべきだと訴える社もあり、「ヒューマンズ・イン・ザ・ループ(人間参加型のループ)」ではなく「AI・イン・ザ・ループ(AI参加型のループ)」という言葉を使い、主役は何よりも人間なのだと主張している。(p.355-356)

AIに対する過剰な期待が渦巻く現代では、「ヒューマンズ・イン・ザ・ループ(人間参加型のループ)」という言葉をよく耳にするようになった。つまりAIと協業して人間の知能を拡張するのであって、人間を置き換えるのではないということだ(p.359)

 ちょっとどっちがどっちかわからなくなってきたのですが、おもしろいと思います。ループには入れてあげたい(入れてほしい)です。
 「書くこと」について、主役が人間であり続けるためにはどういうふうに使っていけばいいのかを考えたいと思います。教員研修で、「デジタルで作文を書くと、原稿用紙の書き方のルールが覚えられない」「デジタルで作文を書くと、スペルチェックが入るので、正しくスペルを書けなくなる」などの質問をいただくこともありますが、それについて思い起こさせるような箇所もありました。

AIは非常に能力が高く、独自の文章を書き、人間が書いたものを修正し、必要とあれば連携もできることがわかった。いまやAIツールがあることは当たり前になりつつある。そして、私たちが何の疑いも抱かぬままAIの文章作成機能に頼るようになれば、何が起きるかについては、これまで説明してきたとおりだ。たとえば外国語を学習したり、綴りの法則を覚えたりする意欲は失われていくだろう。さらに、自分ならではの文体で書くことができなくなり、機械の言いなりになっていくだろう。(p.383)

 このあたり、実は僕はあまり実感が湧かなかったです。機械の言いなり、アルゴリズムの言いなりになって、「自分ならではの文体で書くことができなくなる」ということはあるでしょうか。そもそも、学校で子どもたちが「自分ならではの文体で書く」という機会がどれくらいあるか、というのに実感がないからでしょうか…。

多くの機械に人工知能が搭載されるようになった今、何をテクノロジーに任せ、何を引き続き人間が担うべきなのか。それを決めるのは、ますます難しくなっている。AIと人間の書き方においても、この難問に突き当たる。私たちは私生活と仕事の両方で、何を手放し、何を維持すべきなのか。
何を選ぶかは人によって異なる。とはいえ、決定を下すために、自分だけの得点表を作ることをおすすめしたい。きちんとしたものでなくていいが、自分が書きものをする際の習慣を身につけるための基準点を設けるのだ。自身で選択するのだから、一方的なものでよい。たとえば、「AIにメール返信の下書きを任せるが、文法とスタイルは私が決める」ということにしてもよいのだ。(p.427-428)

 「何を手放し、何を維持すべきなのか」をしっかり考えて、どんどん言語化していくことが大事だな、と読み終わって感じました。

まとめ(というか感想)

 いろいろと考えさせられるテーマが多い本でした。「AI-mediated Writing」というキーワードは、自分の中で大事にしていこうと思っています。AIが介在する形で、どんなふうに「書く」という知的生産の作業が変わっていくのか、子どもたちと一緒に見ていきたいと思いました。

(為田)